ぼくの対処方法

 今日は少し危ないかもしれない、と寝る前から思っていた。なるべく激しい動作をせずに、呼吸もゆっくり深呼吸するようにして、発作が起きないように気をつけていた。

「おやすみなさい」

 居間でテレビを見ている父さんに挨拶をして、寝室へと向かう。

「あら、もう寝るの」

 寝室では母さんが布団を敷いていた。

「ほこりっぽいから、ちょっと向こうに行っていた方がいいわ」

 六畳の和室に布団を川の字のように三枚敷いている。部屋にはタンスや鏡台が置いてあるため、三枚の布団は、ちょうど畳を埋めるように敷き詰められる。

 ぼくの布団は一番奥だ。理由は簡単、一番先に寝るからだ。

 しばらくすると母さんが「いいわよ。おやすみ」と声を掛けてくれた。

「おやすみなさい」

 ぼくがそう言うと、母さんは引き戸を半分よりちょっと多く閉めた。

 ぼくは布団の上を歩き、部屋の中央まで行き、電気から垂れている紐を二回引っ張り、保安球にした。

 そのまま一番奥の自分の布団の上に来た。この時点で、少し呼吸が苦しく感じていたが、寝てしまえば大丈夫だろうと思っていた。

 しかし、横になってしばらくすると、呼吸が苦しくなってきて、ヒューヒューと息をする度に音が出るようになってしまったのだ。



 ぼくは小児喘息を患っていて、週に一回、喘息の治療で有名な市内の耳鼻科に通っている。そこではぼくと同じくらいの小学生や、それよりも小さい子たちが母親と一緒に診察待ちをしている。待ち時間が長いことでも有名で、毎回診察までに二時間近く待たされる。

 診察は、肺活量を計ったり、問診したりして、十分もかからないぐらいで終わる。優しい先生で、とても信頼できる病院だ。

 診察後にはいつも「ネブライザー」という吸入器を使って治療する。筒状になったマウスピースを口にくわえ、ホースから出てくる霧状の水と薬を直接、咽や気管に薬を届けるのだ。

 十分間じっとしながら、シューという静かな音とともに、口の中に送り込まれる霧状の水分をゆっくりと吸っていく必要がある。

 薬の味はなく、霧吹きの水を口に当てられているような感じなので、じっとしているのが苦でなければ、特段嫌な治療方法ではない。

 そしてこの治療を行うと、驚くほど息をするのが楽になる。



 だから今、ぼくはあのマウスピースを口にあて、たっぷりの霧を吸いたいと思った。そうしたら一気に楽になるのに。

 一度、発作を起こしてしまうと、横になっているのが辛く、起き上がる。

 息をする度にヒューヒュー、ゼーゼーと音がする。苦しい。

 体育座りをして、頭を両足の間に挟み込むような体勢になると、いくらか呼吸が楽になる。ゆっくり深く息をして、呼吸が落ち着くのを願う。

 そんなことをしても良くならないのは知っている。発作が起きてしまうと、しばらく寝ることもできないのは知っている。焦れば焦るほど悪化するのも知っている。

 横を見ると、引き戸の隙間から灯りが漏れていた。リビングの先にある居間からテレビの明りが賑やかにチカチカと光っている。

 ぼくはゆっくりと立ち上がり、寝室からリビングへ出た。

 母さんが台所で皿を洗っていた。

「あら、どうしたの?」

「息、苦しい」

 ぼくは発作が起きたことを伝え、リビングにある勉強机の引き出しから緑色の携帯型吸入スプレーを取り出した。

 病院のネブライザーとは異なり、発作が起きた時に、薬を吸入することで一時的に呼吸が楽になる緊急用のスプレーなのだ。

 しかし薬の量が多いためか、一回一吸入しかできない。

 ぼくはL字型のスプレーを持ち、薬の噴射口を口にあてる。スプレーを押すタイミングと同時に、思いっきり息を吸い込んだ。プシューと音をたて、粉っぽい薬の感触が咽にあたる。

 深呼吸を数回繰り返す。

「大丈夫?」

 母さんが心配そうに尋ねてくる。ぼくは話すのがしんどくて、ゆっくり頭を縦に振った。そしてそのまま寝室へと戻った。

 しかし、すぐに横になれるわけもなく、タンスに寄りかかりながら、体育座りをして、呼吸が落ち着くのを静かに待った。

 しばらくそうしていると、少し呼吸が楽になったようで、もう一度横になってみたが、やっぱり苦しくて、すぐに起き上がり座ってしまう。

 そんなことを何度か繰り返していると、ようやく呼吸が緩やかになり、眠気もあって、いつの間にか寝ていた。

 

 

 次に起きた時には、母さんも父さんも寝ていた。ヒューヒューと音をたて、気管支が悲鳴を上げている。落ち着いたと思った発作が再び起こったのだった。しかもさっきよりもひどい状態だ。でもこれもよくあることなのだ。

 夜に発作が起こってしまうと、悪い時は明け方まで落ち着かないのだ。

 両親を起こさないように静かに呼吸をしたいのだが、上手く息ができないので、どうしても大きな音を立ててしまう。だからぼくはゆっくり立ち上がり寝室を出た。

 ぼくのせいでふたりを起こしてしまっても、喘息の発作を止める方法は何もなく、結局のところ自分自身でどうにかしなくてはならないのだ。


 リビングに出て、時計を見ると、午前二時だった。吸入スプレーは先ほど使ったばかりなので使えない。こうなると自力で何とかするしかない。

 こんな時、ぼくは決まってトイレに行く。トイレに行く理由はいくつかある。

 一つ目は、トイレに座り両肘を両膝につけるように前屈みに座ると呼吸がだいぶ楽になるからだ。それから寝室から遠く離れたトイレだと、ヒューヒューと呼吸音がうるさくても、両親を起こすことがないからだ。

 そしてトイレの小窓を開けると新鮮な空気を吸うことができるのも理由のひとつだ。夜の冷たい空気は喘息に良くない気もするのだが、ほこりっぽい空気を吸うよりも良いと自分では思っている。

 呼吸が落ち着くまでトイレで過ごす。

 何も考えずに、たくさんの酸素を取り込むように深呼吸をする。


 ヒューヒュー、ゼーゼー。

 明日はまだ水曜日。学校に行かなくちゃ。早く寝なくちゃ。

 焦ると良くないのは分かっているけれど、考えずにいられない。早く寝たい。欠伸は出るが、呼吸が苦しくて寝ることができない。


 トイレの小窓から外を眺める。夜空に星が輝いているのが見えた。

 今夜もぼくはひとり、呼吸が落ち着くのをトイレで待つのだ。

 焦ってはいけない。ゆっくり、ゆっくり、呼吸することだけを考える。

 ひゅう、ひゅう。ぜい、ぜい。ひゅう、ひゅう。

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