27-6.馬鹿だ




「まったく、仕様がないなあ」

「ごめんなさい」

 菜園の脇の水道で足を洗ってもらいながら、美登利は肩をすぼめる。

「悪い癖だよ、ひとつのことしか見えなくなるの」

「そうだよね」


「さっきね、勇人とふたりで西城に行ってきたんだ」

「え……」

「苗子先生と、志岐さんからも、いろいろ聞いてさ。最近の千重子理事長は尋常じゃないだろう?」

「会えたの?」

「うん。でも」


 美登利の隣に座りながら巽は空を見上げた。

「苗子先生とは違った意味で、あの人も凄い人だから、僕には正直掴みきれない」

「うん」

「ただ、あの生徒会長の子さ」

「高田孝介」

「ああ、うん。高田くん。彼は千重子理事長の目論見に乗りやすいタイプなのだろうね。彼に良識と強い意志とがあれば、千重子理事長の暴走ももう少しましになるのだろうけど」

「……」

「まだ、おまえと結婚したいって?」

「どうかな」

 そう答えて黙り込むしかできない。


 巽はもう一度美登利の前にしゃがんで上靴を履かせてくれた。

「実はね。大事な話があって」

「うん?」

「紹介したい女性がいるんだ」

「……」

「大学卒業したら一緒に暮らそうと思ってる。だから家に連れてこようと思ったんだけど、いきなり親に挨拶はハードルが高いって彼女が、言うから」

「……」

「だからまず、おまえに会いたいって。夏休みにでも」


 なんだこれ。不意打ちもいいところだ。

 ハタチを超えて社会に出ようという男が恋人がいて、一緒に暮らしたいという。普通の話だ。

 なのにそんなこと想定すらしていなかった。馬鹿だ。


 無表情に凍りつきそうになる頬を意志の力でこらえる。わななく口元をなんとか抑えて笑みの形に持っていく。鼻先が熱い。泣いたら駄目だ、絶対に。


「そうなんだ」

 少し声が上ずっていた。大好きな兄に恋人がいることを知らされた妹としては許容範囲だろう。

「わかったよ、お兄ちゃん」

 胸が痛い。苦しい。なにも考えられない。それでも笑わなきゃ駄目だ。

 たくさん泣いて、たくさん考えて、思い続けた。

 絶対に、この気持ちは死ぬまで、秘密にするのだと。





 なんだかんだで兄たちは帰っていき、なんだかんだで文化祭は無事に幕を閉じた。

 後夕祭ではゲリラ演奏がまた行われて、ノリのいい生徒たちが躍りまわっていた。


 そこで正人は気づいた。美登利がいない。ずっと姿が見えない。

 戻ってきた巽は会えたとは言っていたが、美登利は一緒ではなかったから逃げていく背中を見たきりだ。

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