第72話 2/32

 大会スタッフがトーナメント表に赤線を引く。その様子を、みぞれはぼんやりと眺めていた。「馬場肇」から伸びる赤線が延長され、表の真ん中に繋げられる。

 みぞれから伸びる赤線は、肇の線に道を譲るように、その手前で止まっていた。

 決勝戦の一歩手前。みぞれは肇に敗れた。

 津々実は、みぞれがこんなに落ち込んでいる姿を見るのは初めてだった。柳高校で練習試合したときの比ではない。団体戦で負けたときもショックを受けていたが、それ以上だ。なんて声をかけたものか考えあぐねていると、みぞれが振り向いて言った。

「負けちゃった」

 いつも表情豊かな顔が、いまは無表情に近かった。しかし泣くのをこらえるように、まぶたには力がこもっている。それだけで、みぞれの感情が津々実には十分伝わった。

「みぞれは本当に本気で、一位を目指してたんだね」

 津々実を見上げながら、みぞれが首を傾げる。津々実は慌てて続けた。

「いや、信じてなかったわけじゃないよ。でもやっぱり、みぞれの中にも闘志があるってことが、今の今まで分かってなかった」

 みぞれがQK部に入ってから、津々実は驚かされっぱなしだった。津々実のことを目標としていたり、負けて悔しがったり……みぞれについて知らなかったことを、たくさん知った。

 それでも、みぞれの子どもっぽい見た目に、津々実はまだ引っ張られていた。自分が守らなきゃいけない存在のように感じていた。だけどそれは、完全な間違いだ。

「今更だけど、やっと分かったよ。みぞれは本当に、一番になりたかったんだね」

「うん」みぞれは震える声で頷いた。「一番になって、つーちゃんみたいになりたかった」

 その言葉は何度か聞いたが、いまだに照れる。みぞれが落ち込んでいるのに、津々実の口元はにやけた。

「でもね、いま悲しいのは、負けたことじゃないの」

「そうなの?」

「もちろん、負けたのは、すごく、すごく、悲しい。でも、それより、試合のあとで肇さんに言われたことが、ショックだった」

 津々実の顔が一瞬で険しくなった。

「なに言われたの?」

「あ、べ、別に悪口とかじゃないよ? ただ、ね。人真似はダメだ、って」

「人真似?」

 みぞれが頷く。

「わたし、試合のとき、いつも伊緒菜先輩や慧ちゃんの戦い方を真似してたの。でも、それじゃダメだって……。それじゃ本当に強くなることはできないって、言われたの」

 それでショックを受ける理由が、津々実には分からなかった。黙っていると、みぞれが続けた。

「わたし、伊緒菜先輩のことも慧ちゃんのことも好きだし……つーちゃんも好きで、つーちゃんみたいになりたいと思っているし……。でも、それを全部否定された気がして」

「そっか……」

 何か言わなきゃと思いながら、何を言えばいいかわからなかった。津々実は誰かになりたいと思った経験がなかった。自分のやりたいことをやって来たからだ。

 そのとき、ステージ前に集まっていた選手たちが、わぁ、と湧いた。伊緒菜と稲荷の試合が終わったらしい。

 勝敗は、見ればすぐにわかった。伊緒菜がにやりと笑いながら、席を立つ。相手の稲荷は、感情の読み取れないゆっくりとした動きで席を立った。

 大会スタッフがトーナメント表に駆け寄ってきたので、みぞれ達は場所を空けた。二人の前で、赤い線が新たに引かれる。

 宝崎伊緒菜、決勝進出。

「勝ってやったわ」

 すぐ後ろから声をかけられて、みぞれはびくっと飛び上がった。津々実が振り返って、「先輩、おめでとうございます」と冷静に言う。伊緒菜は表を見る前に二人の顔を見て、眉根を下げた。

「みぞれは……負けたのね」

「はい……」

「そう。みぞれでも無理だったのね、あの人に勝つのは」

 伊緒菜は眼鏡を押し上げて、みぞれの表情をよく見た。

「なんか、私が予想した以上に落ち込んでるわね?」

 伊緒菜まで、津々実と同じ感想を抱いた。

「実は……」

 みぞれに代わって、津々実が事の顛末を話した。伊緒菜はそれを、ふんふんと頷きながら聞いた。

「いかにもあの人の言いそうなことね」

「そうなんですか?」

「あの人、今まで自分の周りに『自分より優秀な人』がいなかったから。なんでも独創的になってるのよ」

 マジですか、と驚く津々実を横目に、伊緒菜はみぞれの肩を叩いた。

「あの人の言うことなんて信じちゃダメよ。適当なことしか言わないんだから」

「先輩、肇さんのこと好きなのか嫌いなのか、どっちなんですか」

 津々実が突っ込むと、伊緒菜は唇を尖らせた。

「好きだけど嫌いなのよ」

 そっぽを向いた伊緒菜は、ステージ前に肇を見つけた。こちらに背を向け……稲荷に抱き着かれていた。

 伊緒菜の目つきが急に鋭くなったのを、津々実は見逃さなかった。こちらをちらりと見た稲荷も、それに気づき、嘲笑を浮かべた。無表情だった顔に初めて浮かべた表情だった。

「あんの泥棒猫……!」

「泥棒て」

 伊緒菜は唇を噛みしめると、誰に言うでもなく言った。

「ま、まぁ、私なんてお姉ちゃんに抱きしめられたことあるし?」

「小学生のときの話じゃないですか」

 津々実の言葉に、伊緒菜は「ふん」と鼻を鳴らして黙り込んだ。肇のことになると子どもっぽく人だな、と津々実は思った。

「とにかく、安心していいわ、みぞれ。あなたの仇は私が討つから」

 みぞれは黙って伊緒菜の顔を見上げた。伊緒菜の表情には自信と不安が混ざっていた。

「……勝てるんですか? 肇さん、すごく強いですけど……」

「正直、保証はできないわ。直接戦うのは一年ぶりだし、今までもほとんど勝ったことはない」

 伊緒菜は眼鏡を押し上げた。

「でも、勝ってみせるわ」

 にやりと笑う。表情からは、自信も不安も消えた。残ったのは、ただ「楽しみでたまらない」という表情だった。

「すごいですね、伊緒菜先輩は」とみぞれが落ち込んだ声で言う。「わたしは、試合前から『勝てないな』って思っちゃいました」

「負けを確信したってこと?」

 みぞれが頷く。伊緒菜は「ふぅん?」と呟いて、首を傾げた。どこかで聞いた話だと感じた。

 しかし、そのことについて深く考えるのはあとにしよう、と伊緒菜は気持ちを切り替えた。今は、肇を倒すことに精神を集中したい。

「二人は実況ルームに行きなさい。たぶん勉強になるし、札譜も取りやすいでしょう?」

「そうですね」津々実が頷く。「行こっか、みぞれ」

「うん」

 みぞれは津々実の手を握った。

 気付けば、ステージ前にいた選手たちはまばらになっていた。稲荷もいつの間にかいなくなっている。みんな、実況ルームに行ったらしい。

 ホールを出る前に振り返ると、伊緒菜はまだこちらを見ていた。そしてステージ上では、肇が既に席に着いていた。みぞれ達を見て、薄く笑っている。

 ホールにまだ残っていた選手たちも、みぞれ達のあとに続くように、ステージ前を離れた。

 きっとこの広いホールは、大会スタッフと、伊緒菜、肇だけの空間になるだろう。


 ホールの隣にある実況ルームは、満員状態だった。すべての席がとっくに埋まり、立ち見が出ている。

「仕方ない、あたし達もこの辺に立ってようか」

 津々実が部屋の後ろの方の空いたスペースに入り込んだ。みぞれの手を引っ張り、隣に並ばせる。

 部屋の真ん中あたりの席に、見覚えのある後姿を認めた。慧だ。南翠高校の生徒たちと一緒にいる。何か話しているようだが、内容は聞こえなかった。慧の表情はよく見えないが、楽しげな雰囲気だ。

 端の方の席にも、見覚えのある三人組がいた。柳高校の史、美衣、美沙だ。史が双子に挟まれ、仲良さげに肩を寄せ合っている。

 目立つ赤毛の人物や、黒いポロシャツの集団もいた。ほとんどの選手が、この部屋に集まっているようだった。

「いやぁ、まさか立ち見までできるとは」と、部屋の一番前に置かれたモニターの横に座っている女性がマイク片手に言った。ラフな格好をした成人女性だ。

 モニターを挟んで反対側には、スーツを着た女性が座っている。開会式で司会をしていた小西那由他だ。

「読みが甘かったですね。三分の一くらいはホールで観戦すると思ってたんですが。立ち見になってしまった方、申し訳ありません」

 と、小西はマイク片手に軽く頭を下げた。

「えー、改めて自己紹介しますと、私はこの部屋で今日ずっと実況をしていた成田凜です。そしてそちらは、解説の小西那由他さん」

「いよいよ決勝戦ですが、よろしくお願いします」

「さて、大入り満員になったこの部屋ですが……もしかして全員いるのかな? ああ、最後に来た子。ホールに残ってる人はいた?」

 成田が首を伸ばして尋ねる。今しがた部屋に入ってきた少女は、選手たちに注目され戸惑いながら首を左右に振った。

「ほう! ということはやっぱり、全選手が集まっていそうですね! それもこれも、の決勝戦だからでしょうか! ね、小西さん」

「ええ、そうですね。何しろ二人とも、有名人ですから」

 まだ試合が始まってもいないのに、成田は興奮気味に声を張り上げた。

「この決勝戦で争うのは、白練高校三年の馬場肇選手と、萌葱高校二年の宝崎伊緒菜選手! 小西さん、この二人はすごい選手たちなんですよね?」

「ええ、そうですね」小西は冷静に頷いて、画面の中の肇を見る。「いま映っている馬場選手はなんと、前回、前々回ともに優勝している強豪選手です」

「つまり、一年生のときからずっと優勝し続けていると?」

「はい。そのような例は、過去にありません。もし今年も優勝すれば、史上初の三年連続優勝を果たすことになります!」

 みぞれはそのことを知っていたが、それでも改めて聞かされると思わず息を呑む。部屋に集まっている全員がそうだった。

「そして対戦相手の宝崎伊緒菜選手は、去年も決勝戦まで進みましたが、そこで馬場選手に敗れました」

「つまり今年は、リベンジになるわけですね?」

「はい」

 小西は力強く頷いた。彼女もかすかに興奮しているようだ。

「面白い! さあ、宝崎選手が去年の雪辱を晴らすのか、それとも馬場選手がチャンピオンの座を守り続けるのか!?」

 成田の宣言を待っていたかのように、伊緒菜が画面い現れた。席に座って、軽く椅子を引く。膝の上で両手を握りしめたまま、正面を向いた。

『久しぶり、お姉ちゃん』

 画面の中の伊緒菜が言う。部屋中の選手が、二人の会話を聞いていた。

 伊緒菜の顔に、敵意はなかった。あるのは好意だけだ。そしてそれは、肇も同様だった。

『久しぶりだな、伊緒菜。こうして会うのは一年ぶりか』

『うん。会いたかった』

 えへへ、と笑う。みぞれ達の見たことのない表情だった。

 二人の間に流れる遠距離恋愛中の恋人のような空気に、実況ルームは虚を衝かれた。

「あー……そういえば二人は、仲が良いんでしたっけ」

 成田が戸惑いながら実況した。小西も会話を続ける。

「そういえば、そんな噂が流れていますね」

「去年も試合前に、こんな空気でしたよ」

 小西は去年、解説を担当していなかったため知らなかった。実況の成田が、代わって解説する。

「私もよく知りませんが、昔馴染みだそうです。宝崎選手が馬場選手をお姉ちゃんと呼んでいるのは、昔近所に住んでいたからとか」

「そうなんですか」

 小西は会場の選手たちを見ると、気まずそうに咳払いして言った。

「私達は皆さんの個人的な情報までは把握していませんので……この話はこのくらいにさせてください」

 選手たちが苦笑する。そういう話は、むしろ選手たちの方が詳しいようだ。

「さぁ、そんなことより、いよいよ試合が始まろうとしています!」

 画面にようやく、素数判定員が現れた。二人の間に座り、試合開始を宣言する。

『これより、萌葱高校宝崎伊緒菜選手と、白練高校馬場肇選手の試合を開始します――』

 それにあわせ、成田が叫ぶように言った。

「さぁみんな! 宝崎選手と馬場選手の強さの秘密、知りたいかー!?」

 お、おー……とちらほら声が上がる。

「声が小さーい! 知りたいかー!?」

「「「お、おおー!!」」」

 何人かが大声で答えた。

「来年こそは、宝崎伊緒菜選手を倒したいかー!?」

「「「「おおーー!!」」」」

 一二年生のほぼ全員が、ハッとしたように答えた。

 今年は決勝まで進めなかった。それでも、来年にはきっと。誰もがそう思っていた。

 そのためには、宝崎伊緒菜を倒さないといけない。

 みぞれは、すごいなぁ、と思っていた。みんなが二人に注目している。同じ高校生でも、自分とはまるで違う。津々実みたいだな、と思った。

 どうしたら、自分はああいう風になれるのだろう。それとも、「ああいう風になろう」なんて思っちゃいけないのだろうか。

 一人悩むみぞれを置いて、成田の実況が部屋にこだまする。

「さぁ皆の衆、未来の勝利のために、刮目して見よ! 先攻は宝崎選手だ!!」

 決勝戦が始まる。長かった一日が、終わろうとしている。

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