トイレのそばで -2DAY-
昨日から代々木公園で始まった「うまいそば日本一決定戦」もいよいよ今日が最終日だ。
最高気温は昨日より1℃上がる予報で、より暑い戦いになりそうだ。
僕たち「高尾山とろろそば」スタッフは、今日もお揃いの店舗Tシャツを着て午前中から大忙しだった。最終日とあって昨日より来場客が多い。
「冷や四! 天とろ二!」
「はいよっ」
威勢の良い掛け声とともにそばが茹であがる。テント内はまるでサウナ状態だ。
――私とろろ大好きなんです。今日の夜、行ってみようと思いますね
僕が一目惚れしてしまった「信州戸隠そば」の受付の女の子は、結局昨日、お店には来なかった。
やっぱりただの社交辞令だったのか。
僕は遠くの「信州戸隠そば」のブースを見た。優勝候補だけあって人だかりが出来ていた。彼女の姿は見えない。
今日は来ているのかな……。
「ネギはやく!」
「あ。すみません」
薬味のネギを切る手が止まってしまっていた。
会場には賑やかな音楽と軽快な司会者の声が聞こえる。
2日目はステージでのイベントも満載なのだ。今は日本三大そばである「盛岡わんこそば」の大食い大会が行われている。
「すみません、ちょっとトイレに……」
彼女のことが気になって、まともに仕事が出来なかった。せめて今日も来ているかだけでも確かめたかった。
僕はトイレに向かう道すがら、「信州戸隠そば」のブースの前を通った。
彼女は今日もいた。変わらず笑顔で接客していた。
店名の書かれたはちまきをして、結った髪がふわりと揺れる。手を上げてスタッフにオーダーを通し、客に向かって笑顔で挨拶する。
もう少し近くに行きたかったし、声も掛けたかったが、忙しそうだったのでやめた。
第一、注文もしない他店のスタッフTシャツを着た男が突然声を掛けたら、彼女にも店側にも迷惑だろう。
トイレに行くと、今日は男性用も並んでいた。僕は最後尾に並ぶ。
昨日はここで彼女と話したんだと思い出す。この大会も今日まで。大会が終わると、彼女はきっと長野に、僕も八王子に戻ってしまう。
もう一度だけでも話したいな、と思う。
「オレは、高尾山かな? お前は?」
「高尾山」と聞いて、思わず声のする方を見た。トイレ待ちの中年男性2人が話をしている。
「高尾山? あそこはダメだな。あれなら坦々蕎麦の方が断然うまい」
「なんでダメなんだ?」
僕の思った疑問をもう1人の男が質問した。
「とろろそばのくせに、うずらの卵がのってねぇんだよ」
「経費けちったのか?」
僕は恥ずかしくなってスタッフTシャツの店名ロゴが見えないように手で隠した。
「いや。夏場だから生卵は控えたんだろう。食中毒騒ぎが起こったら面倒だしな」
「お前詳しいな」
「ああ。あそこのそばは、うずらの卵ととろろを混ぜると最高にうまいんだ。しかも冬。寒い中、熱々のそばに絡まるととろを想像してみ。マジでうまいから。オレ、よく登ったんだよな、高尾山。その度にあそこのそば食ったんだよ」
「なるほどな。よく知っているからこそのこだわりか」
「ああ。そんなわけでここでの味はイマイチだったってわけ」
彼らの話に嬉しさと悲しさが同時に湧いてきた。まさかトイレ待ちでこんな話が聞けるとは思わなかった。
彼の望む「最高のそば」はここでは提供できないが、「おいしいそば」を待っている人のために、できる限り力を出して行こうと思った。
昼時は大盛況だった。そばを茹でる大釜がふたつでは足りないぐらい客が並んでいた。忙しさのあまり、仕事が雑にならないように気を配りながら、何とか昼のピークを乗り切った。
先輩スタッフから遅めの昼休憩に入っていき、僕が昼には入れたのは16時過ぎだった。
僕は「信州戸隠そば」へ向かった。相変わらず客が並んでいたが、すぐに僕の番になった。
彼女の前に立つ。
「どうも」
「いらっしゃいませ」
ぺこりと彼女が笑顔で挨拶をする。
「これ、ひとつ」
「かしこまりました」
事務的な会話が続く。
彼女が注文を厨房に伝えた。すると奥から「ゆで5分!」と聞こえた。
彼女から笑顔が消え、申し訳なさそうに眉が下がった。
「申し訳ございません。ただいま、そばを茹でていますので、少々お待ちください」
僕はむしろありがたかった。彼女と話せる時間が与えられたのだ。
しかし……。
「忙しそうですね」
「ええ、まあ」
……。時間があるのに、注文すること以外の会話がうまく出来なかった。
何を話したら良いのだろうかと迷っていると、彼女の方から話をしてきた。
「あの。実は私……」
「はい」
「さっき食べに行ったんですよ、ととろ」
彼女はそう言うと、「高尾山ととろそば」と書かれた投票券をポケットから取り出して見せた。
「美味しかったです、とろろ」
「そうだったんだ。気がつかなかった」
「忙しそうにしていたから、声は掛けませんでした」
「あの、実は僕……」
「あがりー!」
奥から声が聞こえた。彼女は声を出した男性スタッフと仲良く話をしている。
男性スタッフが彼女の肩をトントンと叩く仕草が見えた。彼女も笑っている。
彼女が注文したそばを持ってこちらにやってくる。
「たいへんお待たせ致しました。信州戸隠……」
「連絡先。あなたの連絡先、教えてくれませんか」
「えっ」
僕は気づいたらそう言っていた。このそばをもらったらもう会えないと思ったのと、たぶん男性スタッフとのやり取りに嫉妬したのだと思う。
「すみません……。そういうのはちょっと……」
「そうですよね、ごめんなさい」
そして見事に玉砕した。ありがとうございます、と最後に挨拶しそばを受け取った。
僕は公園の隅で信州戸隠そばを啜った。薬味の辛味大根の刺激が、とてもつらかった。
「うまいそば日本一決定戦」の大会結果は、やはり「信州戸隠そば」が優勝。僕たち「高尾山ととろそば」はトップ3には入れなかった。
ステージでは代表者がスピーチをしていた。
撤去作業を行っている最中に声を掛けられた。
「あの……」
彼女だった。頭のはちまきはもうない。
「ちょっと、いいですか」
「あ、はい」
僕たちは、少し離れたところに行く。
「優勝、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「美味しかったですもんね」
「とろろも、美味しかったですよ」
「ありがとうございます」
そこまで言って、会話が途切れた。暗くて表情ははっきり見えない。
「忙しくて、投票できなかったんです。これ、返します」
彼女はポケットから「高尾山とろろそば」の投票券を取り出し、僕に差し出した。
正直、驚いた。わざわざ投票券を返しに来たのかと。
「じゃあ、また。待ってますね」
僕が唖然としていると、彼女はスタスタと駆けていった。
「え、ちょ……」
待ってます?
投票券の裏を見ると手書きのメモが書かれていた。「また、食べに行きたいです」というコメントともに彼女の名前と連絡先が。
こうして僕たちの暑く、熱い戦いは幕を降ろし、代わりに僕と彼女の遠距離恋愛の幕が上がったのだ。
今は遠いが、いつか彼女のそばに行きたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます