健康な人
とある病院の診察室で、一人の男が椅子に腰かけていた。
「はいこれ。こないだの健康診断の結果ね」
そう言って白衣を着た医者は、スーツ姿の若い男に一枚の紙を突き付けた。
いきなり紙を渡された患者の男は、眉間にしわを寄せながら紙面に目を通していく。だが書かれているのは項目の名前とその数値、加えて簡単な説明書きのみ。医学の心得のない男にはその数字の羅列が意味するところは分からなかった。
おそるおそる、患者の男は問い掛ける。
「あのー、それでどこか悪いところがあったんでしょうか……」
「ないよ。検査した限りでは何もなかった」
「なんだぁ、よかったー」
「よくないよ。これからキミには精密検査を受けてもらうからね」
胸を撫で下ろしかけた患者の男に、しかし医者は厳しい口調でそう告げた。
「えっ、なんでです? 俺、健康なんですよね?」
すると、医者はふんと鼻を鳴らして、小ばかにしたような笑みを浮かべた。
「『健康』って言葉の意味、知ってる?」
「え、病気とかケガとかしてない状態……じゃないんですか?」
「それ、50年前の考えよ。今の定義はこう──『病気やケガなどを含めた身体や精神の不調と向き合いながら毎日を健やかに過ごすこと』。要するに、自分の体の不調に気付いていないキミは全くの『不健康』ってことさ。というわけで今から検査入院ね」
医者がそう言うなり、診察室のドアが開き、看護師たちがぞろぞろと入ってきた。
「えぇ、俺明日も仕事……」
看護師に脇を固められながら患者の男は消え入るように呟いたが、医者が聞き入れることはなかった。
「『健康』より大事な仕事なんてないよ。ほら行った行った」
男は看護師たちに引き立てられ、入院棟へと向かっていった。
それから三日、男は頭の先から足の先、加えて精神状態についてもくまなく検査を受けた。
ありとあらゆる機械に通され、いくつものテストを受けた。
だが、どの検査でも結果は異状なしだった。
三日目の夜、検査結果を伝えるべくやってきた看護師は、またしても同じ言葉を告げた。
「本日の全ての検査が終わりましたが、結果は全て異状なしでした」
そして翌日の簡単なスケジュールを伝えた看護師は、患者の男の病室を後にしようとした。だが、その背中に男は思わず呼びかけていた。
「あの、やっぱり俺、どこにも異常なんてないんじゃないのかな」
すると、看護師は振り返り、背筋をまっすぐに伸ばしたままはっきりと首を横に振った。
「あり得ません」
「あ、あり得ないって……」
「現在の検査制度が確立して以来、一つの病気も患っていない人は発見されていません。これまで同様の検査を受けた人は一億人を上回りますが、その中の一人として何一つ異常のない人はいませんでした」
淡々と、機械のような口調で看護師は告げる。
その迫力に気圧されたように、男はぽつりと漏らした。
「なにそれ、こわ……」
「そう、怖いのです。ここまで異常が見つからないということは非常に発見の困難な難病か、あるいは未知の病ということもあり得ます。ですがご安心を。我が病院は必ずあなたの病気を見つけ出し、『健康』にしてみせます」
そう言うと、看護師はぐいっと口角を持ち上げて笑顔を作ってみせた。だが、男には機械が表情のようなものを作っているとしか見えなかった。
それからさらに四日が過ぎた。
次第に検査の数は減り、男はベッドの上で退屈を持て余す時間が増えていった。
若さゆえに体力は有り余り、本人にはケガや病気の自覚もない。
退屈が不満に変化するのはすぐだった。
「先生、俺はいつまで入院してればいいんですか?」
男は不満を隠そうともせずに、病室にやってきた医者に問い掛けた。
当然と言えば当然だ。検査のための入院のはずなのに、昨日は検査が一つで、今日は検査なしと言い渡されたのだ。
医者は答えた。
「このまま異状が見つからなかったら三か月で一旦退院してもらうよ」
「三か月!? そんなに俺を閉じ込めておくつもりか!」
「病気の早期発見が我々の義務だからさ」
「病気病気って、あんたら俺を騙そうとしてるんじゃないのか? なあ、一週間調べて何も出てこなかったんだからもう健康ってことでいいだろ!」
その瞬間、医者の動きがピタリと止まった。
「……今、なんと?」
「何度でも言ってやるよ! 俺は健康なんだから、さっさとここから出してくれってな!」
男のその言葉を聞き届けると、医者は手をパンパンと打ち鳴らした。それを合図にしたように病室のドアが開き、看護師たちがぞろぞろと男のベッドを取り囲んだ。
「はあ!? なんだよこれ! 俺をどうする気だ!」
医者は喜び半分、悲しみ半分の表情を浮かべていた。
「いやー、三日前くらいからそうじゃないかと思ってたんだけどね。キミ、健康病だよ。健康に対して異常な執着を示し、実際はそうでないのに自分は健康だと言い張る――まさにキミの症状そのものだ」
「はあ!? なんだそれ、聞いたことないぞ!」
「そう、ここ最近発見された新しい病気だからね。さあさあ、キミは転院だ。専門の施設でこれからじっくりキミの病気と向き合うんだよ」
そして、男は警官に護送される凶悪犯のように十数人の看護師に囲まれ強引に歩かされていく。
「待て、待ってくれ! 俺はそんなんじゃない! 健康なんだ――」
病室から連れ出された男は断末魔のような叫びを残し、廊下の奥へと消えていった。
その後ろ姿にひらひらと手を振りながら、医者は一人呟いた。
「いやー、同情するよ。健康病は治療が非常に困難だからね。それでも、今この瞬間キミは『健康』に一歩近づいたのさ。おめでとう」
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