第77話 3+2+3+3+4+3+…
「あんの猫娘えええええええっ!!」
QK全国大会の会場を出て最寄り駅へ向かう途中、佐藤龍火は突如叫んだ。
「どうしたんですか、お嬢!」
「暑さでやられましたか、お嬢!」
「やられとらんわ!」
友希に手刀をくらわす。龍火は赤い髪をガシガシと掻いた。
「あと一歩だったんやああ! せめてうちにもジョーカーがあればああ!」
「ジョーカーは『せめて』ってレベルじゃありません、お嬢」
「かなり欲張ってます、お嬢」
「うっさいわ!!」
友希と康保にすぱすぱと手刀を入れた。それからがっくりと項垂れる。
「あの猫娘さえ倒せれば、宝崎伊緒菜と戦うのはうちやったんや……」
友希と康保は叩かれた頭をさすりながら、顔を見合わせた。龍火は三年生だから、これが高校最後の夏だった。勝手にライバル視していた宝崎伊緒菜に、どうしても挑戦したかったのだろう。
「そんなに落ち込まないでください、お嬢」
「そうですよ、せっかく東京に来たんですから、気を取り直して観光しましょう、お嬢」
「アホか!!」
龍火は勢いよく顔を上げた。友希と康保の二人は、驚いて仰け反る。龍火の目は闘志に燃えていた。
「これからホテルに戻って、札譜の整理や! 馬場肇はもうおらんが、宝崎伊緒菜やあの猫娘は来年もおる! 来年必ずぶっ潰すために、いまから対策するんや!!」
「え、でも、お嬢は……」
「三年だから、来年は出れないんじゃ……」
「アホか!!」
龍火は友希と康保の頭を掴んだ。
「来年はお前らが出るんや。来年こそ、我が茨黄高校から優勝者を出すために、いまからお前らをとことん鍛えてやる!」
二人の頭を放した龍火は、やったるでー、と叫びながら駅を目指して歩いていく。その後を着いていきながら、友希と康保は顔を見合わせた。
「……できると思う?」
「……できないと思う」
「やっぱり」
「でも、やるしかないと思う」
「お嬢の頼みだしな」
「とにかくお嬢が落ち込んでなくてよかった」
「同意」
二人は肩を並べ、赤い髪の先輩の背中を追った。
夕方になってもギラギラと照りつける日の光を浴びながら、一浦小海三はとぼとぼと歩いていた。その横を、内田鈴鹿は澄ました顔で歩く。
東京はどこも人でごった返していると思っていた鈴鹿にとって、会場からホテルへ向かう道の人の少なさは意外だった。日傘を差した若い女性や、楽器ケースを背負って歩く高校生とたまにすれ違うだけだ。車もほとんど通らない。地元群馬より静かなほどだった。なるほどこれを「閑静」というのか、と鈴鹿は思った。
「静かですね」
と鈴鹿。小海三は小声で「うん」と頷き返すだけだった。
「田舎は静かで都会はうるさいって聞いて育ってきましたけど、嘘だったんですね」
「うん」
反応が薄い。いつもなら、あたしが何か言うとオーバーリアクションするのに。
「っんもー! 先輩、いつまで落ち込んでるんですか!!」
突然大声を上げた鈴鹿に、小海三はびくっと肩を震わせた。
「ご、ごめん。だけどさ……」
「なんですか!」
「今年こそはいけると思ったんだよ。一昨年は地区予選敗退で、去年は全国一回戦負け。そして今年は地区優勝。ちょっとずつ前進してるだろ? だから、全国でもそれなりにって……」
それが結局、二回戦敗退だった。沖縄の、なんとかって高校の私服の少女に負けたのだ。
「いっぱい練習したし、素数も合成数も覚えたし、去年より絶対強くなってたはずなんだ。なのに……」
「強くなってましたよ」
鈴鹿は真剣な顔で、小海三の目を見つめた。
「先輩のテクニックは、上達してました」
「て、テクニック……」
小海三がたじろいだ反応をする。鈴鹿は眉根を寄せた。
「真面目に話してるんです。ちゃんと聞いてください」
「う、うん」
「先輩は強くなってました。でも、全国はそれ以上だった。それだけの話です」
「…………」
小海三は一度目をそらした後、再び鈴鹿の目を見た。
「そうだね。シンプルな話だ。私は全国を舐めてたのかもしれないね」
「そうですよ! あたし達はきっと、世界を舐めてるんですよ!」
鈴鹿は両腕を広げ、他に誰もいない道でくるくると回った。
「あたし、知りませんでした。東京駅があんなに人だらけなんてこと。なのに東京の道はこんなに空いてるってこと。ダンプカーは走ってないし、高校生は自転車に乗ってない。家で聞いてた話と、全然違います!」
鈴鹿の家族はみんな地元で生まれ育ち、一度も県外へ出たことがないらしい。誰かから聞きかじった話を、そのまま鈴鹿に吹き込んでいたに違いない。あるいは、一人娘を都会へ行かせたくなくて吐いた嘘だったか。
「だから先輩、明日は朝から思いっきり遊びに行きましょう! いえ、いまから行きましょう! もう、今夜は寝かせませんよ!」
「いや、あの、鈴鹿? その言い方は……。それに私は疲れてるんだけど……」
「知りません! あたし達はすべてを知って、感じる必要があるんです!」
「な、なにを?」
「世界を!!」
小海三の手をぐいぐい引っ張る。その手は、すぐに握り返してきた。
この先輩がいつまでも落ち込んでるなんてあり得ない。明日にはすっかり立ち直っているだろう。鈴鹿はそう信じていた。
「萌葱高校と、南翠高校か……」
会場近くのファミレスでコーラを一口飲むと、札幌しとらす高校の森栞子は言った。
「勝てると思ったんだけどな」
「残念デシタ……」
札譜を見ながら、エイミー・ノースはストローを噛んだ。ドリンクバーで取ってきたオレンジジュースを、ちゅるちゅると吸う。
「私達、団体戦の優勝候補だったのだけどね」
寿崎二葉はスマホでSNSを見ながら言った。札幌しとらすの初戦敗退の報は、自分たちが思っている以上に意外性を持って迎えられていた。そのあとに「最近のしとらす、衰退気味だな」という書き込みを見て、二葉はスマホの画面を消した。
「個人戦の方は?」と栞子。
「エイミーのことがよく知られてなかったみたいで、あんまり話題になってない」
そもそもQKのことを話題にするような人間自体、少ないのだが。
「どっちも、巨大素数を覚えてるわけではなかったデス」
ストローから口を離したエイミーが言う。
「不運と言えば、不運デス。どっちも正面から戦わず、からめ手で来ました。正面から数の暴力で殴り合っていれば、私達が勝てていたハズです」
エイミーは拳を作り、お手拭きを何度も叩き潰す仕草をした。
「私達は驕っていたのかもしれない」
エイミーの真似をして、栞子もお手拭きを拳で押し潰した。
「巨大素数で殴れば、全員ノックアウトできると信じて疑わなかった。でも考えてみれば、個人戦に出れたのはエイミーだけだ。部員は十人近くいるのに」
「そうね」と二葉は肯定した。「私達は、ネクスト・ステージへ進むべきだわ」
「Next stage?」
エイミーが流暢な発音で聞き返す。二葉は後輩のあざとく可愛い反応に微笑んだ。
「私達は今まで、巨大素数でひたすら殴る脳筋プレイをしていたわ。でも、それはもう終わり。これからは巨大素数でからめ取る知的プレイを目指すべきだわ。そして、札幌しとらすが私達の代で衰退した、なんて言われないようにするの」
「そんなこと言われてんの?」
栞子が目を剥いた。二葉がスマホの画面を見せると、栞子は「うえ、ほんとだ」と苦々しい顔をした。
「でも、どんな手があるんだろう?」
「そうね……例えば……」
エイミーと一緒に札譜を見て、二葉は答えた。
「例えば、初手全出し」
「は?」と栞子。「いやいやいや、やっぱり脳筋プレイがしたいってか?」
「違うわ。初手全出しで素数ならラッキーだし、違ったとしたら手札が二十二枚になるの」
「なってどうするんだ?」
「五枚出し最強素数は?」
栞子の質問に答えず、二葉は聞いた。栞子は不審そうに眉間にしわを作ってから答えた。
「KKQKJ」
「そう」と二葉は頷いた。「でも二十二枚もあれば、例えばこれが作れるかもしれないわ」
スマホを操作して、画面を二人に見せた。前になんとなく調べて、覚える価値がないと思って切り捨てた数。
「KKKQJ=7×A9×9873A67」
「巨大合成数……!?」
栞子はまた目を剥いた。
「そうよ。この合成数出しには、カードが合計十五枚も必要。だから今まで、覚える価値はないと思っていたけど……手札を二十二枚に増やせるなら、十分価値がある」
「そうか。たいていの相手はせいぜい三枚か四枚しか出してこないから……」
「KJJやKJQJを超える合成数出しを覚えておけば、相手が何を出しても絶対に親が取れるわ」
「そしたら、二十二枚あっても、残り手札は十枚以下。私らなら、一気に勝てるってか!」
盛り上がる二人を見ながら、それは結局脳筋じゃないかな、とエイミーは思った。
「会えて嬉しかったよ」
大会に唯一の数学部として参加していた南翠高校の東雲楓佳は、会場のロビーで慧と向かい合っていた。慧はうつむき加減で、長い髪をいじっている。
「次にいつ会えるかわからないけど……ま、連絡はいくらでもできるし」
楓佳はあっけらかんと言った。実際、去年行った数学のセミナー合宿で知り合った人達とは、いまも連絡を取り合っている。
「それに、あす香と愛詩は来年も出場するだろうから。ね?」
横に立っていた二人の後輩に目配せする。二人は同時に頷いた。
「そうだ、全国に来れば、また来年も会えるよ」
「うんうん。私は絶対来るし」
三人に励まされても、慧は名残惜しそうにはにかんでいた。指先に巻き付けていた髪をほどくと、ぽつりと言った。
「私、誰かとあんなに数学の話をしたの、初めてだったんです」
「うん、そんな顔だった」
楓佳はにこやかに言った。慧は三人から目を逸らしていたが、意を決したように身を乗り出した。
「だから、その……わ、私も、会えて嬉しかったです」
不安そうな慧を見て楓佳は、やっぱりうちの部に来る子はみんな似ているな、と思った。みんな、最初はこんな顔をする。
「ありがとう、そう言ってもらえると僕も嬉しいよ。またいつか、きっと会おう。――あ、そういえば」
ふと思い出して、楓佳はあす香を見た。
「あす香は二学期に修学旅行があるよね。行先は東京のはずだ」
楓佳は人差し指を一本立てた。
「慧に会えるじゃん」
「たしかに」
あす香自身も、いま気づいたようだ。慧に向き直って微笑む。
「じゃ、またすぐ会おう」
慧も嬉しそうにはにかんだ。
「はいっ」
伊緒菜と稲荷が、肇を挟んで睨み合っている。みぞれと津々実はその様子を、会場ロビーのソファに座って遠巻きに眺めていた。
「いつまでああしてるんだろ」
最初は面白がっていた津々実だが、さすがに飽きてきたようだ。
「慧も、あの数学部の人達とずっと話してるし」
数学の話でもしてるのかと思ったが、聞こえてくる声は日本語だけだ。別れを惜しんでいるようである。
「先生も戻って来ないし」
顧問の石破教諭は、「関係者以外 立入禁止」と張り紙のされた部屋に入っていったきり、戻って来ない。運営の偉い人と親戚らしく、挨拶してくると言っていた。
「みんな、名残惜しいんだね」
どこか他人事のように言って、みぞれは水筒のお茶を一口飲んだ。
「みぞれは、名残惜しくないの?」
「わたしは……」
みぞれは体育ホールの入口に目を向けた。スタッフ達が忙しなく出たり入ったりしている。そのたびに見えるホール内は、もうほとんど片付けが終わっているようだ。テーブルを仕舞い、床に貼ったテープを剥がせば、撤収作業は終わってしまうのだろう。ステージ上でスタッフに指示を出す小西の姿が、ちらりと見えた。
「わたしは、終わっちゃったんだなぁ、って気持ち」
「なにそれ」
津々実は、変なの、と笑った。
みぞれは言葉を探しながら、一言ずつ喋った。
「四月に入部して、慧ちゃんや伊緒菜先輩と仲良くなって、毎日いっぱい練習して、素数も合成数も覚えて……。そうやって紡いできたことが、今ここで一区切りついたんだって思ったら、なんかしんみりしちゃった」
「ふぅん。しんみり、か」
「うん。しんみり」
みぞれが抱いているのは、まだここにいたい、という気持ではなかった。みぞれが求めているものはこの場所ではなく、この瞬間だった。全国のQKプレイヤーたちと戦っていた今日という日を、いつまでも離れたくなかった。
自分を本気で倒そうとする相手との真剣勝負。経験したことのない敗北の悔しさ。実況室を包んでいたあの熱気。自分へ向けられた割れるような拍手。
夢でも見ていたんじゃないかと思えるほど、熱くなった一日だった。もう一度繰り返したいと思えるほどの一日だった。
でもそんな夢は叶わない。
だからみぞれにできるのは、しんみりして、今日の思い出に浸ることだった。
「負けたのは悔しいけど、褒められたのは嬉しかった。なにかで三位にもなって、表彰されたなんて、初めてだったから」
津々実は、いつまでも睨み合っている伊緒菜から目を外し、みぞれの横顔を見た。そして、一番気になっていることを聞いた。
「……あ、あたしみたいに、なれそう?」
自分で聞くのは恥ずかしかったようだ。そんな津々実の様子に、みぞれは一度くすっと笑ったあと、真剣に答えた。
「それは、まだよくわからないかな。だけど、私にも何かできるかも、って、ちょっと思った」
「そっか。よかったじゃん」
「うん」
みぞれは、えへへ、と笑った。それから、落ち込んだ声を出す。
「だけど、気になることもあって……」
「なに?」
「肇さんに言われたこと」
みぞれも津々実も、遠くにいる肇を見た。まだ二人に挟まれている。
「人真似はダメだって言われたけど、それじゃあ、つーちゃんみたいになりたいわたしは、なんなのかなって」
津々実は、うーん、と腕を組んだ。
「伊緒菜先輩も言ってたけど、あんまり気にしない方がいいんじゃないかな。人真似はダメだって言われて真似しなくなるのは、結局、肇さんのスタンスを真似てることになるんじゃない?」
「あれ? そっか……」
みぞれも、うーん、と唸って首を傾げた。
何が正解なのか、わからなくなってしまった。
「あれ、まだいたんだ」
そのとき、どこか子供っぽい声をかけられた。二人が顔を上げると、柳高校の三人組が歩いて来たところだった。今までロッカールームにいたようである。
「なにしてるの?」
美衣がバッグを背負い直しながら聞く。
「あの二人と、先生待ってるの」
津々実がソファにもたれて、ロビーの二か所を指差す。遠海姉妹は津々実の指の動きに合わせて、顔を左右に動かした。
「ああ、そういうこと」
「じゃ、あたし達も一緒に待つよ」
史はそう言って、隣のソファに座った。その両隣に、遠海姉妹がちょこんと座る。
「良いんですか?」
「どうせ帰る方向は一緒だろ? 同じ地区同士、仲良くしようよ」
膝の上にバッグを置くと、史は鼻歌を歌いだした。
「なんだか機嫌いいですね?」
と津々実。初戦敗退したとは思えない振る舞いだった。
「そうだね」首肯して、史は両手を双子の頭に載せた。「二人と仲良くなれたからね」
頭を撫でられながら、遠海姉妹はニコニコと笑っていた。
「それに、色々と頑張ろうって、思えるようになったからさ」
「頑張る?」
と、みぞれが津々実の横から顔を出して聞いた。
「うん。目下のところは受験かな。正直嫌々やってたけど、これからは気合入れてやるよ。志望校も、もう一度よく考える」
史は単語カードを握りしめながら、そう言った。
「待たせてすまない」
「あ、先生」
顧問の石破教諭が、ようやくやって来た。
「あとの二人は?」
「あそこです」
と津々実は二人のいる方を指差した。慧は南翠高校の部員達を見送ったところで、伊緒菜は勝ち誇った表情でこちらに歩いてくるところだった。やっと終わったらしい。
「勝ったわ」
「よかったですね」
どうなったら勝ちなのかも、津々実にはよくわからなかったが。
「慧は、あの人たちと一緒じゃなくていいの?」津々実は、外へ出ていく楓佳たちを指差して言った。「一緒にご飯とか行ってもいいのに」
「うん、いいわ」慧は珍しく、満足しきった笑顔を浮かべていた。「また会えるから」
それに、と慧は口ごもりながら言った。
「み、みぞれや、伊緒菜先輩の、お祝いもしたいし……」
それを聞いて、みぞれは恥ずかしそうに笑った。
「ありがと」
「ううん」
伊緒菜が眼鏡を押し上げて、号令をかける。
「それじゃ、祝賀会といきましょうか。吉井さん達も来ますか?」
「もちろん」
柳高校の三人が立ち上がる。みぞれと津々実も、一緒にソファから立った。
「では、萌葱高校と柳高校の今後に向けて、なにか美味しいものでも食べに行きましょう!」
伊緒菜を先頭に、歩き出す。
太陽が照りつけるロビーの外へ。
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