隣の個室、別フロアの会話

 昼過ぎ。考えがまとまらず、ひと息入れたくて、私はトイレに向かった。そんな時、私は自分のいるフロアではない階のトイレを使う。

 トイレで同僚に会うのを避けるためだ。別に同僚が嫌なわけではない。むしろ同僚と話すのは好きな方だ。それこそトイレでメイクを直しながら、休憩室ではできない世間話をするのは大好物だ。

 例えば、男性社員のファッションセンスの話、会社の決めごとについての不満な点、業務における具体的なストレスの溜まる話、それからキワドイところだと、部長のセクハラ発言だとか、課長の不倫疑惑の話なんかだ。

 そういう話は楽しくて仕方がないし、話題を共有することで話し終わった時、スッキリした気分になれる。トイレだけに。

 さすがに同姓の悪口なんかは話せない。当人が個室にいたら大変なことになる。同じ部署にいる“お局”が企画を真っ向否定する話や、私と大して年齢が変わらないのに若い女子社員のファッションをいつも真似てくる社員の話なんかは、口が裂けてもトイレでは話せない。

 トイレでは話せないが、話したくて仕方ないので、そういう話は、仲の良いメンバーとランチの時に話すのだ。

 つまり私は話好きなのだ。もうオバサンかもしれない。やばいかもしれない。陰で誰かにお局と呼ばれているかもしれない。不安になってきたらまだ誰かと話がしたくなってきた。


 だめだめ。今日はもう少しでまとまりそうな企画案をちょっと考えたいのだ。だから普段のトイレではない、あえて同僚のいない遠くのトイレに向かうというわけなのだ。

 エレベーターに乗り、三階下に降りエレベーターホールの横にある女子トイレに入った。

 洗面台には手を洗っている若い女子社員がいた。

 私が「お疲れさまです」と小声で言うと、その社員は鏡越しに「お疲れさまです」と声を掛けてきた。

 だけど誰だか分からない。見たことはあるけど知らない人。そんなことはそれなりに大きな会社なので、よくあることだ。

 四つある個室のうち、二つが埋まっていた。一番奥のトイレからおしり洗浄の音がしている。もうすぐ出てきそうな気配がしたので私はその隣の個室に入った。両隣の個室が空いていた方が、なんとなく気が楽だからだ。

 個室に入り、さっそく用を足す。ふぅ、と静かな吐息が自然と漏れる。我慢していたわけではないが、出すことで爽快感を得られる。落ち着く。休憩室も落ち着くが、やはりトイレの方が格段に良い。

 就業時間中に独りになれる場所はトイレぐらいしかないからだと思う。業務フロアはもちろん、休憩室も給湯室も、外ランチの時だって、周りに誰かしらいて、常に誰かの目を気にしなくちゃいけない。

 より自宅に近いプライベート空間を味わうならトイレしかないのだ。だからトイレが落ち着くのだと思う。

 私はスマートフォンを取り出し、SNSをチェックした。今話題になっているトレンドを追う。アイドルの不祥事、殺人事件の容疑者逮捕、新しい美容方法……。

 ああ、だめだ。私は考え事をしようと思っていたのに。ついついスマートフォンを見てしまった。今見ている記事を読み終わったら、考え事をしよう。

 そんなことをぼんやりと思っていると、トイレに人が入ってきて、そのまま空室だった右隣の個室の扉が閉まる音がした。

 そういえば。私がトイレに入った時に聞こえていた、左隣の個室のおしり洗浄の音だが、まだ鳴っているのだ。

 しかも途中からムーブモードに切り替わっていた。ヴィーン、ヴィーンという機械音とともに、ひっきりなしに水の噴射する音が聞こえる。

 よっぽどおしり洗浄が好きなのだろう。普段使う階のトイレでも、同じように長時間おしりを洗っている音を時たま耳にする。

 ちなみに私は、衛生面が不安で、会社のトイレではおしり洗浄を使わない。

 と、突然、おしり洗浄が終了し、今度はトイレットペーパーをガラガラガラと、執拗に引き出す音が聞こえた。

 いったい何枚折りにするつもりだと思うぐらい引き出している。


「もしもし? ……あ、お疲れさまー」

 え、電話? 今度は右隣のトイレから声が聞こえてきた。

 トイレで電話をしていることにまず驚いたが、電話から漏れている声を聞いてさらに驚いた。何を言っているかはさすがに分からないが、声の感じから話し相手は男性なのである。

「あー、いいよ、それ。今度の契約の時に言っておくから。はい、はい、じゃーね」

 電話を切った直後、ジョボジョボと用を足す音が聞こえた。トイレで男と話すなんて恥ずかしくないのだろうか。相手にも失礼な気がする。なんかもう、いろいろとすごい。私はぜったいにできない。


「不倫ちゃん、今日休みなんだってね」

「あー、なんかね、旅行だって。宮古島」

「え? 二人で?」

「みたいよー」

 今度は洗面台での会話が聞こえてきた。この階にも不倫をしている人がいるのかと、つい会話を聞いてしまう。


「しかし、よくやるよねー。企画の人でしょ? 相手」

「そうそう。課長? らしいよ。顔みたことないケド」

 おい。おい、おい。企画の人で、課長で、奇しくも今日休みを取っている人を、私、知っているのですが。

「宮古島ねぇ。いいねぇ、愛の逃避行ぽくて」

「不倫ちゃん、『お土産買ってきますねー』って言ってたけど、受け取れねー」

「ほんと、いらねー」

 女子社員たちの笑い声が聞こえる。

 まさか課長の不倫相手が同じ会社にいたとは、思わぬ情報に、今すぐ個室を出て話に参加したいぐらいだった。

 でもさすがに、知らない人相手に、他人の不貞行為を根掘り葉掘り聞くような図太い神経はしていないし、それを思い留めるぐらいの理性はある。

 だけど、今の会話を聞かなかったことにして、私の中に留めておく程の忍耐力は残念ながら、ない。もう話したくて仕方ない。


 私は自分のフロアに戻ることにした。トイレには十分もいなかったし、企画案についても全く考えられなかったが、代わりに強力なネタを仕入れることができた。いい休憩になった。


 さっそくトイレに行って誰かに話そう。

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