憂鬱な週末

 彼女と同棲を始めて一年半が過ぎた。

 先日からブライダルフェアにも行き始め、週末は式場選びの予定がぎっしり入る中、この日がやってきてしまった。

 人生初のこの日。憂鬱で仕方がない。

 しかも二日に分けて行わなければいけないのだ。

 そう。採便だ。


 会社から健康診断の案内が入った封筒を受け取ったのは先日。昨年までは受診日の案内と問診票が入った「定期健康診断」のお知らせだったのだが、今年からは「健保指定ドック」というお知らせに変わり、封筒の中には書類の他に、見慣れない緑の袋が入っていた。

 これが噂に聞く検便キットだ。

 ぼくの所属する健康保険組合では、三十歳から眼圧、検便、バリウム(ああ、これもまた憂鬱である……)が増えた簡易的な人間ドックが行われるのだ。


「健康診断のお知らせきたよ。今年から検便とバリウムだってー」

 封筒を受け取ったその日、彼女に報告した。

「白うんこだっ!」

 彼女は口に手を当て笑い出す。予想はしていたが、やはり言われた。

 彼女は普段から「おしっこぉー」などと言っているので、特段下品な印象はなく、むしろ子どものようでかわいらしいと思えるのだが、「うんこ」と言われた矛先が自分であると、さすがに笑えない。

「検便ってうんこ持って行くの?」

「そうなんだよ。検便もバリウムもほんと憂鬱」

「うんこ、どうやって採るの? 手袋?」

「いや。棒みたいなので採るみたい」

「へぇ」

 彼女は何か思いついたのか寝室へ行ったかと思うと、すぐに戻ってきた。

 手には以前水族館で買った、深海ザメのラブカのぬいぐるみを持っている。

 彼女は茶色いウツボのような姿のラブカをくねくね動かしながら、

「やあ! ぼくはうんこ。よろしくね!」と話し出した。

 ラブカと目が合う。ラブカはくねくねしながら、じっと返答を待っている。

「…………ぷっ」

 沈黙に耐えきれなくなったのか、彼女が笑った。

「ぷははっ」

 ぼくもつられて笑う。

「頑張って、ぼくを採取してねっ!」

「あぁ、頑張るよ」

 ぼくは彼女の持つラブカを捕まえようとすると、ラブカは彼女とともにひゅーんっと寝室へと逃げていった。

「まてーっ!」

「きゃあ、捕まるー」

 ベッドの上に上がったラブカを彼女ごと捕まえた。

「捕まったぁー。ぶりぶりぶりー」

 ラブカは動きを止め、元いたベッドの隅に戻っていった。

「馬鹿にしているようだけど、キミもそのうちやるんだよ。検便」

「私はまだまだ先だもーん」

 彼女はにやにやと笑っている。年下の彼女が検便を行うのは、数年先だ。それまで、ぼくは毎年彼女に馬鹿にされるのだろう。

 でも分かっている。これは彼女なりに励ましてくれているのだと。



「そんなわけで、今週末の土日は家を空けておいてくれないかい」

「え、なんで?」

「そりゃ、採便するからだよ」

 検便に必要な検体は、健康診断の一週間以内、日を分けて二回採る必要があるのだ。

 平日の朝は忙しく、勤務中に職場のトイレで採便するわけに行かず、かといって夜には便意がない。だから採便するには土日が適しているのだ。

「えー。そんな大げさな。ブライダルフェア行かないの?」

「午後には行けると思うから予約はそのままで良いよ」

「ぬー」

「だからキミは午前中、どこか遊びに行っておいで」

「ぷー」

 あまり納得していないようだが、彼女が家にいたのでは恥ずかしくて出る物も出なくなってしまう。



 こうして迎えた土曜日。彼女は予定通り、午前中から家を空けてくれた。

 ぼくはぼくでお腹を壊さないよう刺身など生ものは控えるようにしたり、便が出やすいようにたくさん食べるようにするなどし、前日から体調を整えていた。

 万全の体制で人生初の採便に挑むのだ。 

 あらかじめ同封されていた「正しい大便のとり方」という説明書を読み、採便方法を学んだ。

 洋式トイレの場合、折りたたんだトイレットペーパーを水の溜まっていない斜めの部分に置く。その後、通常とは反対向きに――便器をまたぐように――座る、または便座に浅く座り、敷き詰めたトイレットペーパーの上へ便を落とす。

 百円ライターのような形状の採便容器の蓋を開けると、蓋がそのまま持ち手になるスティックが出てくる。

 スティックの先端にはみぞがついており、そのスティックを使い便の表面をまんべんなくこすり、みぞが埋まったら採便完了である。

 説明書には採りすぎに注意と書かれていた。

 後は採便容器にスティックを戻し、蓋をして氏名と採便した日時を記入したら終了だ。

 基本的に一日一回の排便だから、チャンスは土日それぞれ一回しかないのだ。


 気が落ち着かない中、テレビを見て過ごしていると、ついに便意を感じ始めたのだ。きた、きた。行けそうだ。

 採便容器と説明書を持ってトイレに向かう。

 逆向きに座るため、下半身裸になる。こんな姿、彼女には見せられない。

 説明書通りにトイレットペーパーを置き、おまるに座るように便座に座った。とても座りにくい。

 トイレットペーパーの位置を確認し、一気に肛門に集中し、便を出す。

 便を出し過ぎて水が溜まっている方に落ちても困るので、適度に出たところで肛門を絞って途中で便を切った。

 すぐに向きを変え、尻も拭かずに便器の前にしゃがみ込む。

 今出した便は、綺麗な黄土色をしており、人差し指と中指を合わせたぐらいの大きさで、適度な粘度でトイレットペーパーの上に乗っかっていた。

「おええぇっ」

 途端、強烈な臭いが鼻を襲った。目の前の、空気にさらされた便が、トイレ内を悪臭で包み込んでいく。

「おえええっ。くさ」

 普段あまり感じることのない、自分の便の臭さにショックを受ける。

 採便容器を開け、スティックを取り出す。ぼくは息を止めて、手早くスティックを便の表面にこすりつけた。

 下半身裸で、便器の前にしゃがみ込み、臭いに耐えながら、自分の便を突いている姿は誰にも見せられない。

 スティックを採便容器に戻し蓋をする。

 ぼくは立ち上がり、急いでトイレの水を流した。そのまま一旦外に出て、新鮮な空気を吸う。

「ふぅー」空気が美味しい。

 再びトイレに戻り、残りの便を出し、普段通りに尻を拭いた。

 こうして人生初の採便は終わったのだ。

 

 あぁ、明日もあるのだ。憂鬱な一日だ。

 そしてきっと、彼女はにやにやしながら「どうやって採ったの?」と訊いてくるだろう。

 ぼくはそれを説明するために、彼女の待つブライダルフェアの会場にこれから向かうのだ。



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