誰だ誰だ誰だ

 あの方は笑っておられた。

 呼び出された私が、初めに見たあの方の表情は笑顔だった。実に軽快で、明瞭とした笑みだったのをよく憶えている。

 その笑みを浮かべたまま、あの方は私に言ってくれた。

――ありがとう。私の呼びかけに応えてくれて。君が来てくれれば、私は……

 とても優しい声だった。私があの方をと呼ぶのは、その優しさと、あの方が明かしてくれた私の使命に感銘を受けたからに他ならない。

 始めこそ思考すらままならなかった私の体。物を語ることすらできなかった私の体。だがあの方は私から首を奪う代償に、私に意思疎通の手段をくれた。体の中に魔力さえ満ちれば、話す力さえくれた。

 そのときも、あの方は笑って言ってくれた。

――彼女がいるんだ。ちゃんと話したいだろう?

 私は、あの方の差す彼女が誰なのかわからなかった。今もまだ、私の記憶の中には彼女に該当する人物はいない。

 というよりも、そもそも私は何者なのだろうか。

 私はあの方に呼び出されるよりまえの記憶がない。私が一人の成人男性の体で呼び出された以上、成長の過程を飛ばしたはずはないのだが。

 記憶喪失。そんなものかとも思ったが、あの方はそう訊くと首を横に振られた。

――曖昧なんだね。やはり無理矢理な召喚だっただろうか……

 あの方の言うことはわからない。が、だが私は曖昧らしい。

 私はどうやら存在そのものがまだ曖昧で、確立されていないらしい。

 だがそう言われると共に、感じるものがある。

 それは虚脱感。

 何かが私から欠けている。何かが私にない。この胸の内にずっと秘めて、大切にしていたはずの重要な何かが、私の中から消えている。

 目の前に宝箱があるのに、その鍵が手元にないような虚しい感覚。

 目の前に広大な海があるのに、浮き輪が無くて泳ぎに行けない感覚。

 目の前に素晴らしい好敵手がいるのに、私には効き腕がなくて、満足に戦うことが叶わない感覚。

 どれも並べると微妙に違っていて、だが少し似ている気がする。

 私の中はこんな、あたらずとも遠からずと言った具合の気持ち悪さに侵食され、欠けている大切なものによって支配された。

 だから私は、あの方に与えられた使命に没頭している。何かに熱中して集中しないと、私は私の中の気持ち悪さに負けてしまいそうだったからだ。

 だから私は罪を裁く。あの方に与えられた、裁定者さいていしゃの名の下に。私は罪を裁定し、裁かなければならない。

 そう、私は私に半ば強引に言い聞かせる形で、あの方の命令に従って神話大戦大陸へと降り立った。そして早々に一人の罪人を見つけ、とある騎士と共に裁断した。

 だが何故か。私の心は使命の一つを果たしたことよりも、その騎士の方に向いていた。彼女に会ったときの私の心は、何故か弾んでいた。

 そのときの私の胸の内を、少しずつ取り戻しつつある私の心はこう呼んだ。

 劣情だと。

 私は、初見でもあるはずの騎士に劣情を催し、歓喜していたことに気付いた。彼女に会ったとき、私は筆談しながらも心の内でこう思っていたことに気付いた。

 やっと会えた、と。

 私と彼女は、以前面識があったのだろうか。いや、彼女の反応からして、その様子はない。まぁ面識があったところで、今の私には首がないのでわからないだろうが。

 そんな彼女との邂逅が、数年ぶりにもなる旧友との再会のように懐かしく、また嬉しかったのは何故だろうか。私は何故、歓喜していたのだ。

 私は何者で、彼女は一体何者だ。

 エタリアの純騎士じゅんきし、そんなことはわかっている。名前は聞いた、姿も見た。知りたいのは、彼女が何者なのかということ。彼女は一体何者で、私にとっての何かだったのか。そのことをずっと考えてしまう。

 だが私は裁定者。この戦争の違反者を裁く法の剣。

 故に私は迷ってはいけない。躊躇っていてはいけない。私は誰が相手だろうと、無慈悲かつ無感情で刃を振るえる存在でなければならない。

 だから私は戦い続ける、進み続ける。次なる相手は、今背後から迫ってきている黒い影だ。

――其方は何者だ

「それは私がしようとしていた質問なのだが。貴様こそ何者だ、首なしの騎士」

――アトランティアの裁定者

「この戦争の調停役とでも言いたいのか? そんなルールは聞いていないがな」

 裁定者と影の距離は、約六メートルほど。

 声は充分届く距離だが、裁定者が繰り出す紙切れに書かれた文字を見るには少し遠すぎる。だというのに、影は一歩も距離を縮めることなく、裁定者の筆談に答えていた。

 まるでというか、本当に裁定者の字が見えているのだ。この距離で。

「天界がこの大陸の上空に浮かんでいるのは、この戦争の傍観と称した監視と管理が目的。わざわざ出向くということは、調停役を用意していないのだろう。故に貴様は天界が向けた真の裁定者ではない。裁定者を名乗る虚構の戦士よ、真の名を明かせ」

 柄もつばも、刀身さえも漆黒の刀を握り締める。答え次第では即刻斬り捨てるという脅迫が現れたその刀は、わずかながらに血の臭いを漂わせていた。

 が、裁定者はその刀を見ても反応しない。反応したのは、裁定者が突き刺した西洋剣から溢れ出た黒達。

 次々と湧き出た彼らは大口を開けて嘲笑し、二人の空間を自ら達の色で染め上げる。次第にその漆黒が明けると、前に永書記えいしょきを閉じ込めた裁判所が姿を見せた。

 影が立つのは証言席。それぞれ左右の検事と弁護人の席、そして目の前の裁判官の座る席は空白。しかし影の背後にある傍聴席は満席で、皆が口々に嘲笑いながら罵っていた。

 大量の雑音が混じった、実際言葉とも取りにくい音で、彼らは言う。

 ナ*サマ*」

 ナニ*マナ*ダ*ア*ツ* 

 ヤ*コ*ナニ*ノダ

「ナ*モノ*」

「*ニ*ノダ

「何者? 何を訊くのかと思えば」

 影は振り返ることなく嘲笑を浮かべる。まとっている黒の魔力のせいで、相変わらず影と呼称するのが相応しいくらいに何も見えないが、そう感じられる口調だった。

「私は私だ。それ以外の何者でもない。これ以上の答えがいるのかね」

 当然、という言葉をあえて差し引いて影は言う。それ以外の何があると、彼はまた嘲笑を浮かべた。一足す一は二。そんな算数の答えを導き出すかのように、彼は言った。

 が、黒の嘲笑は止まらない。ケタケタケタケタ、影の背中に笑い声をぶつける。

 それを聞いた影は些か眉を動かした様子で、口調が少し強くなった。

「名前が訊きたいのか? ならそう言え。私は重複者じゅうふくしゃ。この戦争の参加者だ」

 少しイラだった様子ながらも、冷静さを保った口調で自身の名を明かす。

 これで少しは状況が変わるだろう。黒が黙らないにしたって、首なしの騎士本人が何かしてくるくらいの状況変化はあるはずだ。

 と、先を見ていた重複者の期待を裁定者は裏切る。裁判長席の前に仁王立ちする裁定者は黙ったままで、何もしようとしない。

 代わりに喋るのは、ずっと口が開きっぱなしの傍聴席の黒達。雑音と雑音が交じり合い、罵倒はより複雑怪奇な不協和音となって裁判所に響き渡る。

 ****!

 ナ**タ!

「ナニ*ノダ*キータ*ニ!

「マ*カジ*ン*ナ*エヲユー*ン*!

「何が不満だ! 何が! 私は私だ! それ以上でも以下でもない! よく言うだろう! 君達には理解力が欠けているのではないのかね?!」

 冷静さを明らかに欠いた強い口調で吠える。が、重複者の咆哮は黒にはまったく応えておらず、むしろ馬鹿にする笑い声がより強く響いた。

 が、それらは裁定者が手を上げて静寂を誘うと次第に静まり、遂に一切の音が聞こえなくなる。

 今までずっと雑音で満たされていただけに、二人の空間には嫌悪してしまいそうな静謐があった。その静謐を破って、裁定者が実に低く重い声音を響かせる。

「私は私、それ以上の何者でもない、と其方は言った。だが以上とはなんだ。それとはなんだ。其方は何者だ」

「だから言っている。私は重複者だと」

 オ*エハ*レダ

「*マ**ダ*ダ

 ワ*シデハワ**ン

「*タシハワ**?

「ワタ*ト*ダ*ダ」

「私は重複者――」

 ダレダァ!!!!!!!

 パイプオルガンのすべての鍵盤を一斉に叩いたような響音が、一切の雑音を掻き消して響く。

 その音の正体は、背後の傍聴席に立つ一際細くて背の高い黒だった。どこか女性のようにも見える。

 だがその声は音と呼べるかどうかもわからないくらい雑音だらけで、辛うじて誰だと叫んだことがわかったくらいの声だった。

 だが次に彼女が発した声――否、歌は実に美しく澄んだ声。まるで、ステージ上でただ一人スポットライトを浴びることを許されたオペラ歌手のようだった。

 

♪ 漆黒に包まれた五体 

  漆黒に包まれた声音

  暗影に溶け込み 背後に回って 標的の首を 奪う

(台詞:国を持たない暗殺者。その名は?)

(台詞:重複者!)

(台詞:個人を持たない暗殺者、その名は?)

(台詞:重複者!)

(台詞:では訊こう、その真名は?)

(***???)

(***************!!!!)

  そう! あなたは! 真名を持たない! 自分を持たない! 個人を持てない! 

  男 女 バイセクシャル 同性愛者 トランスジェンダー どれも どれも どれも どれも どれも 持たない! 何もあなたに

 ない!

(ナイ!)

 ない!

(ナイ!)

 ない!

(ナイ!)

 何も――ない


 永書記のときは喝采も歓声も何もなかったというのに、今度は傍聴席からスタンディングオベーションが送られる。

 それを浴びた漆黒の女性は静かにこうべを垂れると、両手を重複者へと差し出した。さながら、次はあなたの番だと言うように。

 だが重複者は何も言わない――否、何も言えない。

 裁判所に響く合唱に合奏、そして何か意味深に感じられる歌詞。すべてがあまりにも唐突で、返す言葉が見つからなかった。

 そんな茫然自失にも似た状態で立ち尽くす重複者に、裁定者は再び低く響く声をぶつける。

「性別もなければ性格もない。決まった肉体も持たず、自らの中に複数の他人を飼う其方。そんな其方は何者だ――否、どこの誰だ」

 どこの誰。

 今さっきまで、平然と自らの名前を答えることで応えていた重複者が、そう問われて今度は固まる。声は出ず、握り締めている刀は一ミリも動かない。

 どこの誰。

 その質問が、自分の答えでは不当なのだと今気付いた。自分は今まで、単純な算数の問いに対して違う教化で答えたようなものだ。

 どこの誰。

 答えられない。今、気付いてしまったから。わかってしまったから。

 だって重複者は―じゅゔぶぐじゃば……じ*う*く**は*********

「あ、ぁ……」

 重複者の手から、漆黒刀が滑り落ちる。金属音を立てるまえに霧に変わって消えたそれが舞い上がって撫でた重複者の頬は、不気味に持ち上がった口角によって引きっていた。

「やれやれ、しょうがねぇなぁぁ、あ?」

 重複者の体が、骨と筋肉と臓器を潰して変形する。

 一度重力に負けたように潰れると、そこから大きく膨れ上がった黒い二本の塊が伸び、腕となって地面に立つ。

 そこに勢いよく突進して来て繋がったのは上半身で、そこから頭部がひねり出される。一枚の紙ほどに潰れていた胴体が風船のように膨らむと、それに続いて形作られた下半身と脚も膨れ上がった。

 そうして変わった重複者の姿は筋肉隆々の巨躯。今さっきまでの姿も一七〇センチはある決して低いとは言えない身長だったが、今は軽々と二メートルを超している。

 筋肉で膨れ上がった体は凄まじく、とくに両腕の膨れ方が異常で両腕の重みで猫背になっている。脚と腕の四足歩行だ。

 姿が変わっても、重複者の姿は結局漆黒で顔を見ることは叶わない。だがおそらく口と見られる位置から、白く籠った熱が吐き出された。

「あんまり、いじめんじゃねぇよ。珍しく小僧が出張ってんだ、カッコつけさせてやれや」

――其方もまた、重複者という認識でいいのか

また筆談……やっぱりオタク、俺達のことを知ってるな?」

――知らぬ。が、其方の体の中。何やら複数の魔力を感じる

――厖大な魔力量ならまだわかるが、魔力となると話は変わる

――私の記憶にはそんな前例は存在しないが、しかし可能性としては一つ

――多重人格

「……!!! グガッ! グガッ! グガッ! グガッ! グガッ!」

 不気味に、そして変な笑い方で重複者は笑う。

「そうさその通り! 俺達は世間ではそう呼ばれる人間さ! 俺もあんた達からしてみれば、人間ですらないただの心! 人間ですらない!」

――だがしかし、あり得ぬ。多数の心を持っていても、多数の魔力が存在するなど

――体は、それ一つであろう

「グガッ! グガッ! グガッ! 体なのさ。俺達は人格が変わると同時、体もそれに合わせて自分になる。

 グガガガガ! 俺達は多心同体! これが俺達――いや元となる重複者だけが持つ固有オリジナル魔術! 多種多様マグアリ・パキリア!!!」

 超重量の筋肉の塊が、高速で襲い掛かる。裁定者はそれを軽いステップで躱したが、裁定者が元いた箇所は振り下ろされた拳を受けて大きく凹んだ。

 さらに横振りの殴打が走る。それを抜いた西洋剣で受け止めた裁定者だが、筋肉の巨躯に繰り出されるパワーに吹き飛ばされ、十数歩分後方へと吹き飛ばされた。

 難なく着地するが、足が着いてもまだ勢いで押される。さらに踏ん張って停止した裁定者だが、抜いたばかりの剣をすぐに鞘に収めた。

 鉄拳を受けた手が、痺れている。衝撃が強すぎるのだ。膨れ上がった筋肉は、見掛け倒しの代物ではない。

 その隆々の腕を振り回し、大きく膨れ上がらせた胸部に叩きつけて音を鳴らす姿は、まさに猿の獣か神獣か。とにかくすさまじいドラミングは、先ほど歌で満たされた裁判所に轟いた。

 だが裁定者はおもむろに、痺れていない方の腕で剣を抜く。そして自身の目の前に強く突き立てると、周囲の黒達が動き出した。

 羽虫が一斉に飛び立つような音で世界が壊れ、滝壺に激流が落ちるような爆音と共に新たな世界が構築される。

 しかしながら、新たな世界もまた漆黒の法廷。立ち位置も何も変わらない、ただ黒の艶と怪しさのみが輝きを増したより怪しい法廷に変わっていた。

 だがそれだけでも、この法廷を作り上げるのに消費された魔力は桁違い。それを察した重複者は、今さっきのように容易に突撃するのをやめた。

「其方は――否、其方らはまだ、法を犯してはおらん」

 腹の底に重く響くような低い声。再び裁定者が、そこにはない口を開く。

 そこにあれば光っていそうな瞳の色を想像させてしまいそうになるほど、怪しくも魅力のある声だ。

「だが其方は私のことを探り、嗅ぎまわる野犬のようだ。捨て置けん。故に警告しよう。これが其方への、最初で最後の警告である」


「聴くがよい。警告諧謔曲ヴィジランス・スケルツォ

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