水盆の使い手
起動と共に硬さを増す水膜。
剛と柔、双方の強さを併せ持つ変幻自在の水が世界の根源から溢れ出す。
『我が与えるは水面の加護。巨人が守る知識と知恵が、貴方に勝利を齎すでしょう』
これをコウカが聞いていたら驚いたことだろう。現にサリオンも驚いていた。
詠唱は接続した神器や魔器が発する声で、そこに適合者が介入する余地はない。そのはずなのだが、驚くほど優しく透き通る声はジネットのそれとほとんど変わることはなかった。
『捧げられし目を月へと変えよ。破滅の国から齎される不吉ささえ、お前は密林の滋養と変えるだろう』
狂ったようにサリオンが操るオルガードが水膜へと拳を叩きつけるが、揺蕩う水球は小揺るぎもしない。中で敬虔の姿で手を握りあわせているジネットも、夢を見るような姿勢のまま。
その様子にサリオンは見惚れているが、同時に内部から湧き上がる衝動のままに攻撃を続行していた。
『世界が終わりを告げるその日まで、世界樹にその全てを捧げるのだ。さぁ行くが良い――我が娘』
それだけはさせてはならない。その日が来ることだけは避けねばならないのだ。
既に兆候が現れている。樹が近くにある現在において、その神器の存在は容認してはならない。例え腐臭漂うウルズと違い、真実我らの同胞であって。
しかし、ああ、なんと――
「神器!“フィンド・ミーミル”!」
金に棚引く髪と、神器の発動で出現した周囲を漂う水球が陽光を反射して輝かせている。凛と立つ決意の姿。
『美しい……』
神の意向すら心をすり抜けて、サリオンの芯を震わせた。
かつて彼が執着した聖女の新たな一面。ジネットの言に従うならば聖女ではなく、ただの人としての姿だが、その輝きは城中で見せる憂い顔に勝るとも劣らない。
『……しかし、私の行動が変わるわけではない。大人しくしていただければ、貴方もオルガードもこれ以上は傷つかない』
「ええ、私は大人しくします。大人しくしていれば、コウカ様が来ます。そして貴方にも大人しくしてもらいましょう」
フィンド・ミーミルの能力は水を操る。しかし神の威光は治癒のみに発揮されるために破壊的な力を持たない。
そして、神器を完全起動した状態でもそれは変わらない。そのことをフォールンを支える神器使いであるサリオンは知っている。対してジネットはサリオンのことは何も知らない。そのように操作してきたのは他ならぬサリオンなのだから。
「私の神器は性質上戦いには向かない。そう思っていますね? ですが……私は時々思うのです。本当にそうなのでしょうか? と、例えば……」
ジネットが水盆を高く掲げれば、周囲を浮く水球の数が増えていく。それらがオルガード目がけて飛んでいく。
水球の速度はいまいち速くない。常人でも集中すれば難なく避けられるだろう程度。聖騎士としての能力を持つオルガードの肉体なら、躱すことは自然にできる。
オルガードの後ろにあった枯れ木に水球が命中すると、水弾がそれを優しく取り囲んだ。
『なるほど。捕まえるつもりですか……』
所詮は戦闘経験も無く、訓練すら受けていない小娘の考えること。
そう考えたサリオンは全く正しい。
しかし時間を稼ぐという点においては中々に侮れない。ジネット本人を守る水球が残ったままである以上は、いちいち少水球を避けてはいられないのだ。
オルガードの肉体を操作して、刺された聖剣のうちの一本を引き抜く。ほんの僅か切れ目を入れれば勝てる。サリオンには奥の手が当然のようにある。
少水球が集ってきた瞬間に、一気に飛びかかる。
「私は戦ったことが無いから弱い……その通りですが、それはサリオンも同じでしょう?」
だからこんな手にすら引っかかってしまうのだ。
オルガードの聖剣が水球に触れた途端、水膜がめくれ上がった。
『な……」
「貴方はずっと城の奥から人を操ってきた。そして私はずっと閉じ込められていた。それでどうして自信が持てるのか不思議です」
仕掛けは簡単。
ジネットは自分を守る水膜を裏返して、オルガードの肉体を包んだだけだった。鉄壁の守りはそのまま脱出不能な檻へと変わる。
「サリオンにはそれを破る手もあるでしょうが……私は時間が来るまで逃げますので、それで私の勝ちですね」
水球を置いて、ジネットは駆け出した。行く先は村の方角だ。
全てに置き去りにされたサリオンと人形は虚しく手を宙にさまよわせていた。
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