バニラ、キンモクセイ、そしてまたバニラ。
匂いは一瞬にして、過去の記憶を呼び起こすことがある。
例えば、そうだな、醤油とみりんでクツクツ煮込んでいる和食の匂いを嗅ぐと、幼き頃の母親の料理を思い出したり、それからこう、街中を歩いている時に柑橘系やフローラル系の香りがふっと漂ってきて、なんだか懐かしくなったり、切なくなったりすることってあるんじゃないかと思う。
俺の場合、それがトイレの芳香剤だったわけだ。といっても別にトイレに思い入れがあったわけじゃない。芳香剤の香りそのものに懐かしさを感じたのだ。
ちなみに後で調べたことだが、嗅覚や味覚から過去の記憶を呼び覚まされる現象を「プルースト効果」というらしい。フランスの文豪マルセル・プルーストが執筆した『失われた時を求めて』の作中内で、主人公がマドレーヌを紅茶に浸した時の香りから過去を思い出す、といった描写が元になっているそうだ。
そう、それで話を戻すと、友人の家のトイレに入った時、ふわっと甘い匂いが俺の身体にまとわりついたのだ。今まで忘れていた匂い。懐かしくも決して穏やかではない罪の香り。
バニラだ。バニラの香りが俺の記憶をあの頃に戻したのだ――。
彼女は匂いに敏感だった。とにかく香りの強いものが嫌いで、柔軟剤や洗濯洗剤といった化学香料はもちろん、ファーストフードや弁当箱に籠もった食べ物の匂いも苦手で、それから、ベッドでのアノ時の匂いも好きじゃなかったらしい。
中でもバニラの匂いは吐き気がするほど苦手だと言っていた。
彼女はバニラアイスに対して「あんな香料の固まりを食べる意味が分からない」と言っていたし、朝の満員電車に甘ったるくバニラの香水を漂わせてくる女には「もう私を殺す気か」と怒りを俺にぶつけていた。
確かに分からないでもない。特に電車内で香りの強い香水やファーストフードの食べ物の匂いがすると、息を吸うのを躊躇うことがある。
スメハラって言うんだ、そういうの。最近話題になっているから俺も知っている。良い匂いも人にとっては不快を感じさせる匂いになることもあるそうだ。
だから俺は、俺にとって良い匂いでかつストレス解消できるタバコをやめたんだ。……彼女の前では、だが。
でも彼女は、俺がタバコを完全に止めてないことをすぐに見抜いた。そりゃそうか。タバコの匂いって、吸わない人にとっては結構すぐ分かるらしいな。キスしたら一発でバレるし。
エチケットとかマナーとかモラルとかいろいろ言われているし、喫煙者の肩身は狭くなる一方だ。
俺はそこまでヘビースモーカーってわけじゃなかったし、この機会にタバコを断つことにしたんだ。案外すぐにやめられたよ。
俺がタバコをやめたことに彼女は大いに喜んでくれた。そしてその頃には俺もバニラの匂いが嫌いになっていたんだ。街中でふっとバニラが香ると二人して怪訝な顔をして、お互いの顔を見合わしていた。長年一緒にいると、そういうのも似るもんなんだな。
そんな感じで彼女はとにかく匂いには敏感だった。だから俺が浮気したらすぐにバレたんだ。知らない匂いがするって。キンモクセイの匂いがするって、そう言った。
いや、でも聞いてくれ。正確には浮気じゃないんだ。ただ、一緒に飯に行っただけで。でもその日はそれ以上のことはなくて……。「それ以上のこと」って、いやそういう意味じゃないんだ。本当にただ飯食っただけで。手は繋いだけど。
……悪かった。別れ際には抱きしめたよ。でも本当にそれだけなんだ。一線は越えてないし、それだけだって。確かに次会う約束はしたけど、別に飯食う約束だし。
いや、もういいんだ。終わったことだし、これ以上はやめておく。言い訳っぽく聞こえるよな。彼女にもそう言われた。
分かった、正直に言うと、下心もあったさ。だから浮気なんだよな。彼女が嫌いになったわけではない。むしろ彼女は一番好きなのは変わりなかった。でもちょっと気になった子がいて。二番目っていうか……。
いや、もうこの話はやめよう。なんだか俺の評価が下がっている気がする。
でも、これだけは言わせてくれ。確かに一時の迷いで浮ついた心を持ってしまったかもしれないが、でも俺は彼女のことが好きだったんだ。
それで彼女に謝罪したんだけど、許してもらえなかった。彼女は俺の前から消えた。
最近まで知らなかったけど、バニラには「永久不滅」って花言葉があるらしいな。そしてキンモクセイには「陶酔」って花言葉があるんだ。キンモクセイの一時の陶酔によって、永久不滅のバニラを枯らしてしまったんだろうな。
……なんて、感傷に浸っても、悪いのは俺だって分かっている。だから、この思い出は心の奥にしまっていたんだ。
今日、友人のトイレでバニラの芳香剤の匂いを嗅ぐまでは。
彼女のことを一気に思い出してしまった。
小便を出し切り、小のレバーを引く。
トイレを出る前に、バニラの香りを深く吸った。
おかしい話だよな。バニラ嫌いの彼女と一緒にいて、バニラが嫌いになったはずなのに、今、恋い焦がれるようにバニラの匂いを嗅いでいるんだから。
「おう、長かったな、うんこか?」
友人がタバコを吸いながら話す。
「いや。元カノのこと思い出してた」
「トイレで?」
「あぁ。バニラ嫌いだったんだよなあ、アイツ」
「ふーん」
友人は興味なさげに、タバコの煙をふぅーっと吹かした。
タバコの匂いが充満した友人の部屋。
あぁ、またバニラの匂いを嗅ぎたい。元カノの嫌ったあの甘い匂いを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます