ラバーカップなんてない

「さて。これでよし、と」

 私はアルミホイルの落としぶたをして、コンロの火を弱火にした。十五分ほど煮込めば完成だ。

 ワンルームの壁に掛かっている時計を見る。現在、十九時十三分。十九時三十分過ぎに火を止めよう。

 レンジ台に載せた炊飯器を見る。液晶部分には「残り十分」と表示されている。こちらも問題なし、と。

 今日の晩ご飯は、ご飯に味噌汁、肉野菜炒めと今煮込んでいる肉じゃがだ。

 もうすぐ仕事帰りの彼が私の家にやって来る。

 付き合い始めて二ヶ月。彼は二日に一回のペースで、仕事帰りにそのまま私の家に来る。

 ご飯を食べて帰る時もあれば、そのまま夜を過ごし、私の家から出社することもある。なので家には彼の部屋着や替えのワイシャツ、下着などが置いてあるのだ。

 ワンルームを見回す。シングルサイズのベッドの上が少々乱れていたので、掛け布団を整えた。

 テーブルの上は、朝、化粧をして会社に出たっきりの状態で、化粧用具が散らかっていた。こちらも手早く収納箱に片づけた。

 これでよし。部屋の片付けも問題なし、と。


 肉じゃがの良い匂いがしてくる。私はお鍋の状態を確認して、トイレに向かった。トイレ、バスルーム、洗濯機置き場、それから玄関は、小さな廊下の周りにまとまっていて、キッチン付きのワンルームとは扉で仕切られている。

 この扉があるおかげで、玄関から直接、部屋の中を見られる心配がなく、宅配便を受け取る時などに便利なのだ。

 

 私はトイレに入って、大きい用を足した。こういうことも彼が来る前に済ませておきたかった。

 トイレットペーパーをカラカラと引き出し、お尻を拭く。これでよし、と。

 立ち上がり、水を流した。排泄物とトイレットペーパーが水とともに穴に引き込まれていった。

 しかし、ゴポゴポッと普段と異なる音がしたかと思うと、みるみるうちに便器の中に水が溢れてきた。

「え、ちょっ。なになに」

 水は排水されることなく、どんどんと便器に溜まっていく。それでも上からは流れる水は止まらない。

「うそうそ。やばい」

 便座位置に近づくくらいまで水位が上がる。

「やばい、やばい。ほんと、やばいって」

 どうすることもできず、ひとりパニックになる。もう溢れてしまいそうだ。思わずその場から後ずさった。

 やがて水が流れるのが止まり、溢れるギリギリのところで水の上昇も止まった。

「ふぅ」ため息が漏れた。取りあえず、溢れ出なくて良かった。

 私は詰まったトイレに近づき、改めて状態を確かめた。

 便器になみなみと溜まった水の中には、ふやけたトイレットペーパーが、透明な水の中をゆらゆらと舞っているだけで、排泄物の姿は確認できなかった。

 紙を使いすぎてしまったのだろうか。

 さらに観察すると、少しずつではあるが、水が引いているのが分かった。しばらく待てば、溜まった水は全部流れてくれそうだ。


 そうしてしばらく待つと、普段と変わらぬ状態になった。

 だけどきっと、まだ詰まっていると思う。

「どうしよう……」

 私は頭の中で対処方法を考えた。まず思いついたのが、「もう一度、水を流してみる」ことである。

 上手くいけば、詰まっているものも一緒に流れてくれるかもしれない。でも最悪の場合、今度こそ水が溢れ、事態の悪化を招くかもしれない。しかも詰まった汚物が逆流したら大変だ。

 じゃあ、「小」で流したら良いのではないか、と思いついた。

 こちらも上手くいけば、詰まったものが流れるし、流れなかったとしても、溢れ出ることはない水の量だ。

 私はさっそく、「小」のレバーを引き、水を流した。

 先ほどと同様に水が便器に溜まり出す。だけど一向に排水される気配がない。

 しかも排水路からは茶色いカケラが出てきて、便器内を漂いだした。

 やがて水は、便器の三分の一程の位置まで溜まり、止まった。

「ダメか……」

 またしても少しずつだが、水が引いていく。


 そうだ。私はふと思い出した。そろそろ彼が来てしまう時間だった。それまでに何とかしないといけないのだ。

 彼に助けを求めたいが、それだけはどうしてもできない。

 だって、今のように茶色いカケラが出てくるかもしれないから。そんなもの恥ずかしくてとても見せられない。

 こういう時はどうすればいいのか。私は再び対処方法を考えた。

 ラバーカップがあれば一発なのだろうけど、あいにく私の家のトイレにラバーカップなんてない。

 ラバーカップってどこに売っているのだろう。近所にドラッグストアはない。コンビニに売っているだろうか。百均ショップにならありそうだ。

 今から急いで買いに行こうか。よし、そうしよう。いや、ダメ。

 彼は合い鍵を持っている。

 もし私がラバーカップを買いに行っている間に、家に帰ってきてトイレを使ったら……。私の茶色いカケラが……。

「いや。ムリ……」

 ラバーカップ調達案はなくなった。

 ならば、やはり業者に頼むしかないのではないか。きっと業者の人も男の人で、私の茶色いカケラを見るに違いない。でも知らない男の人だし、彼に見られるよりはまだいいか。たしか冷蔵庫の扉に「水のトラブルお任せ下さい」というマグネットを貼っていた。そこに書いてある電話番号にかけて、今すぐに来てもらおう。


 ピンポーン


 インターフォンが鳴った。ほら、すぐに来……た?

「やっば。どうしよう」彼だ、彼が帰ってきてしまった。私はトイレから出ることができない。

 カギが差し込まれる音が聞こえ、ガチャリとカギが外れると、扉が開けられた。

「ただいまー。あれ? いないのー?」

 彼が玄関で靴を脱いでいる音が聞こえる。どうしよう。出て行こうか。

「ん? くさっ、なんか臭う!」彼が突然、大声を上げた。

 え……。茶色いカケラの臭いが漏れている? 私は咄嗟に便座の蓋を閉めた。

 その時、「焦げくさっ。これだ、あぶねぇ!」と聞こえ、ようやく思い出した。

 肉じゃがだ。肉じゃが、煮込んでいたんだった。


 私はトイレから飛び出し、彼のいる部屋へと戻った。キッチンからは白煙が立ちこめていた。

「あぶねぇぞ、これ、火事になるところだったぞ」

 彼は火を止めて、アルミホイルをめくっていた。私もお鍋の中を覗き込んだ。

 水分はすっかりなくなっていて、中心部の食材が黒っぽく焦げていた。

「なにやってんだよ、お前っ!」

「ごめん、なさい……」

 彼に怒られてしまった。

 



 その後、トイレが詰まってしまった事情を彼に話した。

 彼も状況を把握したようで、突然、怒鳴ってしまったことを詫びてきた。

「火にかけているときは離れないように」と、改めて注意された。ごめんなさい。

 それから、予想通り彼は「トイレの詰まりを直す」と言ってきたので、恥ずかしいことを正直に伝えた。

 すると彼は、私の代わりに、ラバーカップを買いに行ってくれた。


 彼からラバーカップを受け取り、ぐいぐいと排水口に向けて数回押すと、見事にトイレの詰まりは解消したのだった。



 冷めてしまった味噌汁と肉野菜炒めを温め直し、テーブルに並べる。

 肉じゃがも焦げていないところをかき集め、お皿に盛る。

「今日はいろいろありがとう」

「あぁ、大丈夫。さぁ、腹減った。食べよう」

「うん」


 良かった。これでよし、と。


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