スッキリィー♪ 水洗トイレ 前編

 理不尽だ。何とも理不尽である。成果を上げたのは明らかに僕なのに、さも自分がすべてやったかのように横取りして報告したうちの課長。あぁ、理不尽だ。


「おう、今回の契約、だいぶ大口だな。良かったな」

「えぇ。最初からここはいけると思っていたので――」


 僕がトイレの個室に入っている時、そんな会話が外から聞こえてきた。うちの部長と課長の会話だ。「ここはいけると思った」だなんて、大嘘だ。

 課長は散々僕の提案を無視し、「これじゃムリ」と拒否していたんだ。だから僕が先方と地道に交渉を続け、何とか契約にこぎ着けたのに。

 僕の努力はなかったことになっている。最悪な課長だ。


「どうだ? 今日、飲みにでも行かないか?」

 最悪な課長が僕の肩を叩いた。

「あー。今日はちょっと予定でありまして」

 予定なんかない。飲みたくない人と飲まないだけだ。

「そうか。お前の契約祝いでもしようと思ったんだが」

「いえいえ、大丈夫ですよ」

 僕は知っているんだ。部長には自分の成果だと報告していることを。そんな最悪な課長と交わす酒などない。


 定時を過ぎるとすぐに仕事を切り上げ、「予定があるんで」と、ない予定を言い訳に、早々に会社を後にした。


 いまいちイライラが収まらないまま自宅のマンションまで帰ってきた。コンビニに寄れば良かった。これから自炊するのも手間だ。

 そんなことを思いながら、郵便ポストを開ける。

 何枚かのチラシを取り出し、ざっと見た。ピザやトンカツといったデリバリーのチラシが入っている。トンカツでも頼もうかな。

 それらのチラシに紛れ、見慣れない紙を見つけた。

 インクジェットプリンタで印刷したような質素な紙に、文書作成ソフトで作ったような簡素なデザインで、こう書かれていた。

 

 

 嫌なこともスッキリ、水に流しましょう♪

 スッキリィー♪ 水洗トイレ、オープン!

 

 仕事・恋愛・学業・家庭環境・借金・病気などなど。

 嫌なことがあった時は、スッキリィー♪ 水洗トイレのご利用を!

 スッキリしますよ!

 一人一日一回、ご利用無料!

 

 お近くのスッキリィー♪ 水洗トイレはこちら!

 

 

 チラシには簡単な地図が載っていて、場所を確認すると、自宅からそう遠くない近所の公園を示していた。

 なんだこれ? 公衆トイレのことを「スッキリィー♪ 水洗トイレ」などと大げさな名前を付けて呼んでいるのだろうか。

 公衆トイレは汚いイメージがある。それを払拭するために町内会か何かが行っている活動なのではないか、そう思った。

 とりあえずチラシを持って、三階の自宅へ帰った。


 室内は静まりかえっていた。週末にだけ遊びに来てくれる彼女の私物が部屋のあちこちに、もの哀しそうに置いてある。

 観もしないテレビをBGM代わりにつける。なじみのお笑い芸人がバラエティ番組を盛り上げていた。

 スーツを脱ぎ、ラフな格好に着替えたところで、夕食がなかったことを思い出した。

 トンカツ頼もうか……。テーブルの上に置いたチラシを見る。

 

 

 仕事・恋愛……。

 嫌なことがあった時は、スッキリィー♪ 水洗トイレのご利用を!

 スッキリしますよ!

 

 

 ふと、先ほどのチラシに目が行き、その内容が気になった。本当にスッキリするのだろうか……。

 どうせやることもないし、せっかくなのでコンビニに夕食を買いに行くついでに「スッキリィー♪ 水洗トイレ」を見てみることにした。


 そうして僕は今、チラシに書いてあった近所にある公園の公衆トイレの前にいる。

 小さな公園にある公衆トイレは、男女の区別もなく、円柱状の外壁に鉄扉がついた、たった一つの小さなトイレだった。

 見た目は何の変哲もない、どこにでもある公衆トイレだ。扉に手を掛けると、ゴォォオンと錆びた鉄の重く擦れる音がして扉が開く。

「うわっ」

 思わず声を出してしまった。中は和式便所が設置されていたのだが、扉を開けた瞬間、アンモニアなのか排泄物なのか、それとも下水なのか、とにかく鼻につくような不快な臭いが襲ってきたのだ。

 和式便所の周りは黒ずんだ汚れが至る所にあり、トイレットペーパーの芯や切れ端も散乱している。とてもスッキリできるトイレではない。

 このままトイレから出ようと、再び扉に手を掛けたところ、扉に貼り紙がされていた。

 

 

 ようこそ。

 スッキリィー♪ 水洗トイレへ。

 今日あった嫌なことを思い浮かべながら用を足してください。

 嫌なことは大きなことでも小さなことでも構いません。

 それから用も大でも小でも構いません。

 用を足したら、レバーを引いてください。

 すべて水に流しましょう♪

 スッキリしますよ!

 

 

 僕は再び扉を閉めた。本当にスッキリするのか試してみたかった。

 ズボンとパンツを降ろし、和式便所に向かって尿を放った。

 嫌なこと。今日あった嫌なことは、やはり課長のことだ。

 僕の手柄を横取りするような発言。前々から気に食わなかったんだ。

 僕は課長の顔を思い浮かべながら用を足した。

 それから最後に一振りして、水を流す。


 スッキリィー♪


「ん?」

 水の流れる音に混じって「スッキリィー♪」という声が聞こえた気がした。しかし、トイレにはもちろん僕しかいない。

 まあ、いいか。僕はそのままトイレの外に出た。

 用を足してスッキリしたぐらいで、特段何もなかった。

 そう思った直後、ふと「ひらめき」のようなものが頭に走った。

 僕が課長に資料を出しても「これじゃムリ」と何度もやり直しをさせられた件。課長は決して「もうやめろ」とは言わなかった。ひょっとしたら……、もしかしたら、課長は資料の質を上げるためにあえて否定していたのではないか……。

 今日だって、僕の契約祝いにって飲みに誘ってくれたのだ。僕はもしかしたら、課長に対して大きな誤解をしていたのかもしれない。


 翌日、部長に肩を叩かれた。

「昨日、課長と飲んできてさー。今回の契約、キミが相当頑張ったそうだな。全部聞いたよ」

「え?」

「『あいつの熱心な想いが契約に繋がった』ってね。課長が言ってたよ」

「そ、そうなんですか……」

「あぁ。一緒に飲めなくて残念がってたな。『厳しくするのも教育だ』って臭いセリフ吐いてたけどな。おっと、本人には内緒にしておけよ」

 

 昨日、ふと思いついた考え。やはり課長は僕のためにわざと厳しいことを言っていたようだった。

 なんだか心に引っかかっていたものがスッと取れた気がした。


 その日の午後、僕は淡々と業務をこなしていた。

 そろそろ帰ろうかと思っていた頃、一通のメッセージがスマホに届いた。彼女からだった。

 そこには、残業で疲れた僕を落ち込ませるには十分の内容が書かれていた……。


つづく

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