唐突
低体温症と診られる
六日目の二四時間をすべて費やし、洞窟で焚火を炊き続けて回復に徹した結果だが、しかしまだ完全とは言い難く、不完全な状態である。
しかし純騎士は洞窟を出る。奥では
低体温症は魔天使の診たとおりだったらしい。この大陸に来てから六日間、ずっと平気だった朝の低気温も身に沁みて寒い。
山間部にいるのも原因だと思われるため、一刻も早く下山したい。その思いから山を下りる純騎士だったが、足取りが思いのほか重い。やはりまだ、万全ではなかったようだ。
少しずつ、少しずつ険しい山道を降りていく。だが途中で見た光景に、純騎士は足を止めた。
ずっと下の山道を、三つ尾を持った巨大な牛の群れが駆け抜けている。金の角を輝かせる、青い眼の牛だ。大きな体を揺らして地響きを鳴らしながら移動する姿は、圧巻である。
エタリアの近くにある森にも大きな牛の獣はいるが、しかしそれはただの牛。角も普通、尾も一本、とくになんの特徴もない牛だ。きっと目の前を走る群れは、神獣か何かなのだろう。
「あれはかつて、この星を滅ぼしかけたという天の牡牛の子孫ですね。数を増やすために小型化し、あのサイズにまでなりました。気性が荒い上に雑食なので、近付くことはお薦めできません」
不意に、やけに丁寧と説明をする声が一つ。
それは無論、純騎士が自分で自分にしているわけではなく、牛の正体を知らない純騎士に他の誰かが説明しているわけである。
それを知っている純騎士がその声の方に振り返ると、そこには確かに人がいた。
確実に魔天使ではない。彼にこのような丁寧な説明はできないだろう。ならば誰だと、純騎士は目を凝らす。調度太陽の逆行を受けて影になっているその像を見つめ続け、純騎士はついにその姿を見た。
「お久し振りです。といっても、まだ数日しか経っていないのでしょうけど」
「……
まだ不完全とは思えない敏捷性で、純騎士は距離を取る。羽織っていた獣の皮を棄てて、レイピアを抜いてそのまま構えた。
警戒するのも無理はない。何せつい最近に自らの手で殺した人間が、平然と目の前に現れたのだから。そう、そこには確かに
長身細身にシャツとズボンをまとい、度の高い眼鏡の奥は優しく光る細めな瞳。その手には魔術の媒介となる魔導書と、その魔導書に書き綴るペンが握られている。
間違いなく、彼は永書記だった。唯一以前と違うのは、髪型か。前髪の量が増え、額が全体的に隠れる感じになっている。
永書記は臨戦態勢間近の純騎士に、持っていた魔導書とペンを投げた。純騎士の足元に落ちるそれらを差して、永書記は両手を上げる。
「預かっていていただけますか。僕はあなたと、お話がしたいだけです。その本とペンがなければ、僕は何もできない。あなたも存じているはず」
「……あなたは嘘をつかれるのが上手ですので、それすらも嘘のような気もするのですがね」
純騎士には珍しく、皮肉たっぷりに言ってやる。そのとき浮かべたのは、とてつもなく意地悪な笑み。しかしそれも、純情であるからこそ出るものである。
そんな純騎士の対応に、永書記はそうですよねと言わんばかりの苦笑を浮かべる。そのままその場で両膝をつき、さらに何もしないという姿勢を純騎士に見せた。もうこれ以上、警戒レベルを下げる姿勢はない。
「話をしたいだけです。この場でも構いません。どうか、一瞬だけでも僕を信じてはくれませんか」
「私を半永久的に殺して蘇生してを繰り返すと吠えてた人を、信じろというのですか?」
「虫のいい話ですけど、そういうことです……」
「呆れました」
純騎士は完全に信用する態勢にはない。
純騎士の称号を得た純情な心の持ち主である彼女にとって、嘘は絶対悪。虚言や虚構は混乱を招くだけの産物であり、時によっては国をも亡ぼしかねない爆弾だと理解している。
故に自分に嘘をつき、戦争に勝とうとした永書記を許さない。まるで子供のような言い分だが、しかしそれが純情と言えるものである。時折それは、何よりも子供らしく見えるものだ。
だが純騎士も、もう二十歳になる成人である。さらに言えば、自分よりも年上の騎士達を相手にし、それらを束ねていた存在。嘘を許せないのは変わらないが、一応折れるところは知っていた。
「そのまま動かないでください。手も下ろさず、目も瞑って……その状態で話してください。体の震えくらいは許しますが、目を開けたら即刻――今度こそ殺します」
「……わかりました」
永書記は目を閉じる。閉じさせたのは、幻影幻覚系統の魔術が眼光でも繰り出せるからだ。
純騎士はその間に、魔導書とペンをさらに遠くへ蹴飛ばした。
永書記は魔術師なので、双方を遠距離からでも回収する術があるとは思うが、それにもインターバルが存在するはず。そのインターバルを確実に突くために、突きの構えを崩さなかった。
「まず初めに、僕は間違いなくあなたに殺されました。僕はあなたに脳を突かれ、命を落とした。それは、間違いありません。今の僕も、生き還ったというのは正解ではない」
「どういうことですか」
「……前髪を上げさせていただきます」
許可を得て、永書記は自らの前髪を掻き上げる。するとそこには確かに、純騎士が開けた風穴があった。そのとき首もへし折ったはずだが、しかし首は治っていた。
「僕は、死人です。ただ生前の記憶を持ち、動いているだけのただの死体。僕はある方の魔術によって、こうして動くことを許されている。その名は、
「骸、皇帝……?」
無論、知らない名などではない。むしろその名を聞けば恐怖するほど知っている。
黄金の帝国、ヴォイの骸皇帝。千年もの間続く帝国の建国者にして皇帝。地上で最強の魔術師と名高い、不死身の皇帝だ。
そんな皇帝の参戦を知って、純騎士は驚愕の後に絶望感を感じて力が抜けた。魔術戦になればまず勝てない上に、相手は不死身。勝てる要素がまるでなかった。
「僕は皇帝陛下の魔術によって復活し、動かされている。すでに僕の体から、参加者の証である刻印は消えています」
「……あなたの刻印はどこに? その首筋の刻印は違うのですか?」
「あぁ、これは、魔導書に記述することで発動する僕の魔術、“
左肩では、確認するのは難しい。といっても脱がせればいいだけの話だが、それは避けたい。まず接近しなければならないし、何より見るためには見なければならない。
何をって、それは男の肌だ。純潔の純騎士は、異性の肌に対する耐性がこれでもかというくらいに低い。唯一見たことがあるのは、戦死した父のそれくらいだ。
故に確認はせず、再び構えて続ける。
「ではあなたは参加資格を失った、ただの亡霊ということですね」
「皇帝陛下の意のままに操られる操り人形、と言った方が正しいかもしれません」
「その操り人形が、何をしに来たのですか? まさかまたあなたを勝たせたいなどと虚言で欺き、私を殺すつもりですか」
「……逃げてください。ここからずっと遠くへ」
たった今繰り出された言葉は、純騎士の構えをまた解いた。レイピアの切っ先は下を向き、なかなか上がらない。
そんな純騎士に、永書記は続ける。
「骸皇帝陛下は、ご存じの通りのお人です。命を惜しいなんて思わない、死体を見つければ僕のように動かし、僕の懇願を叶えるという優しい言葉の裏で、計画を実行に移そうとしている」
「計画……?」
「僕がこうして自我を残し、自分のために動ける時間ももうそうはないでしょう。だから一度だけ、今だけ言います」
「戦線を離脱して、速やかに逃げてください。皇帝陛下の計画が成就すれば、おそらく確実と言える確率で勝負が決まる。大陸の参加者の大半が、命を落とすでしょう。しかし成就すれば、戦争は終わります。この大陸から逃げられるんです。だからそれまで、逃げてください。逃げ延びてください。あなたでは、骸皇帝陛下には敵わない」
二人の間に、広がる沈黙。
片方は言いたいことを言いきったからであるが、しかし片方は唐突の懇願に驚愕を跳び越えて脱帽しているからであり、まともな思考をすることができなくなっていた。
物事は常に唐突に、本当に唐突に進んでいく。人にはその唐突に対応する柔軟性が求められるわけで、それが高い人ほど社会では有利な立場に立つと言っても過言ではないだろう。
そんな柔軟性を兼ね備えているからこそ、純騎士は騎士団の副団長に選ばれた。しかし今このとき、純騎士の柔軟性は酷く欠如していた。
何せ今の永書記の話を、疑えない。疑うことができない。これは嘘だと思えば思うほどに、何が嘘なのかがわからなくなる。
彼は一度、命を奪う嘘をついた。国のためとはいえ、一度だけとはいえ、こちらを殺す嘘をつこうとした。それは罪だ。
そんな人が、何故自分を助けようなどと思っているのか。罪滅ぼしか。しかしまた嘘かもしれない。
初めて会ったときだって、決して疑わなかったわけではなかった。しかし最後には半信半疑ではあったが彼を信じた。だがそのわずかな信頼すら、裏切られた。
そんな彼をもう一度信じられるのか。できるわけがない。彼が生前ついた嘘は、それほどまで酷かった。
だから、また信じろというのは難し過ぎる。彼の前科が、信じるということを余りにも難しいものに変えていた。
「逃げてください、純騎士さん。あなたに玉座への執着はないはずだ!」
確かにそうだ、執着はない。生きて帰れればなんでもいい。だが、だとしても、彼の言うことのどれだけが真実でどれだけが嘘なのか、見極めることができない。
現に初めてのときは、失敗している。
「おいおい、密会ならもっと気付かれねぇようにやれよ。ここまで声が響いてきたぜ」
不意に、横から聞こえる声。見ると二人を見下ろす形で、魔天使が片腕に炎を宿して立っていた。かなりある高低差など物ともせずに飛び降りた魔天使は、純騎士と永書記の間に着地した。
「ったく、大声で話してくれるぜ。勝つ気はないだの勝てねぇだのと。よぉそこの優男、俺が許可するから目を開けな。んでもって俺の目を言ってみやがれ、俺が誰に勝てねぇって?」
展開の変化について行くため、許可された永書記は目を開ける。そこにいた魔天使の姿を見た永書記は、わずかながらに驚愕の面持ちだった。
「あなた、は……煉獄の魔天使……そうですか。あなたも参戦していたとは、思いませんでした」
「ほぉ、俺のこと知ってんのか。悪名じゃなきゃいいが?」
「生憎と、悪名しか世界には知れ渡っていません。ですがそれが天界のでっち上げであることも、僕は知っています。リブリラの永書記が、間違った情報を記述するわけにはいかないので」
「へぇ……噂には聞いたことがあるが、表に出てる奴見んのは初めてだな。なんだか頼りねぇ野郎で安心したぜ。こいつを殺れそうにはねぇわな」
「えぇ、すでに一度返り討ちに合っています。純騎士さんの実力は、この身ですでに知っているつもりです」
魔天使は軽く笑い飛ばす。そして落ちていたペンと魔導書を拾い上げると、その手の炎で燃やし始めた。唐突の行動に驚く純騎士だが、魔天使は舌を打つ。魔導書もペンも、まるで燃えていなかったのである。
「対魔術素材かなんかか? よく見りゃこの本、人間の皮で表紙作ってんじゃねぇか。聖人か何かか……まぁ、いいがな」
軽いモーションで投げられた魔導書とペンを、永書記は受け取る。まだ炎をまとっているにも関わらず受け取った永書記だが、熱いともなんとも言わなかった。
死人に感覚はないということだろう。
「さてと、話を本題に移すぞ。てめぇ言ったな、骸骨皇帝の計画が成就したとき、戦争が終わる時だって。その計画とやらを吐け。女騎士が勝ちにこだわりなくても、こっちにはあるんだよ。ってか、さらっと誰にもそいつ止めらんねぇみてぇな言い方してんじゃねぇよ馬鹿。んなもん、やってみなきゃわかんねぇだろうが」
「相手は不死身の皇帝ですよ? 不死身の能力を、どうやって倒すというんですか」
「俺は元天界の天使だぞ。地上で得られる不死の一つや二つ、解除する方法ならいくらでもある」
「まぁ俺がそれできるのかって聞かれると、大多数は無理だがな。俺殴る蹴るしかできねぇし」
頼もしいと思った矢先に、出鼻を
「まぁ不死身野郎は俺が倒すとして、問題は計画の実態だな。さてと吐いてもらおうか? どんな計画だ」
「それは……」
「そんなに聞きたければ、私自ら教えてやろう」
三人の空間に響く低音。それが声だと気付くのに、三人共数秒かかった。その数秒で、三人はあっという間に転移させられる。
目の前には無数の骸骨で組み立てられて作られた巨城があり、その上階から黒い男――骸骨が見下ろしていた。
全身に輝く魔術刻印と、その中でも一番に輝く参加者の証である刻印。彼こそまさに、ヴォイの骸皇帝以外の何者でもなかった。
「首を垂れよ、虫けら共」
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