匂いに誘われて

 彼女と同棲を始めて半年。彼女が初めて風邪を引いた。

 

「ごめんね。今日の予定、ダメにしちゃって」

 彼女が鼻声でそう言った。

「ううん。大丈夫だよ。今日はゆっくり休んで、早く治そう」

「ありがと」

 

 昨日、仕事から帰ってきた彼女は、「なんか具合悪いかもー」と、頭を押さえていて、そのまま「明日早いし、もう寝るね」と早々に就寝したのだった。

 土曜日の今日、ふたりで遠出する予定を立てていた。予定通り、仕事に行くよりも少し早い時間に起きて、彼女に具合の様子を訊いた。

「んー。ダメかも。のど痛いー」

 昨日の夜も時折、咳をしながら「寝れないよー」と言っていた。


 熱を計ると、三七度八分だった。

 体温計の数値を見て、

「風邪だね」とぼく。

「風邪だね」と彼女も。


「ごめんね。今日の予定、ダメにしちゃって」

「ううん。大丈夫だよ。今日はゆっくり休んで、早く治そう」

「ありがと」

 彼女はそう言って、ピンクのパジャマで寝室へと戻っていく。


「さてと……」

 しばらくしてから、ぼくは彼女を起こさないように、そっと外に出た。

 外は眩しいぐらい良い天気で、絶好の行楽日和だ。信号で停まっていた車には、これからちょうど出かける家族連れが乗っていた。

 それを横目で見ながら横断歩道を渡る。

 ドラッグストアとスーパーに行き、必要なものを買った。


「はい、これ。薬。それからこれも置いとくね」

 ぼくは彼女に風邪薬と冷却ジェル、スポーツドリンクを渡した。

「わぁ。ありがと。わざわざ買いに行ってきてくれたんだ」

 彼女は苦しそうなガラガラ声で話し、ベッドから起き上がろうとした。

「あー、いいよいいよ。そのまま寝てて」

 ぼくの制止に従い、「ん」と再び横になる。

「ちょっと換気しようか。外、良い天気だったよ」

 窓を開けると、新鮮な空気がふわりとぼくをなでた。その風は時間差で彼女にも届いたらしく、

「うにゃあ。遊び行きたいよぅー」と、毛布にくるまり、手をばたつかせる。

「治るまでダメだよー」

「にゅう……」

 彼女はとてもさみしそうな顔をする。その顔にぼくは胸が苦しくなった。

「たくさん水分とって、たくさん寝て早く治そう」

「……わかった。早く治して、明日遊びに行く!」

 彼女はスポーツドリンクの蓋を開け、ゴクゴクと一気に飲み出す。

せるよー。ゆっくり飲みー」

「ぷはぁーっ」

 2リットルペットボトルの4分の1を飲み干した。

「ちょっとずつ飲まないと」

「ん。でも早く治したいんだもん」

 彼女がまたさみしそうな顔をする。

「そうだね。じゃあ、向こうに行ってるから。寒かったら言ってね」と、ぼくは寝室を出た。



 ぼくがリビングでテレビを見ていると、彼女がやってきた。

「どうしたー?」

「おしっこぉー」

「あぁ、たくさん飲んだもんね」

 彼女はコクリと頷き、「早く治すもん」と、トイレへと向かっていた。

 いつもは艶のある長い髪に、長いまつげ、境界がしっかり強調された黒い目。オフィスカジュアルな服装に、ブランドバック。「行ってきまーす」と仕事に向かう、クールで美人な彼女。

 でも今日は、ボサボサ頭に、しっかり一重。おでこには冷却ジェルを貼り、ピンクのパジャマで「おしっこぉー」と純粋な目でトイレに向かう。

 子供みたいだけど、飾らない姿で、ぼくにだけ見せてくれる本当の彼女をぼくは好きなんだ。



 お昼にはおかゆをつくった。食欲はあるようで、「おいひー」と熱いおかゆをハフハフしながら食べていた。

 食後に薬を飲み、寝たかと思うと、ちょくちょくリビングに顔を出しては、「おしっこぉー」とトイレに行く。

 あまりにもトイレの回数が多いことに彼女は、

「もう、トイレで寝るー。行ったり来たりつらいー」とよく分からない案を出してきた。

「トイレなんかで寝たら、余計悪化しちゃうよ」

「じゃあ、トイレの前で寝るー」とさらによく分からないことを言ってきた。

 風邪の時は、水分摂取しているのもあるが、身体の中の悪いものを外に排出しようと、トイレが近くなるということを聞いたことがある。

 彼女のトイレが多いのは、身体が風邪と闘っている証拠なのだと思う。

 トイレの前で寝ようとまくらと毛布を引きずっている彼女を慌ててベッドに戻した。

 換気していた部屋の窓はいつのまにか閉まっていた。

「うにゅう……」

 ベッドに入った彼女は、ふて腐れたように鼻の位置まですっぽりと毛布に入り、ぼくを見ている。

「夜ご飯はなに食べたい?」

「ステーキ!」

 彼女はガバッと顔を出し、叫んだ。

「うん……。ちょっと脂っこいんじゃないかな。ほかには?」

「はんっ、バーグ!」

「うん……、あんま変わんないね」

「じゃあ、ぎょーざ……はちょっとキツいかなー」

「え」

 思わず聞き返してしまった。キツさは3つとも変わらないと思う。

 そんな分かりきった会話をするのは、一日中寝ていて、退屈で、かまって欲しいんだな、と思った。彼女らしい。

「まぁ、さっぱりとして栄養あるもの作るよ」

「ハンバーグ? 和風ハンバーグだね? わーい、わーい、はんっバーグ! はんっバーグ! はんっ……ゲホッ!」

 彼女は咳き込んでしまい、そのまましばらく咳が止まらなかった。

「無理するから……」

 すこし寝なさいと言い、ぼくは寝室を出た。



 切った野菜と豚肉をごく少量のごま油で炒める。水を入れ沸騰させる。しばらくすると牛蒡から灰汁が出てくるのを、おたまですくってやる。

 鰹だしと調味料を入れ、弱火で煮る。その間に、うどんを湯がく。


「いい匂いがするね」

 彼女がひょこっと寝室から顔を出した。

「具合は?」

「ちょっと良くなった。何作ってるの?」

「何だと思う?」

「んー?」

 彼女がキッチンまでやってきて鍋を覗く。

「あ。けんちんうどんだ」

「あたりー」


 人参、牛蒡、里芋、大根、油揚げ。きのこに、豚肉、長ネギ。それからすり下ろした生姜と溶き卵もいれる。仕上げに食べやすいように少しとろみをつける。

 これだけたくさん具材が入っていれば、栄養がしっかり取れる。

「風邪引きさんが早く良くなるように、特製けんちんうどんだよ」

「やったぁー」

「もう食べる?」

「うん、お腹すいちゃったー」

「よし、準備しよう」

「うん。あ、でもその前におしっこ行ってくるー」

「うん、行っておいで」

 彼女はぱたぱたとトイレに向かった。


 食器棚からお椀をふたつ取り出し、うどんとけんちん汁を入れる。



 彼女の風邪が、早く治りますように――。


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