トイレのそばで -1DAY-
「よろしくお願いしまーすっ!」
陽が
今日から2日間、ここ代々木公園で「うまいそば日本一決定戦」が開催される。
日本全国のご当地そばが日本一を目指して熱き戦いを繰り広げるのだ。
出場数は過去最多の21店舗。2日間で約10万人の来場者、約15万食のそば販売が見込まれている。
各店舗でそばを購入すると店の名前が書かれた「投票券」が渡される。来場者はそばを食べ、おいしいと思った店舗を投票、その得票数が最も多い店舗が、うまいそば日本一となるのだ。
僕たちは「高尾山とろろそば」として出場している。スタッフ全員がお揃いの黒いシャツ――シャツには大きく白文字で店の名前が書かれている――を着ている。
メニューは至ってシンプル。「高尾山名物 冷やしとろろそば」と「高尾山名物 天ぷらとろろそば」のふたつ。
とろろとなる山芋の旬は11月頃からなので、正直夏のイベントには不向きなそばなのだが、60歳を超える2代目店主は「オレはとろろで勝負する」と、頑固一徹なのであった。
僕はスタッフの中で一番の下っ端。薬味のネギをひたすら切ったり、使い捨てのエコ容器にめんつゆを入れたり、その他諸々雑用を任されていた。
昔のそば職人には厳しい階級制度があったらしく、僕の仕事は「まごつき」と言うらしい。調理場であっちやこっちや走り回り雑務をこなすことから、この名がついたそうだ。
もっとも僕の働く蕎麦屋では、昔ながらの階級制度はなく、僕は一従業員として雇われている。
僕も普段の店舗では、山芋を擦ったり、蕎麦を茹でたりもしており、「まごつき」が行う仕事以上のことを従業員としてこなしている。
しかし、この2日間の「うまいそば日本一決定戦」では、より短時間でより多くの注文を受ける必要があるため、分業し効率化を図ることになった。
天ぷら担当は2代目店主。そば茹で兼盛り付け担当が2名、レジ及び注文受付が1名、呼び込み担当1名。そして雑用係の僕である。
仕事はお昼に向かってどんどんと忙しくなっていった。そしてお昼には自分の担当など関係なしにお互い滞っている作業のヘルプに就いた。
「次! 冷や二、天とろ一」、「冷や一のネギ抜き!」と次々とオーダーが入ってくる。
夏。正午。ギラギラ輝く太陽。天ぷら。沸々と蒸気を出す茹でがま。そして男たちの熱気。
テント内はあらゆる熱が充満していた。
熱中症にならないよう水分を補給しながら、なんとか昼の山場を乗り切った。
「忙しくなる前に休憩入っちゃってー」
次の山場は17時過ぎからやってくる。僕たちは順々に休憩に入っていった。その場でまかない飯を食べるスタッフもいれば、他の出場店の蕎麦を食べに行くスタッフもいた。
僕はとりあえず会場内を回ってみることにした。スタッフTシャツから私服のシャツに着替える。会場内には、蕎麦の他にも、ホットドック、タコ焼き、リンゴ飴などいわゆるな屋台も軒を連ねていた。ただ、大会公式の敷地から若干離れており、おそらく便乗して出しているのだろう。
僕も他の出場店の蕎麦を食べることにし、パンフレットでそれぞれの出場店の蕎麦を見てみた。
福島県からはネギ一本を箸代わりに使う名物「
僕はその中で大会一番人気と言われている「
戸隠そばは、一口分ほどの量を5束程度に並べた「ぼっち盛り」という独特の盛り方で提供される蕎麦だ。薬味の辛味大根をつけてシンプルにめんつゆで頂く。
各出場店はコの字型に配置されていて、「信州戸隠そば」は僕らの「高尾山とろろそば」のちょうど反対側にあった。
近づいてみると、この時間でもしっかり行列が出来ていた。さすが優勝候補。
しかも揚げ物の提供をしていないためか、並んでいる客は次々と蕎麦を受け取っている。回転が速いのだ。やはり優勝候補。
僕もその列に並んだ。
そして僕は突然、……恋に落ちてしまった――。
受付の女性に一目惚れしてしまったのだ。色白で、髪を後ろで結わえ、店名の書かれたはちまきをして、屈託ないさわやかな笑顔で応対をしている。
客の列が前に進んでいく。
両手でおつりを渡す丁寧な仕草。会釈。
また列が前に進む。
会釈後の笑顔。
さらに列が前に。
そして――
「いらっしゃいませ」
その透き通った声――。
「いかが……いたしましょうか?」
はっと我に返った。急に会場の喧騒や景色が戻った。あまりに見とれすぎて、自分の番になっていたことも気がつかなかった。
彼女が困り顔で僕の顔を覗き込む。
「あ。あの、これをひとつ」
「はい、かしこまりました」
彼女は厨房にオーダーを通す。厨房の男たちが「へいっ」とそばの準備に取りかかる。
僕はお金を支払うと、すぐにそばが出てきた。
「ありがとうございました」
彼女は笑顔でぺこりとお辞儀をした。
僕は結局何も話せなかった。なんだか情けない。一夏の恋はすぐに終わった。
戸隠そばは絶妙だった。つるつるとした喉越しと、啜ったときの蕎麦の風味。辛味大根の刺激が清涼感を増して、暑い夏にぴったりだ。これはやはり優勝候補。シンプルな蕎麦にうまみが凝縮している。
休憩時間も残りわずかだったので、トイレに行き戻ることにした。
公園のトイレは混雑防止のため使用禁止となっており、代わりに大会運営者側が用意した仮設の簡易トイレがずらりと並んでいた。その数、15台ほど。男性用は小便器が3台、個室が2台。残りは女性用となっていた。
女性用には数人列が出来ていたが、男性用はすぐに入れた。
ポリエチレン製の仮設トイレには緑の扉に「男性用」と貼り紙がある。
中に入り用を足した。日中の熱が仮設トイレの中に残っていて、籠もるような不快な空気に包まれる。
仮設トイレの狭さや臭い、あまり清潔と思えない感じが、あまり好きではなかった。素早く済ませ外に出た。
戻る際、トイレに並ぶ女性の列の一番後ろに知った顔を見つけた。
「あ」
僕は思わず声を出してしまった。
「え?」
声に気がついた女性もこちらを見る。「信州戸隠そば」の彼女だ。
「……あぁ。先ほどの。先ほどはありがとうございました」
彼女は僕のことを覚えてくれていたようだった。いや、きっと、よっぽどアホな顔をしていたのだろう。
「そば、とても美味しかったです」
「それは、どうもありがとうございます」
彼女はにこりと笑う。仕事場を離れていても笑顔を絶やさない。なんて素敵な方なのだろう。
もっと話したい。そう思ったのだが、トイレ待ちの女性と話をするのは失礼だとも思った。
「あの、実は僕、あそこの蕎麦屋で働いてるんです」
僕は遠くの「高尾山とろろそば」の看板を指さす。
「じゃあ、ライバルなんですね。お互い頑張りましょうね」
嬉しさのあまり叫びたくなった。叫びそうになったが我慢した。
「はい。よろしければうちのそばも食べに来てくださいね」
「ええ。私とろろ大好きなんです。今日の夜、行ってみようと思いますね」
「待ってますね。では」
僕は紳士的に別れを告げた。
「はい」
彼女は笑顔で会釈をした。
ただの社交辞令かもしれない。それでも僕は仮設トイレのそばで彼女と約束をしたのだった。
彼女が来ることを願って、僕は仕事に戻った。
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