第80話 1103
始業式から一週間が過ぎ、萌葱高校は早くも、夏休みなどとうの昔のことだという雰囲気に包まれていた。
それはみぞれ達も同様だった。通常通り始まった授業をこれまで通りに受け、部活動にも精を出す。夏休み後半の緩やかな日々は消え去り、慌ただしい毎日が戻ってきた。
二学期から始まった素数表の更新という活動は、みぞれにとって新鮮で楽しいものだった。札譜を見て議論するのも楽しいし、見つけた素数たちをどんな表にまとめるかを話し合うのも楽しかった。普段あまり人と喋らないみぞれだが、こうしてみんなと一緒に何かするのは好きなんだなと実感した。
しかし今日は、その活動は休みのようだった。
「なんだろうね、話って」
津々実と一緒に部室へ向かいながら、みぞれは言った。
「さぁ? 文化祭のことだと思うけど、だったらぼかす必要ないよね」
昨夜伊緒菜からグループメッセージが届いていた。こんな内容だった。
『明日、大事な話し合いをするわ。できれば津々実も来てくれないかしら? 10分か20分で済むから』
「大事なのに10分で済むなんてね」
津々実は皮肉っぽく笑った。
部室には今日も、伊緒菜と慧が先に来ていた。
「あ、津々実も来たわね。助かるわ」
それほどでも、と言いながら、津々実も席に座った。
全員が席に座ると、伊緒菜は立ち上がり、眼鏡を押し上げた。
「さて。今日は大事な話し合いがあるわ」
「文化祭の件ですか?」
「いいえ、それよりもっと手前の話よ」
「手前?」
そうよ、と伊緒菜は首を縦に振った。
「再来週、体育祭があるでしょ?」
「ありますね」
津々実が答える。
「うちのクラス、こういうの真剣にやる方で」と、伊緒菜は鞄から二つ折りのプリントを取り出した。「昨日、種目分けしたのよ」
それは体育祭のしおりだった。昨日、全校クラスに配布されたものだ。表紙には、美術部員の手によるものらしい、走る女子生徒のイラストが描かれている。
表紙をめくると、タイムスケジュールが書いてある。そこには百メートル走や障害物競争などの種目名が並び、その横に伊緒菜の字で人名が書いてある。クラスの誰がどれに出るか、全部メモしたようだ。
「パン食い競争なんてあるんですね」慧が反応する。「漫画とかではよく見ますけど」
「騎馬戦もある」津々実がしおりを指差す。「小学生のときやりましたよ。馬役でしたけど」
「チア部のチアリーディング?」みぞれが目を輝かせた。「楽しそう!」
「あなた達、昨日中身見なかったの?」
腕組した伊緒菜が言うと、後輩三人は誤魔化すように笑った。
「それで伊緒菜先輩は……」みぞれはしおりの上に名前を探した。「障害物競走?」
「あと二人三脚ね」
と伊緒菜は付け加えた。
みぞれは、伊緒菜が網の下をくぐったり、平均台を渡ったりする様子を想像した。知的な目つきにあまりそぐわない光景だな、と思った。
「変わった競技に出るんですね」
「なんか推薦されちゃったのよ。トラップを潜り抜けるのが得意そう、とか言われて」
「あー……」
わかる、と後輩三人は同時に思った。
「あと、ペアをリードするのがうまそう、とか」
それもわかる、と後輩三人は同時に思った。
「大事な話って、これですか?」と津々実が小さく手を挙げた。「こういうの真剣にやるクラスってことは、部活を休んで練習するとか?」
「ええ、時々そういう日があると思う。でも、メインはそこじゃないわ。こっちよ」
伊緒菜はしおりの一か所を指差した。スケジュールの後半、伊緒菜の字が書かれていない箇所に、それはあった。
『部活対抗リレー』
「私たちは」そこを指で押さえながら、伊緒菜は言った。「これに出るわ」
「え……」
みぞれは急に慌てた。
「わ、わたし、走るのは苦手で……。というより、スポーツ全般が……」
「私も……」
と慧も目を逸らした。
「まあ、そうだろうと思ったけど」と伊緒菜。「残念ながら、これは全部活強制参加なのよ。運動部も文化部も関係なくね」
「それ絶対、運動部無双じゃないですか」と津々実。「なんか不公平感が……」
「それは大丈夫。さすがに運動部と文化部は、分けて行われるわ。たしか、先に文化部で、あとに運動部だったはず」
絶対に運動部の方がスーパープレイを見せるはずである。文化部連中は前座に過ぎないのだろう。津々実はちょっとだけむくれてみせた。
「そして、今日津々実に来てもらったのも、これが理由」
「あたし? どうしてですか?」
「部活対抗リレーは、四人で行うのよ。私達は四人しかいないから、津々実にも絶対出てもらわないといけない。……それを、家庭科部の人達に許可してもらいに行きたいの」
「ああ、なるほど」
家庭科部員は十人近くいる。津々実がQK部で走っても、向こうはまだ人数に余裕がある。
「……あたしなら、二回走っても平気ですけど。どうせ二百メートルとかですよね?」
「あら、そう? でも、顔見せの意味でも、一度行っておきたいのよ。その方が、今度文化祭のコラボをお願いするとき、敷居が下がるでしょ?」
「え、でも、二回もあたしをダシに何かを頼む方が、気まずくないですか?」
「一回簡単なお願いを聞いてもらえば、次に少しややこしいお願いをしても流れで聞いてもらえそうじゃない?」
うぅむ、と津々実は腕を組んだ。
「ま、伊緒菜先輩がそう思うなら」
「決まりね。じゃ、家庭科室に行きましょうか」
歩き出した伊緒菜に、みぞれが慌てた。
「今からですか!?」
「善は急げよ」
伊緒菜はにやりと笑った。
「なんだ、そんなこと。もちろん構わないよ」
ゴリゴリと低く鈍い音がする家庭科室で、家庭科部部長の伊藤雪子は明るい笑顔で快諾した。
「随分かしこまった話し方をするから、何事かと思ったよ」
「驚かせてすみません」
伊緒菜は外向けの、人に好かれそうな笑顔のまま謝った。みぞれは、初対面の伊緒菜はこんな笑顔だったな、と思い出していた。そういえば、家庭科部を訪れるのもあの四月以来だ。みぞれは懐かしい気持ちになった。
「うちは体育祭には力入れてないし、津々実を除いて適当に組むよ。鈴、それでいいよな?」
雪子は振り返り、後輩たちと一緒にすり鉢を覗いていた眼鏡の副部長に確認を取った。
「ええ、いいわ」
と鈴は簡潔に答えた。
「ありがとうございます」
伊緒菜は淑やかに頭を下げた。みぞれ達もつられて頭を下げる。
「しかし部活対抗リレーか。鈴、今年は何にする?」
「そうね」鈴はすり鉢から離れ、雪子のそばに寄ってきた。「またお玉とかでいいんじゃない?」
「針か包丁じゃなければなんでもいいか」
「なんでそんなに発想が物騒なのよ」
近くで型紙を作っていた部員が、ふふっと吹き出した。
二人のやり取りを見ていた津々実が、小さく手を挙げた。
「あの、部長。なんの話ですか?」
「ん? バトンの話だよ。バトン」
「バトン?」
津々実の反応に疑問を抱き、雪子は伊緒菜を見た。目があった伊緒菜は、「あ」と気が付いた。
「まだ言ってませんでした」
「バトンって、リレーのバトンですか?」
みぞれが伊緒菜に尋ねる。
「そうよ。部活対抗リレーは一種のパフォーマンスでね、どの部活も部に関連する好きなものをバトンにしていいのよ」
「そうなんだよ」雪子は愉快そうに言った。「毎年各部活が工夫を凝らして面白いものをバトンにしてて、見てて楽しいんだよ。去年の野球部はカッコよかったな」
「バットでも使ったんですか?」
と津々実が聞くと、雪子は首を振った。
「いいや、ボールだ。野球部は、バトンの受け渡し区間の端から端へ、投げて渡したんだ。それも、走りながらな」
「サッカー部もすごかったわ」と、今度は鈴が話した。「ボールをドリブルしながら走ったのよ。しかもすごく速かったの」
たぶん、バスケ部も似たようなことをしたんだろうな、とみぞれは思った。
「で、うちはお玉ですか」
「そうね。幸い、うちにはお玉とかハンガーとか、細長いものがたくさんあるから、バトン選びには困らないわよ」
「マネキンの腕とかでもやってみたいな」
「だからなんでそんな物騒なのよ」
みぞれは、この二人が人間の腕を持って走っている姿を想像した――物騒というより、純粋に怖かった。
「しかも、服装も自由なのよ」と伊緒菜が説明を続ける。「剣道部は防具を着て走ってたし、水泳部は水着姿で走ってたわ」
シュールな光景だな、とみぞれは思った。
「私達も毎年、エプロン着けて走るのよ」
得意げな鈴に、部員の津々実が聞いた。
「裁縫班は?」
「裁縫班もよ」
おかしくないか、と津々実は思った。
「うちはどうするんですか?」と慧が小声で聞く。「素数表くらいしかないですけど……」
「あとはトランプかしらね」伊緒菜は肩をすくめる。「まさかスマホをバトンにするわけにはいかないし」
「スマホ? トランプゲームをする部活だって、津々実からは聞いてるけど……」
「部長、前に説明したじゃないですか」津々実がからかうように言った。「素数かどうかを判定するのに、スマホを使うんですよ」
「ええ、そうなんです」
伊緒菜は微笑んでから、胸ポケットのスマホを取り出した。すぐにアプリを起動して、画面を見せる。
「こういう専用アプリがあるんです。ここにたとえば1213と入力すると……」
『1213は素数です』と画面に表示された。
「へえ、すごいな。覚えてるの?」
「もちろん」
新鮮な反応だなぁ、とみぞれは思った。
「ちなみに、『伊藤さん』は素数なんですよ」
伊緒菜は「
「こんなのよく見つけたな」
「他にも色々あるんですよ」
楽し気な二人を見ながら、みぞれはようやく伊緒菜の意図に気が付いた。今のうちに仲良くなって、文化祭のコラボを提案しやすくしているのだ。
「ところで、何を作っているんですか?」
素数の披露が一通り終わったところで、伊緒菜は鈴の背後を見た。さっきから、セーラー服にエプロン姿の部員たちが、すり鉢でつぶした何かに味噌やみりんを加えている。
「ああ、ごまだれよ」と鈴が答えた。「暑いから冷しゃぶでもやろうかと思って。文化祭の準備も兼ねてね」
「え?」
文化祭、というワードにQK部の面々はどきりとした。代表して津々実が聞いた。
「もう準備始めるんですか?」
「準備と呼べるレベルじゃないけど……」
「まだ何をするかは決めてないからね」雪子が代わりに説明する。「昨日、鈴と、今年は和風テイストにしようかって話してて……それで今日のメニューは冷しゃぶになった」
「和風」津々実は繰り返した。「源氏物語とかですか?」
「最初に出てくるのが源氏物語なのか」雪子は笑った。「平安時代に冷しゃぶがあったんならやるけど?」
「しゃぶしゃぶが日本で普及したのって、昭和じゃなかったかしら?」
料理史にも詳しい鈴が、雪子の説を否定した。
津々実は伊緒菜に、アイコンタクトを送った。
『今、コラボの提案をしますか?』
『いえ、まだこちらは何の準備もしてない。今日はここまでで留めるわ』
そう伝え合うと、伊緒菜は情報を得ようとした。
「やっぱり家庭科部って、早くから準備されるんですか?」
「そうだなぁ。部員全員分の衣装を作らなきゃいけないし、演劇部の衣装も作らなきゃいけない。料理も、どうしたって普段作らないようなものになってしまうから、練習が必要だ。最低でも一か月以上前には、何をやるかは決めなきゃいけないな」
つまり、今月中には決めるということだ。
「よし決めた、体育祭が終わったら、出し物を決めよう。みんな、それまでには考えておいてくれ」
雪子は後ろを振り返ったが、部員たちはこちらの話を聞いていなかったようだ。「え、何をですか?」という反応が返ってきた。
「……あとで説明するよ」
伊緒菜はにこりと笑った。
「それでは、邪魔になるといけませんし、私たちはそろそろ帰りますね」
「ん、わかった。お互い、体育祭頑張ろうな」
「はい」
みぞれ達は頭を下げると、津々実を残して家庭科室を出た。
「タイムリミットは体育祭か」
部室へ戻りながら、伊緒菜が言った。
「短いですね」とみぞれ。
「短いけど、期限が決まったのはありがたいわ。言い出すタイミングが計りやすくなった」
それにこっちにはスパイもいるしね、と伊緒菜は続けた。
みぞれの隣を歩いていた慧が聞く。
「バトンはどうするんですか? 箱に入れたトランプなら、バトン代わりになりそうですけど」
「それはもう、考えてあるわ」
「え?」
階段に足をかけた伊緒菜が、にやりと笑う。
「部活対抗リレーはパフォーマンスなのよ? どこの部も、面白いものをバトンにして目立とうとするわ。だったら、うちが使うものはあれしかないじゃない」
「あれ?」
「とっても目立つものが、あるでしょう?」
眼鏡を押し上げる部長を見て、しかし部員たちは首を傾げるばかりだった。
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