松茸の露

 急ぐとも 心静かに 手を添えて 外にこぼすな 松茸の露

 詠み人知らず。


 急いでいるときも、心を落ち着かせて、しっかりと自分のモノに手を添え、狙いを定めて小便器の外に尿をこぼさないようにしましょう、という俳句である。

 誰が詠んだのか、いつ作られたのか分からない作品だが、男性用トイレには割と見かける注意書きだ。

 「松茸の露」というのが品があり、おしゃれだ。確かに「松茸」の形に似ている。「露」は尿だ。松茸の先っぽから露が出るのだ。

 まあ、俺のモノは松茸よりもだいぶ大きいがな。

 よく行く居酒屋の小便器の前に貼られた注意書きを見ながら、酔った俺はいつもそんなことを思っていた。



 あれから十数年。僕の生活スタイルは変わった。仕事が変わり、居住地も変わり、新しい出会いがあり、結婚もした。今では妻と一人娘と幸せに暮らしている。

 仕事の関係でたまたま昔住んでいた街に訪れたので、よく行っていた居酒屋に寄ってみることにしたのだ。

 自分の記憶を頼りに駅前の商店街を歩く。個人商店だったところがコンビニに変わっていたり、酒屋だったところに一軒家が建っていたりと、商店街の風景は所々変わっていた。

 まだやっているだろうか。

 僕は不安に思いながらも目的の場所に向かった。

 「智の肴酒」の看板は、あの時と比べていくらか古ぼけてしまったが、ちゃんとそこにあった。



「そりゃあ、覚えてるよ。お前さん、毎日のように来てたじゃないか」

 店の主人は十数年分しっかりと歳を取っていた。シワもシミも増え、腰も曲がっている。

「店、畳んでたらどうしようかと思いましたよ」

「俺は死ぬまでこの店をやるよ」

 主人は大きく笑い、カウンター越しに常連客へ同意を求めている。

 身体的には歳を取っているが、元気の良さはあの時と変わらない。むしろ威勢が増したような気さえもする。

 居酒屋もあの頃以上に客が入って賑わっていた。

「元気そうで何よりです」

「おお。そうか。お前さんはどうだ? 最近は」

「ええ。おかげさまで仕事も順調ですし……。あぁそうだ、結婚しましたよ」

「ほう、そりゃめでたいことだな」

 僕がこの居酒屋に通い詰めていた頃、公私ともにうまくいかず、よく主人に相談していたのだ。仕事の話がメインだったが、時には他の常連客とともに色恋話もしたものだ。

「おっぱいでけぇ女か?」

「え、ええ。まぁ」

「おぉ。よかったじゃねぇか。毎日揉みたい放題だな」

「やめてくださいよー。もう娘もいるんですから」

「おうおうおう。お前さん、性格が変わっちまったなぁ。昔は我先にと下ネタばっかり話してたじゃないか」

「そんなことないですよ、それにまだ一杯目ですよ」

 僕は目の前のビールジョッキを指さす。まだ半分くらいは残っている。

「お。飲み足りねぇか」

「いやいや、まだ大丈夫ですって」

 主人が日本酒を準備しようとしたので、慌てて止めた。

「しかし、丸くなったな。昔はもっと尖ってたからな、お前さん」

「そうでしたっけ?」

 それからしばらく昔話に花を咲かせた。



 居酒屋のトイレに入ると、あの「松茸の露」の貼り紙が貼ってあった。紙は黄ばんでいて、所々シミもあり、紙の端も破れていた。

 どうやらあの頃のままの貼り紙のようだった。

 僕は松茸を2、3度軽く振り、露を出し切り、席に戻った。


「実際、掃除する身にもなってくれよ。腰も痛い中、飛び散った他人の小便拭くんだぞ。つらいぞ、みじめだぞ」

 主人に「松茸の露」の話をすると、トイレ話で盛り上がった。

「俺、家で座ってしてるっす。彼女がトイレ掃除してくれるんすけど、なんか悪くて」

 隣のチャラそうな若い男が話に入る。容姿と内容に意外性を感じた。

「洋式トイレで立ってすると意外と飛び散るんだよな。まぁ、女房も逝っちまったし、俺は立ってするけどな。家のトイレは滅多に掃除もしねえし」

 「へいお待ち」と厚焼き卵を若い男に出しながら主人は話す。

「実は、僕も嫁に言われているんですよね。座ってしろって。でもいちいち座るのめんどくさくて、やってないんですけど」

「座った方がいいっすよー。奥さんかわいそうっすよー」

 20歳ぐらい年が離れている男に言われると、自分が情けなく感じた。



「――じゃあ、また来ますね」

「おう。今度は家族で来いよ」

 そんな話をして居酒屋を後にした。娘がもう少し大きくなったら3人で行こうかと思う。つい飲み過ぎてしまい、終電を逃してしまったため、駅前に停まっていたタクシーに乗り込んだ。



 家に帰ると、妻も娘も既に寝ていた。

 僕はまずトイレに向かった。帰宅中、ずっと我慢していたのだ。

 洋式トイレの前に立ち、先ほどの居酒屋の会話を思い出す。

 ――つらいぞ、みじめだそ

 ――奥さんかわいそうっすよー。


 くるりと向きを直し、便座に腰を下ろした。今日から座ってしようと思う。

 そして用を足した。

 用を足した、用を足したのだが――

 我慢していたせいで勢いがつき、便座とトイレ本体の間から、尿が大量に漏れ出てしまった。

 便器はもちろん、ズボンもパンツも自分の尿でぐっしょりと濡れた……。

 いっきに酔いが覚めた。

 ああ。


 急ぐとも 心静かに 手を添えて 外にこぼすな 松茸の露

 詠み人知らず。

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