お花摘み



 授業が終わると、私は教室を飛び出して一目散に女子トイレに向かった。

 私のいる一年四組の教室の隣に女子トイレがあるのだけど、そこを素通りして、三組、二組の廊下を駆け抜ける。そのまま下駄箱前も駆け抜ける。ちょうど体育の授業が終わった三年生の男子たちが道を塞いだ。

 「すみません」と小さな声で断りを入れて、男子中学生の隙間を縫って廊下を抜ける。

 下駄箱の角を曲がり、奥に進むと家庭科室があって、その横の女子トイレに入った。

 個室が三つあって、すでに一番奥の個室が閉まっていた。

 私は奥の個室の前に立ち、扉をノックする。

 

 コン、コココン、コン、コン。

 

 それが私たちの秘密の合図。カチャンと鍵が開けられ、扉が開いた。

 そこに彼女はいた。

「遅くなっちゃったー」

「はやく、はやく。休み時間終わっちゃうよ」

 彼女は嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねる。

「うん!」

 私は個室に入り、カチャンと鍵を閉めた。

 和式便器を避けて、二人して奥の壁に寄りかかる。制服のポケットから手紙を取り出した。

 私はその手紙を彼女へ渡す。


 あたしは丁寧に折られた手紙を受け取った。

 彼女は早く読んで欲しそうにニコニコと笑っている。

 あたしも早く読みたくて、でも乱雑にならないようにゆっくりと手紙を開ける。

 彼女の丸く可愛らしい字体が目に入る。

 それだけで、心が穏やかになった。

花奈かなちゃんへ 今日はね、面白い話があるの! 『お花摘み』って知ってる? お花を摘むこと以外にも意味があるんだって! 昨日、国語の先生が授業中に言ってたんだけど、女の子がトイレに行くことを『お花摘み』って言うんだって! どうしてかって言うとね、トイレする時にしゃがんでするでしょ? その姿が野原でお花を摘んでるように見えるからなんだってー。トイレ行くって言うのが恥ずかしい時に、お花摘んできますって言うみたいだよ。面白いよね! 友里ゆりより」


 視線を手紙に落とす花奈の姿がとても綺麗で見惚れてしまう。私と同じ歳なのに、長い睫毛が妙に大人っぽくて、真っ直ぐに切りそろえられた艶々の黒い髪。もっと近づきたい。その白い肌を触れたい。その赤い唇も。

 あぁ。私はなんていけないことを考えているんだろう。

 こうしているだけでも十分に幸せなのに。


 手紙を読み終えて顔を上げると、友里があたしを見ていた。そのまっすぐな眼差しに、思わずドキリとしてしまう。クリクリの大きな瞳が恥ずかしそうに視線をあたしからずらす。だけどすぐに上目遣いにあたしを見る。手紙の感想が欲しそうにゆっくりと。その表情が可愛らしい。

「知ってた?」

「ううん、初めて聞いた」

「ね、ね、面白いよね」

「うん! 面白い」

「私たち、今、お花摘みしてるのね」

「うん」

 どちらともなくクスクスと笑い出した。


 花奈は笑くぼを作りながら笑う。

 家庭科室の横の、女子トイレの個室で、私たちはお互いの顔を見ながら笑う。

 声が外に漏れないように静かに。それがなんだか二人だけの秘密っぽくて嬉しくて、くすぐったくて。もっと近づきたくて。


「しかも花奈ちゃんの名前にも『花』がついてるね」

「あたしがお花摘みをする花奈でーす」

 彼女はいたずらっぽく手を挙げて宣言した。

「花奈ちゃんも摘んじゃえー!」

 私もいたずらっぽく花奈に襲い掛かろうとする仕草をした。

「きゃあー」

 彼女は小さな手で顔を覆う。それがまたかわいらしくて。あぁ、この個室はなんて幸せな空間なのだろう。

 ずっとずっとこのまま続いて欲しい……。


 そう思った時にはいつもチャイムが鳴る。

「いけないっ! もうこんな時間!」二人の声が重なる。

「また明日ね」と言える。それがまた幸せだなって思う。


 コン、コココン、コン、コン。


 あたしが個室の扉を開けると、友里は悲しそうな顔で立っていた。

「どうしたの?」

 あたしたちはいつものように和式便器を跨ぎ、奥の壁に寄りかかった。

「うん……」

 彼女から手紙を受け取る。

「花奈ちゃんへ 用務員さんから聞いたんだけど、このトイレ、明日から使えなくなっちゃうんだって。和式トイレを洋式トイレに変えるリフォーム工事するみたい。せっかく、二人だけの場所だったのにね 友里より」


「きれいになったらたくさん人来ちゃうかなあー」

 彼女はつぶやく。何かを隠すかのようにわざとらしそうな不安顔をして見せた。

「来ちゃうかもねー」

 あたしも冗談ぽく大袈裟に言った。

 しかし、その言葉の後、お互い黙ってしまった。

 彼女が思っていることは痛いほどわかる。あたしだって不安だ。

 そしてしばらくの沈黙の後、彼女は言った。

「そしたらさ……違うトイレに行かない?」

「それは……できないんだ……」


「そうだよね……」

 花奈の言葉を聞いたら、途端に涙が溢れてきた。

「泣かないで。少しだけ会えなくなるだけだよ」

「でもでも……っ。もしかしたらこのまま……」

 私は嫌なことしか思いつかなかった。

「大丈夫。今までだってあたしずっとここにいたもの」

 花奈を抱きしめたい。どこにも行かないようにぎゅっと抱きしめたい。その白い肌に触れたいし、唇にも触れたい。私の頭を撫でて欲しいし、私を抱きしめて欲しい。

 抑えられない気持ちが身体を動かす。

 両手を広げて花奈に近づいた。


 あたしを抱きしめようとしてくれた友里のその手は、あたしの身体をすり抜け、からっぽの空間を掴んだ。

 友里はさらに泣き出す。ごめんね。あたし、こんな姿で。

 あたしは両手を広げて友里に近づく。抱きつくように全身で友里を覆う。


 私も花奈を抱きしめるように両手を広げた。お互いがお互いをぎゅっとしている。もう離れないようにぎゅっと。決して抱きしめることなんて出来ないのだけれど、そこに花奈の感触があるように感じた。

 唇と唇がくっつきそうなくらい顔が近い。

「ねぇ、消えちゃわない?」


「消えない、よ」

 そう信じたい。


「ずっと一緒だよ」

 そんなの無理だってわかっていた。


「うん」

 だけど、信じたい。


「好き……」


「うん。あたしも」




 あたしたちはしばらくそのままお互いを抱きしめたまま、泣いた。

 そして「また、明日ね」と別れた。


 翌日。私たちのトイレは予定通りリフォーム工事が始まり、立ち入りができなくなった。

 学校中のトイレを探したけれど、やっぱり花奈はどこにもいなかった。彼女の居場所はあのトイレだけなのだ。

 工事は土日のうちに終わったみたいで、月曜日には使えるようになっていた。トイレに入ると、古かった内装がきれいになっていた。そのまま一番奥の個室の前まで歩いた。

 いつも閉まっていた個室の扉が閉まってなかった。

 ぽっかりと個室の中が見えていて、新しくなった洋式便器が中央に設置されていた。キレイなのにどこか物悲しかった。

 個室に入り花奈の名前を呼んだけれど、彼女は現われなかった。

 また涙が溢れてくる。ああ、やっぱりもう会えないんだ。

 お花摘み。いつだったか、「花奈も摘んじゃえ」って遊んでいたのが懐かしい。

 花奈。ほんとうに摘まれちゃったのね。涙が止まらない。

 花奈がいた時と同じように奥の壁に寄りかかる。洋式便器のタンクがあるせいで以前よりスペースが狭い。まるでそこに人がいるかのように窮屈だった。


 花奈の笑顔が蘇る。花奈……。大好きだよ……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る