第16話 grazioso~優美に~

 初めてだった。美彩の我が儘はきっとこれが初めて。確かにもう一度ピアノをちゃんとやってみたいと思っていた。店で演奏していたと言っても本格的なレッスンではないし、やり込んでもいない。悪い言い方をすれば、中途半端にしかやっていなかったからブランクはかなりある。それなのに今からでも本当に間に合うのかな…。

「…桜花大?」

「うん」

なんとなく、何気なく、現役音大生の渡辺さんに相談してみた。

「駄目ですよ。そんな大学」

「そんなって…」

「そんな大学じゃなくて、うちの大学に来てください」

「えっ」

「うちもエリート音大です。うちの方がいいに決まってます」

「渡辺さん、でも」

「一緒に…」

「ん?」

「一緒に…また先輩と同じ場所で一緒にやりたいんです。特別編入って言っても学年は、私と同じ一年ですよね?だったら、授業だってレッスンだって一緒ですよね?」

「そうだと思うけど…」

「今よりも、もっともっと沢山の時間を一緒に過ごしたいんです…」

「…渡辺さん」

「私じゃダメですか…まだ、私じゃダメですか…」

「…ごめんね。美彩じゃなきゃダメなんだ」

「…やだ」

「渡辺さん…」

「嫌です…まだ、まだ諦めたくない…」

「…」

「もう桜花に行けばいいじゃないですか! そしたら、負けませんから! 絶対、絶対、先輩になんか負けませんから…私が1番になってみせますから!」

「…うん。私も渡辺さんに負けないように頑張るね」

「…負けないもん」

「ふふっ、頑張ろうね。渡辺さん」

  俯いてこっちを見てくれなかったけど、渡辺さんはちゃんと頷いてくれた。傷付けてばかりなのに、渡辺さんは離れて行かずにいつも傍に居てくれる。言葉や言い方はキツイ時もあるけど、本当はとても優しくて繊細な子なんだ…。

 負けないよ、渡辺さん。私はまた、ピアノに本気になるから…。


 金曜日の夜。珍しく今夜はバイトの無い日。少し前に貰った合鍵で扉を開けて、買ってきた食材を冷蔵庫にしまう。ベランダに干してある洗濯物を取り入れてたたみ、必要なものにはアイロンをかけてクローゼットにしまい、その後は、浴槽を洗う。まるで主婦みたいだと不意に一人で笑ってしまった。今夜は、何にしようか…。 ガチャっと扉が開く音が聞こえてすぐに姿を現す愛おしい君。

「おかえり、お疲れ様」

「ただいま」

 そう言って抱き着く彼女からほのかに香るバニラの匂い。甘い。甘いね、美彩。

「椿先生、一週間お疲れ様です」

「もう、その呼び方やめてってば」

「どうして?」

「先生じゃないもん。彼女でしょ?」

可愛い

「そうだね、彼女だね」

「もう…」

頬を膨らませて不機嫌です。と主張している表情も可愛くて仕方がない。

「ご飯もお風呂も用意できてるよ。どっちにする?」

「うーん…」

「疲れてるだろうし、先にお風呂にする?」

「…」

「美彩?」

「ねぇ、」

「ん?」

「…一緒に入ろう?」

「えっ」

「…いや?」

狡い。ずるいよ、まったく。

「いやじゃないけど、」

「けど?」

「恥ずかしいから無理」

「なんで? もう全部見てるし、見せてるじゃん」

「っ…」

「ねぇ…なんで? 侑?」

「なんでって…恥ずかしいんだって。もう、はやくお風呂入ってきなよ」

「…可愛いなー。可愛いよ、侑」

「もういいから…」

  熱い。顔が特に。自分から誘うのは平気だけど、美彩からそう言った雰囲気を出されるとどうしても心臓がもたない…。


「美味しい!」

「良かった」

「今日も色々家事してくれてありがとう」

「どういたしまして」

お風呂上りの如何わしい格好からすぐにパジャマに着替えさせて、今は二人でゆっくり食事中。

「美彩、あのさ」

「なに?」

「大学のことなんだけど、」

「…うん」

「…行こうと思う。桜花に」

「本当?」

「うん」

「…私があんなこと言ったから、無理してない?」

「ううん。ちゃんと自分で色々考えて、もう一度やりたいって思った」

「そっか。良かった…」

「それに、」

「ん?」

「もっと美彩に聴いてほしい。美彩に私の演奏をもっと沢山…」

「侑…」

「だから、中途半端な格好悪い演奏はできないでしょ? ちゃんとまたピアノに本気になろうと思う。えっ…なんで泣いてるの?」

俯いて鼻をすする音が聞こえる。

「美彩?」

「嬉しい…」

「えっ」

「侑からピアノを奪ってしまったってずっと思ってた、でもこうやってまたピアノをやりたいって言ってくれて、私に聴かせたいって言ってくれて……ありがとう。ありがとう侑」

「泣かないでよ」

「…うん…」

もう、愛おしすぎて苦しい。

「美彩」

まだ顔を上げてくれない美彩に近づいて抱きしめる。

「侑」

「好き。大好き。好きすぎて苦しい…」

「私も好き。私も大好き」

  そっと口づけたそこは、甘い卵とケチャップの味がして食事中だと言う事を思い出す。美彩から離れて自分の席に戻ろうとしたけど、体が動かない。ぎゅっと私の後ろからお腹に回された綺麗な腕。

「美彩?」

「…」

「オムライス冷めちゃうよ?」

「…いい」

「せっかく作ったのに…」

「せっかくこんなに良い雰囲気なのに、侑はご飯の方が大事なの?」

「…」

 どきっとして美彩の顔を見れば、完全にスイッチが入ってる。あぁ…この瞳は大変だ。経験上この後の過酷さが安易に想像できる…。

「待って、私まだお風呂入ってないから」

「いい」

「だめ」

「いい」

「いやだ」

「…いやなの?」

確信犯。相変わらず、確信犯。

「…その聞き方は、ずるい」

「ふふっ、侑これに弱いよね」

「…わざと?」

「どうかなー」

「わざとだね…」

「なんだってするよ?侑が好きになってくれるならなんだって。ずるいことも」

 ぐっと顔を寄せて耳元で湿った声を響かせる。もう、全部美彩のせいだから…

「…ご飯、もう要らない」

「ふふっ」


「早く…」


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