後悔の龍
天使の感情抑制は主に地上に降りたときに働くものであるが、まだ幼く力の弱い天使達は統率されるために天界にいる間も抑制がかかる。
元々天使の頭に施される感情、記憶の抑制とは、天使がそれぞれの意思を持って叛逆や暴走をしないようにするための措置である。
しかし思考回路にまで抑制がかかっているようでは、その天使本来の実力は発揮できない。
狂化という強化方法はあるが、あれは理性を失う代わりに闘争本能と身体能力を極限まで高める術であり、天使の感情及び記憶、行動思考の抑制とは別物である。
故に天界の天使はその能力を発揮するため、一定以上の地位に上がる度にその抑制が外れていくものであるが、完全に外れることはない。
繰り返すが、抑制とは元々天使の叛逆や暴走を止めるための措置であるために、完全に外してしまっては意味がないのだ。
無論、完全に外れていない天使がいないのかと問われればそうではないのだが。それでも数はほんの一握りである。
抑制が完全に外れた天使は、それまでに思い出すことを制限されていた記憶の引き出しが一気に開き、今まで封印されていた感情が爆発する。
常人で言うところの、高熱を出して幻覚に魘される感覚に近い。
自らの魔力によって外れかかっていた抑制を外させまいと、天界より下されていた重複命令。
数十数百と同じ命令をその命令を遂げるか死ぬまで繰り返す重複命令に対し、その命令信号と抑制の魔術を外から一気に破壊するという手を繰り出した天使の策も、途中で妨害があり中断。
抑制は崩壊一歩手前で止められたものの、元々魔力だけで崩れつつあったものがそのまま耐えきれるはずもなく、抑制はそれを成している魔術ごと自壊を始めた。
その結果脳を中心に駆け巡る激痛と苦痛。
高熱と吐き気と幻聴とが同時にその体を襲い、強制的に過去の記憶を引きずり出されて、脳内の自分がその中を飛行していく感覚。
激怒、悲愴、混乱、苦悶、その他一切の感情が入り乱れ、情緒などというものが存在しなくなっていく。
歯を食いしばり、地面に爪を立て、泣きじゃくり、唸り、叫ぶ。
そうした感情の爆発によって意識を失い、また取り戻しを繰り返して、意識を完全に取り戻したとき、そこにあったのは恐ろしいほどに涼しく、そして軽い自分の体である。
天使は皆これで、一度は死んだと思い込むと言うが、
戦争八日目の真昼。太陽が頂点に昇っている頃。
翔弓子は目を覚まし、痛む体を起こして周囲を見回す。
自分がいるのはどこか洞窟の中で、側には焚火をした跡と獣の肉。そして自分にはその獣のであろう毛皮が被せられていた。
そしてそれらをやってくれたのは、間違いなくそこで眠っているドラゴンシスターであることは間違いなく。
「……もし、もし」
躊躇なく、翔弓子は
龍道院は起きたとき、まず翔弓子の豹変ぶりに驚かされた。
見た目は問題ない。
若干の青みが混じった白銀色の長髪。
肉体年齢の割に発育している体は、相変わらず同じ女性として羨ましくもあり恨めしい限り。
だがその瞳には光が宿り、機械的だった眼差しに感情と言う温もりが付加されていた。
その上ほとんど感情が現れなかった顔に、表情が現れていた。
今はその澄んだ瞳が、龍道院を心配している。
そして何より驚かされたのは、ずっと抑制のせいで封じられていたのだろう彼女本来の性格と、そこから現れる口調だった。
ずっと機械的な言葉を口にしていたのが、抑制によるものだったと言わざるを得ないくらいに、彼女の様子は少し砕けていた。
とはいっても彼女の操る口調は、龍道院からしれみれば孤児院のマザー並に固いものであったが。
「もし、せわしなくて申し訳ありませんが、戦争はどうなりましたでしょうか。私は確か
「……あんた、何も憶えていないの?」
「今は、記憶が混乱しているのです。過去、抑制の魔術が働いていた頃に体験したことが雪崩のように流れ込み、私の頭を
驚くだろう、この口数。
抑制が働いてた頃も別に少なかったわけではないが、感情も乗って繰り出される言葉の数は自然と多くなっているのがわかる。
彼女自身に自覚はないだろうが、しかし龍道院からしてみれば大きな変貌であった。
「……今は戦争八日目。脱落者が一人出たから、多分あの骸骨皇帝が倒れたんでしょう。あのキザ天使がどうなったかは知らないけど、でも報告はないから生きてるんでしょうね。あいつからあんたのこと頼まれて、ここに匿ってるのよ」
「そう、でしたか……共に戦うことも叶わず、私は足手纏いになってしまったのですね」
この子……あのキザを殺すとかなんとか言ってなかったっけ? まだ混乱してる……?
「しかし、状態もこうして回復致しました。これより魔天使様と合流を――」
「コラコラコラコラ! 何してんの! まだ寝てなさい! 魔力が完全にないでしょうが!」
起き上がろうとするところを強制的に寝かされる翔弓子。
龍道院に言われるまで気付かなかったが全身は痛み、魔力は空。まるで動ける状態ではなく、戦闘などできるわけがない。飛ぶ体力すら、残されていなかった。
全身は汗まみれで、肌を汗が流れている状態である。それが冷えて寒く感じることに、翔弓子は脳の抑制が外れたことを実感した。
「とにかくまだ寝てなさい。今のあんたが言ったって、ただ死ぬだけよ」
「……魔天使様に、任されたからですか?」
「馬鹿を言わないで! 私は人に頼まれなきゃ子供を助けない外道とは違う!」
だと思いたい。
だが現実に、
翔弓子はきっと、今なら抵抗もされずに簡単に自分を殺せますよと言いたいのだろうが、そんなの冗談じゃない。
これ以上子供を見殺しに――ましてや自分が手に掛けることなど、断じてあってはいけないことだ。
自分は違う、男達とは。人間の男達のような、平気で見殺しにするような存在ではない。
そこには葛藤があり、熱情があり、憤怒がある。子供の死を平気で語れる大人など、さっさとくたばって犬の餌にでもなればいい。
子供を殺す奴こそ害。人間の大人という災厄だ。
自分の利益と言う者を計算し始めればもうダメだ。子供を見捨てることすら計算にいれる。自分の都合のいいように解釈をする。自分の都合のいいように処理をする。
今この場で翔弓子を処理するのは、そういう人間のすることだ。男達のすることだ。
そんなクズ共と私は違う。
自分の価値観を押し付け、自分の都合のいいように教え込み、自分にとって調度いい存在に作り上げようとする。そんな大人とは違う。
すべての子供の味方であり、すべての子供を救う者。すべての無垢を無垢なままに、無邪気を無邪気なままに護る者。それが龍道院である。
故に処理なんてしない。するわけがない。そう思われることすら恥だ。
むしろ処理するべきは、子供を処理しようとする奴らだ。
今度こそ殺す。確実に殺す。二度と負けなどしない、屈しもしない。
今度は手足がなくなろうと、牙があれば首筋に噛みついて殺す。
そう、今は無き尻尾をさすりながら思う。
「ともかくそれ食べて、寝てなさい。私が護ってあげるから」
「……そうでした。段々と思い出して来ました。あなたは私をも子供と決めつけて、私を護ろうとするくらいに、融通の利かない方でしたね」
「何度だって言ったげる。あんたは子供よ。なんも知らないし、なんも考えない。直感だけで生きていける時代は、とうの昔に終わり果てた。考えなしで動けば死ぬ時代よ、今は。考えの浅い子供が生きてられるのは、考えて生きる私達大人の女性が護るから。今のあんたは、あたしに護られてないと生きていけない子供。あのキザ天使に護られないと生きられない、子供よ……今はね」
「焚火の薪持ってくるわ。それ食べてさっさと寝なさい。絶対にそこを動くんじゃないわよ」
金色の魔鎌を握り締め、龍道院は森へと消える。
その脚は速く、すぐに翔弓子を匿っている洞窟は見えなくなり、龍道院はそのままの速度でしばらく歩き続けた。
龍道院の中には今、異修羅の死がグルグルと輪廻していた。
忘却すれば思い出し、思い出しては忘却しようとする。その繰り返しである。
何度その記憶を殺しても蘇ってくる。異修羅の死も、異修羅が屍として復活していたのも。
すべては、骸皇帝という永遠を生きて来た大人の男のせい。
そう、すべては男のせいだ。
男が悪い。我欲に塗れて周囲を顧みず、他の一切を邪魔と吐き捨てて生きる、そんな男が。
憎い、憎い、あぁ憎いとも。
父を殺し、私を追い続け、殺そうとした男達が。
とくに正義と言う誇大広告を掲げ、自分達の害になり得そうなものを一緒くたに殲滅しようとする騎士という人種が。
殺して殺して殺し尽して、死んで死んで、死に尽くせばいい。
すべての男達よ、私の炎に焼かれて、鎌に斬り裂かれて、死ぬといい。
世界にとっておまえ達の死が、正義の鉄槌だ。
あぁイライラする。虫の居所が悪い。
何度忘れても忘れ去れない子供達の死が、今こうしている間にも死んでいるのだろう子供達の悲鳴までもが聞こえてきそうで、無性に腹が立つ。
その牙はついに天界にまで伸びていた。
脳に抑制なるものをかけ、子供達を強制的に戦わせる天界という組織。
彼らが死ねば、天界に住む子供達すらも救える。
ならば一刻も早く玉座を手に入れ、勝利するのが最善の手ではないだろうか。
ならば今、こんなことをしている暇はないのではないだろうか。
いや、こんなこととはなんだ。
子供を助け、護り、健康になるそのときまで看てあげるのは当然のこと。龍道院の義務ではないか。勝利を目指そうとして盲目になったか、なんということだ。
龍道院が今、一瞬とはいえ子供を捨てようとした。それは事実。
子供を一人見捨てておいて、このうえさらに捨てようなどと、そんな愚考をするのはこの頭か。
あぁ死ねばいい、死ねばいいのに。こんな考えをするようになっている細胞のすべて、私の仲から消え去ればいい。
「貴様、同族の臭いがするな」
あぁ本当に、虫の居所が悪い。
虫は頭上から語りかけて来て、自慢なのか二振りの剣を浮遊し見せびらかしていた。
鞘に収まった状態ではあるが、柄と鍔だけでも相当な代物であることは判断できる。
白い方が聖剣で黒い方が魔剣――いや、どちらも属性が異なるだけで聖剣なのかもしれない。まぁとにかくそんなことはどうでもよくて、憂さ晴らしに破壊させろと言いたいところではあるが。
そいつはあろうことにも、大嫌いな騎士を模したかのような格好をしていた。
「私を見上げることを許し、私に話す権利を与える。故に速やかに我が問いに答えて自ら喉を切り裂くがいい」
「偉そうに……今まで出てこなかった最後の参加者か!」
痛みが走る。
見れば、自分のすぐ側に白銀の長槍が刺さっていて、自分の脇腹を浅く斬っていた。
それをやったのは確実に、ずっと腕を組み続けたまま仁王立ちで浮かぶ女。
「口の利き方がなってないな、
「あんた、あの子と同じ天使なの……? 翼がないけれど」
「翼の有無で天使かどうかなど計れると思うなよ。そもそも貴様らの文字で、天使とはその通り天の使いと書くのだろう。ならば天界の使者である私は天使であり、貴様らは地上の
「さっきからアリ、アリって失礼な奴。あの子と同じ天使とは思えないわ。私達がアリなら、あなたは羽アリのつもりなの?」
「口に気を付けろと警告したはずだ、
刺さっていた長槍が彼女の手指揮に応じて自らを地面から引き抜き、その姿を分裂させる。
初見では数えきれない数にまで分かれた槍は一斉に龍道院へと襲い掛かり、その周囲一帯の森ごと粉砕した。
「口で言ってもわからんのなら、中指でも立ててやれば済む。しかし貴様は我らを羽アリと侮辱した、故に――」
「圧倒的質量で圧し潰す」
「できるものならやってみろ!」
異修羅の形見である、雷霆を司る黄金の鎌。
一挙に長槍の分身を薙ぎ払い、粉砕し返して見せたが、長槍本体を砕くことはできず、傷をつけることもできなかった。
フラリとまた独りでに動く槍が、彼女の元へと戻っていく。その槍を見た彼女は嘆息ではなく、鼻で笑うような吐息を零した。
「強気な姿勢だな、
「冗談じゃない! 子供を残して私が死ねるか! あんたみたいなクソッたれ野郎をぶっ潰して、私が勝つ! 勝って玉座を手に入れる!」
「くたばりやがれ、羽アリ野郎!」
力強く中指を立てて突き上げた龍道院に、白銀の長槍が襲い掛かった。
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