お花摘み
◆
授業が終わると、私は教室を飛び出して一目散に女子トイレに向かった。
私のいる一年四組の教室の隣に女子トイレがあるのだけど、そこを素通りして、三組、二組の廊下を駆け抜ける。そのまま下駄箱前も駆け抜ける。ちょうど体育の授業が終わった三年生の男子たちが道を塞いだ。
「すみません」と小さな声で断りを入れて、男子中学生の隙間を縫って廊下を抜ける。
下駄箱の角を曲がり、奥に進むと家庭科室があって、その横の女子トイレに入った。
個室が三つあって、すでに一番奥の個室が閉まっていた。
私は奥の個室の前に立ち、扉をノックする。
コン、コココン、コン、コン。
それが私たちの秘密の合図。カチャンと鍵が開けられ、扉が開いた。
そこに彼女はいた。
「遅くなっちゃったー」
「はやく、はやく。休み時間終わっちゃうよ」
彼女は嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「うん!」
私は個室に入り、カチャンと鍵を閉めた。
和式便器を避けて、二人して奥の壁に寄りかかる。制服のポケットから手紙を取り出した。
私はその手紙を彼女へ渡す。
◆
あたしは丁寧に折られた手紙を受け取った。
彼女は早く読んで欲しそうにニコニコと笑っている。
あたしも早く読みたくて、でも乱雑にならないようにゆっくりと手紙を開ける。
彼女の丸く可愛らしい字体が目に入る。
それだけで、心が穏やかになった。
「
◆
視線を手紙に落とす花奈の姿がとても綺麗で見惚れてしまう。私と同じ歳なのに、長い睫毛が妙に大人っぽくて、真っ直ぐに切りそろえられた艶々の黒い髪。もっと近づきたい。その白い肌を触れたい。その赤い唇も。
あぁ。私はなんていけないことを考えているんだろう。
こうしているだけでも十分に幸せなのに。
◆
手紙を読み終えて顔を上げると、友里があたしを見ていた。そのまっすぐな眼差しに、思わずドキリとしてしまう。クリクリの大きな瞳が恥ずかしそうに視線をあたしからずらす。だけどすぐに上目遣いにあたしを見る。手紙の感想が欲しそうにゆっくりと。その表情が可愛らしい。
「知ってた?」
「ううん、初めて聞いた」
「ね、ね、面白いよね」
「うん! 面白い」
「私たち、今、お花摘みしてるのね」
「うん」
どちらともなくクスクスと笑い出した。
◆
花奈は笑くぼを作りながら笑う。
家庭科室の横の、女子トイレの個室で、私たちはお互いの顔を見ながら笑う。
声が外に漏れないように静かに。それがなんだか二人だけの秘密っぽくて嬉しくて、くすぐったくて。もっと近づきたくて。
「しかも花奈ちゃんの名前にも『花』がついてるね」
「あたしがお花摘みをする花奈でーす」
彼女はいたずらっぽく手を挙げて宣言した。
「花奈ちゃんも摘んじゃえー!」
私もいたずらっぽく花奈に襲い掛かろうとする仕草をした。
「きゃあー」
彼女は小さな手で顔を覆う。それがまたかわいらしくて。あぁ、この個室はなんて幸せな空間なのだろう。
ずっとずっとこのまま続いて欲しい……。
そう思った時にはいつもチャイムが鳴る。
「いけないっ! もうこんな時間!」二人の声が重なる。
「また明日ね」と言える。それがまた幸せだなって思う。
◆
コン、コココン、コン、コン。
あたしが個室の扉を開けると、友里は悲しそうな顔で立っていた。
「どうしたの?」
あたしたちはいつものように和式便器を跨ぎ、奥の壁に寄りかかった。
「うん……」
彼女から手紙を受け取る。
「花奈ちゃんへ 用務員さんから聞いたんだけど、このトイレ、明日から使えなくなっちゃうんだって。和式トイレを洋式トイレに変えるリフォーム工事するみたい。せっかく、二人だけの場所だったのにね 友里より」
「きれいになったらたくさん人来ちゃうかなあー」
彼女はつぶやく。何かを隠すかのようにわざとらしそうな不安顔をして見せた。
「来ちゃうかもねー」
あたしも冗談ぽく大袈裟に言った。
しかし、その言葉の後、お互い黙ってしまった。
彼女が思っていることは痛いほどわかる。あたしだって不安だ。
そしてしばらくの沈黙の後、彼女は言った。
「そしたらさ……違うトイレに行かない?」
「それは……できないんだ……」
◆
「そうだよね……」
花奈の言葉を聞いたら、途端に涙が溢れてきた。
「泣かないで。少しだけ会えなくなるだけだよ」
「でもでも……っ。もしかしたらこのまま……」
私は嫌なことしか思いつかなかった。
「大丈夫。今までだってあたしずっとここにいたもの」
花奈を抱きしめたい。どこにも行かないようにぎゅっと抱きしめたい。その白い肌に触れたいし、唇にも触れたい。私の頭を撫でて欲しいし、私を抱きしめて欲しい。
抑えられない気持ちが身体を動かす。
両手を広げて花奈に近づいた。
◆
あたしを抱きしめようとしてくれた友里のその手は、あたしの身体をすり抜け、からっぽの空間を掴んだ。
友里はさらに泣き出す。ごめんね。あたし、こんな姿で。
あたしは両手を広げて友里に近づく。抱きつくように全身で友里を覆う。
◆
私も花奈を抱きしめるように両手を広げた。お互いがお互いをぎゅっとしている。もう離れないようにぎゅっと。決して抱きしめることなんて出来ないのだけれど、そこに花奈の感触があるように感じた。
唇と唇がくっつきそうなくらい顔が近い。
「ねぇ、消えちゃわない?」
◆
「消えない、よ」
そう信じたい。
◆
「ずっと一緒だよ」
そんなの無理だってわかっていた。
◆
「うん」
だけど、信じたい。
◆
「好き……」
◆
「うん。あたしも」
あたしたちはしばらくそのままお互いを抱きしめたまま、泣いた。
そして「また、明日ね」と別れた。
◆
翌日。私たちのトイレは予定通りリフォーム工事が始まり、立ち入りができなくなった。
学校中のトイレを探したけれど、やっぱり花奈はどこにもいなかった。彼女の居場所はあのトイレだけなのだ。
工事は土日のうちに終わったみたいで、月曜日には使えるようになっていた。トイレに入ると、古かった内装がきれいになっていた。そのまま一番奥の個室の前まで歩いた。
いつも閉まっていた個室の扉が閉まってなかった。
ぽっかりと個室の中が見えていて、新しくなった洋式便器が中央に設置されていた。キレイなのにどこか物悲しかった。
個室に入り花奈の名前を呼んだけれど、彼女は現われなかった。
また涙が溢れてくる。ああ、やっぱりもう会えないんだ。
お花摘み。いつだったか、「花奈も摘んじゃえ」って遊んでいたのが懐かしい。
花奈。ほんとうに摘まれちゃったのね。涙が止まらない。
花奈がいた時と同じように奥の壁に寄りかかる。洋式便器のタンクがあるせいで以前よりスペースが狭い。まるでそこに人がいるかのように窮屈だった。
花奈の笑顔が蘇る。花奈……。大好きだよ……。
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