リブリラの永書記

 世界が生まれてから、学者の計算でおよそ五万六千年。

 魔術が生まれてから、とある預言者の推測でおよそ二万七千年。

 国と呼ばれる文明が生まれてから、とある魔術師の予知でおよそ一万五千年。

 人間が西暦を築き、暦を数え始めたのは六千年前。その六千年前から世界で起こったあらゆる事象、事故、事件をすべて集め、書き記す者達がいた。

 彼らの記した文献はやがて厖大な量となり、その文献を収めるための国ができた。名をリブリラ。別名図書館。世界全土の情報と書籍が集まる、本の国だ。

 そんな国だが、今となっては事象のすべてを書き記す者は一人しかいない。魔術の発展により、一人でも事足りるようになったからだ。その書き記す者の名は受け継がれるものであり、代々永遠の書記——永書記えいしょきと呼ばれていた。

 六千年前から現在まで、約七百に及ぶ代に継がれてきた称号と職務。それがこの日、また新たな者へと受け継がれていた。

「じゃあ、今日記す分はここに置いておくね」

「きょ、今日だけでこれだけあるのですか……?」

 彼女の目の前に置かれた資料の量は、まるで山。その奥を見ることはできず、その壮大さに圧倒されるばかりだった。

 だがその量も、先代の彼からしてみれば少ない方。次の世代たる彼女のために、幾分か減らした方だった。だから何も恐れることはないと、彼女の肩にそっと手を添える。

「大丈夫、君ならできる。永書記なら、必ずできるさ」

「先輩……」

「じゃあ、僕はそろそろ……」

「本当に、行ってしまうのですか?」

「うん、僕が行かなかったら、この国が危ない。六千年続く歴史に、幕が下りてしまう。それはダメだ。僕達は、繋いでいかなきゃいけない。ヴォイの骸皇帝がいこうていのような、不死身の体ではないから。僕達は何代にも渡って、繋げてきた。その繋がりを絶ってはいけないんだ」

「先輩……」

「だから、僕は行くよ。例え死ぬとしても。まぁ、僕が死ぬのは八割がた決まっているけどね」

 永書記。

 それはリブリラにて、生涯続く限り世界を記し続けると定められた者に送られる名前。彼は戦争参加のために、こうして早々に後を託すことになったが、本来ならば死ぬまでリブリラに閉じ込められ、永遠に書き記し続けていたはずだ。

 そんな永書記の名を受け継ぐに値する証は、力や魔力ではない。むしろその逆。非力であること。

 筆よりも剣が強い者は、文献を守るために剣を取れ。

 筆よりも脚が強い者は、書き記す情報を掻き集めろ。

 筆よりも魔術が強い者は、世界を知るために魔術を会得せよ。

 筆よりも頭がいい者は、情報の真意を解くために学問に励め。

 だが、何よりも筆が強い者は、筆を執って書き続けろ。永遠に、記し続けろ。

 それが永書記の名を継ぐ条件。

 永書記は他のどの分野でも勝ってはならない。筆以外の何かが、強くあってはならない。筆以外の何もかもが、非力でなくてはならない。

 だから永書記は、戦場に出るだけで死ぬ。病にかかれば死ぬ。怪我をすれば、九割の確率で死ぬ。そんな弱い人間だ。

 だからこの戦争に彼が参加するとなったとき、国中の誰もが思った。

 彼に勝利はありえない。彼はおそらく、いの一番に死んでしまう。可哀想な人。まさかリブリラの永書記が、玉座を巡る戦争に参加するだなんて。

 永書記は戦士ではない。魔術師でもない。ただ記すだけ。書き記すだけの存在。そんな永書記が戦場に出れば、死ぬのは必然と言えよう。

「先輩、その……さすがに天界も、地上のすべてが集結したこのリブリラを、どうにかすることはないんじゃないですか? だから……」

「天界の天罰に例外はないよ。どれだけ貧しい国だろうと、どれだけ裕福な国だろうと、どれだけの大国だろうと小国だろうと逆らえば潰す。そういう国さ」

「でも……」

「それにもしリブリラに天罰が落ちなくても、僕は行かなきゃ殺されるさ。そしてまた、新しい誰かに参加資格が渡るだけ。僕は参加してもしなくても、殺されてしまう。そういう運命なんだよ」

「先輩……」

「まぁ、一番最初に死んでしまうのだろうけど、なんとか一番最初に死ぬのだけは回避してみせるよ。できることはなんでもやって、少しでも長く生きてみせる。それが僕の、最期の足掻きだ」

「先輩……!」

 後輩はヒシと抱き締める。唐突のことに驚いた先輩は、その場で赤面のまま固まってしまった。

「先輩、好きです! 先輩のことが、ずっと前から好きでした! こんなことになるんだったら、もっと前に言うべきでした……もっと前に、伝えるべきでした……ごめんなさい、ごめんなさい先輩……私、私……」

「……ありがとう。僕に好意を寄せてくれる人がいるなんて、嬉しいよ。だけど、僕はこれから死んでしまう人間だ。君に何も残せない。ごめんね」

「……残せます。たった一つだけ、一つだけ……」

「それって、な――」

「七一二代目、王のお呼びだ。すぐに向かえ」

「は、はい! すぐに! ……そんなわけだから、また、その……あとで」

「……はい」

 消え入りそうな声で頷いた彼女を置いて、七一二代目の永書記は王城へと向かう。向かうとそこには国が誇る二大魔術師と呼ばれる魔術師二人と、五年前に即位したばかりのまだ若い王がいた。

 若い王は王座から立ち上がり、長い階段をおもむろに降りて永書記の肩を強く掴む。そして永書記のしている眼鏡を取り上げ、その瞳を覗き込んだ。

「フン……まぁだ覚悟ができてないのか、七一二代目」

「覚悟、ですか……?」

「おまえは選ばれたんだ。このリブリラから玉座いす取り戦争ゲームに参加する者など、おそらくもう現れない。これはチャンスだ。千載一遇と言ってもいい。そのチャンスを、おまえが握ったんだ」

「と、言われましても……僕は戦士でもなければ魔術師でもない。なんの才能もない人間です。すべての才能を、筆記のみに費やした人間です。そんな僕に、この戦争を勝ち抜けというのは無理だ。だから……」

「そうだな。今のおまえでは、勝ち抜くのは無理だろう。、な」

「それはどういう……」

 若き王は王座への階段を上る。だがその途中で振り返り、階段の上に腰を据えて脚を組んだ。先代からの従者がいれば叱られる行為だが、今は手下しかいないので踏ん反り返れる。

「リブリラから参加者が選ばれるなんてのはもう二度とないチャンスだ。それを不意にする気は俺にはない。おまえには、この戦争勝ってもらう」

「でもそんなこと、僕には……」

「できる——正確には、できるようにする。今からな。おまえにとある魔術を託す。大魔術だ。本来ただの人間が会得することはできない。が、おまえならできる。なんの魔術も持たない、おまえならな」

「それは、どういう——!?」

 王座の側に控えていた二大魔術師の二人が、一瞬で距離を詰める。内一人の赤い眼差しに睨まれると、永書記は意識を失ってもう一人の胸に倒れ込んだ。そのまま抱え上げられる。

 王は再び立ち上がると、今度こそ王座に腰を据えた。

「さぁ七一二代目、勝ってもらうぞおまえには。俺のリブリラのために」

 二大魔術師はその場から転移の魔術で消える。暗い牢獄の中に入ると永書記を鎖で繋ぎ、二人は左右に離れる。そして薄い仮面の下で詠唱を呟き、手で印を組み始めた。

 発動する魔術陣が、永書記を包む。その体を這って入り込む激痛に起きた永書記は、絶叫を上げてから気絶する。だがすぐにまた、絶叫を上げながら起き上がった。それを繰り返す。

 繰り返して、三〇回目に気絶したそのとき、魔術陣がすべて永書記の中に吸収された。白い魔術刻印が、永書記の首筋で怪しく光る。

「魔術刻印確認。実験成功」

「これで大魔術はあなたの物。あとはあなた次第です、七一二代目」

「「ご武運をお祈りしております」」

 その夜、永書記は自分の家で起きた。最後に気絶してから、自分でそこまで帰った記憶はない。

 というか最初、そこが自分の家だとわからなかった。何せ永書記になってから十年、一度も帰っていないからだ。永書記になった者に、帰宅するような余裕はない。

 そんな久し振りの帰宅がこんな感じになってしまって、少し残念なような気がする。だがとにかく水が飲みたかったので、立ち上がろうとした。

 が、立てない。全身筋肉痛のようだ。痺れるように痛んで立ち上がれない。だが水は飲みたい。故に無理矢理立ち上がろうとするが、結局ベッドから転げ落ちてしまった。

 その音を聞きつけて、誰かが階段を駆け上がってくる。扉をノックして入ってきたのは、あの後輩だった。

「先輩! 大丈夫ですか?!」

「君、どうして……永書記の仕事は?」

「王様からの命令で、今日はいいから先代を看てろって……」

「そう、ですか……心配をかけてごめんなさい。僕は大丈夫ですので——っ」

「そんな倒れたままで言われても、説得力ありませんよ。水ですか? お手洗いですか?」

「……み、水を……」

 ベッドに永書記を戻してから、彼女はトコトコと水を取りに行く。その間に永書記は、自分の右掌に刻まれた緑色の刻印を仰いでいた。

 数日前に現れた、この魔術刻印。聞けば天界が参加者に送る刻印なのだそうだが、何か他に意味があるように感じてならない。

 例えば、天界に牙を剥いた瞬間に対象者を即死させる呪印の機能があるとか。参加者全員の位置と生死を確認できるとか。何かある気がしてならない。

 だが考えれば考えるほどわからない。あるのは様々な可能性。その可能性を一つ一つ確認する方法が、今はない。そもそも確認が取れるとしても、意味がないだろう。仕方がない。これは受け入れるしかないのだ。

「先輩、持ってきましたよ」

「……うん、ありがとう」

「あの、飲めますか?」

「上半身くらいなら起こせるから、大丈夫……」

 そう言って、無理矢理起こす。持ってきてくれた水を一口だけ口に含むと、窓際にそれを置いた。

 少しだけ、落ち着きを取り戻す。正直いきなり舞台が変わり、彼女がいることで少し動揺していた。

「ありがとう。さぁ、もう夜も遅いから。帰った方が……」

「私、邪魔ですか?」

「そんなこと——」

「じゃあ、少しだけいさせてください。私、明日からあそこに籠ります。もう外には出られません。だから、先輩にはもう会えないんです。だから、だからもう少しだけ……」

「……わかった」

 後輩はおもむろに、永書記のベッドに腰を落ち着ける。そしてゆっくり、永書記の手に自分のを添えて軽く握り締めた。

「先輩……好きです。だから、残してくださいませんか? あなたの欠片」

「……僕にそんな資格はない。僕は、僕は何も残すことは——」

 後輩が、勢いよく接近する。その勢いのまま永書記の口を、自らの口で塞いだ。しばらくの硬直に、永書記はしばらく思考が停止する。時間そのものが、まるで止まってしまったかのようだった。

「これは、私の我儘。先輩のことを、少しでも近くで感じていたくて突き通す、私の最後の我儘です。どうか、どうか私に負けてください。今日だけで……今だけでいいんです。だから、どうか……」

「……本当に、僕でいいの?」

「あなたがいいんです」

「……わかった、僕もここまで女の子に言わせておいて、引き下がることもできない。ハハ、二十二年生きてきてやっと知ったよ。僕も、男なんだね」

 永書記から、口づけを交わす。そして優しく、だが徐々に強く相手の体を求め始めた。

 それが彼女の願いだからだ。自分の願いはどこにもない。ただ、切なる彼女の願いだから体を重ねる。それ以外に意味はなく、意義もない。

 だが、それでも相手の体を求めて動く。それが今ここにおける、永書記唯一の原動力。この痛む全身を動かす、唯一の意味だった。


           戦争開始まで、あと六日。


  

 

 

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