第59話 22

 雲一つない快晴だった。時刻は午前八時を回ったところだが、既に空気は限界まで熱くなっていた。ただ立っているだけで背中に汗がにじむ。白いセーラー服姿のみぞれは、無意識に半袖で口元の汗をぬぐった。

 萌葱高校QK部の四人と顧問の石破教諭は、会場の手前で赤信号に道を阻まれていた。

 道路の向こうには、白い屋根の二階ほどの高さの建物がある。おそらくあれが体育ホールだろう。他にもいくつか建物が集まっていて、地区予選の会場と似ていた。東京には、このような施設がたくさんあるようだ。

「長い信号だな」

 扇子で仰ぎながら、石破教諭がつぶやいた。

「まさか押しボタン式じゃないだろうな?」

「違いますよ、長いだけです」

 津々実が答える。念のため左右を見渡したが、ボタンはない。

「あ、ていうかあれ」と、津々実がいま歩いてきた道を指差した。「双子じゃん」

 見覚えのある制服が見えた。緑のスカートと緑のベスト。一人はベストは着ておらず、ブラウス姿だ。その女子の横を、二人組がきゃっきゃと笑いあいながら歩いている。

「遠海姉妹! 吉井さん!」

 津々実が手を振った。向こうもこちらに気付き、史が手を振り返す。美沙と美衣は二ッと笑って走ってきた。

「やあやあ、萌葱高校」「久しぶり」

「久しぶり」

 美沙はみぞれを見て、

「古井丸さんって、汗っかき?」

「え? べ、別に普通だけど……」

「ブラ透けてるよ」

「ひゃあっ!?」

 みぞれは胸を抱きかかえた。津々実がみぞれの頭に手を載せる。

「別に透けてないよ」

 双子に追いついた史も、二人の頭を小突いた。

「変な冗談止めなさい」

 遠海姉妹は頭を押さえながらけらけら笑った。

「お久しぶりです、吉井さん」と伊緒菜が会釈した。「午前中から来たんですね?」

 柳高校は個人戦にしか出場しない。午前中は団体戦だけだから、午後から来てもよかったはずである。

「ああ。どんな相手がいるのか見ておきたかったし……それに、君らの応援もしたかったしね」

 信号が青に変わった。八人は横断歩道を渡った。


 ロビーには冷房が効いており、一瞬で汗は引いた。入口の横にテーブルが設置され、受付が行われている。みぞれ達は列に並んで、受付を済ませた。「千葉県 萌葱高校 古井丸みぞれ」と書かれた小さいゼッケンを背中に着ける。

 ロビーに人はまばらだった。二十人ほどの高校生たちが、ソファや壁際で談笑している。

 色々な人がいた。一人でスマホをいじっている人もいれば、数人のグループでトランプを広げている人達もいる。真っ赤な髪をした不良のような少女もいて、みぞれは絡まれないように目を逸らした。

 ロッカールームに向かう間、みぞれは背中に視線を感じた。「来た、萌葱だ」という囁き声がする。

「注目されてるね」と史がみぞれに話しかける。

「なんか……慣れないです」

 強豪選手がそんなんでどうするんだ、と史はみぞれの肩を叩いた。

「はっきり言って、古井丸さんは優勝候補なんだからな」

「そ、そうなんですか?」

「ああ、宝崎と一緒にね」

「そうね」と伊緒菜が話に入ってきた。「決勝で私とみぞれが戦う可能性すらあるわ」

 美衣が史の顔を見つめて聞いた。

「史先輩は?」

「あたしは……まあ、頑張るよ」

 ロッカーに荷物を入れると、伊緒菜はスマホを確認した。

「開会式まであと三十分くらいね。それまでは各自自由に……」

 言いかけたとき、ロッカールームの扉が開いた。そして入ってきた人物が、伊緒菜に気付いて手を挙げた。

「あ、伊緒菜じゃん」

 聞き覚えのある声に、伊緒菜は視線を上げた。その人物の姿を認め、伊緒菜はパッと顔を輝かせた。

「お姉ちゃん!」

「え、お姉ちゃん!?」

 事情を知らない美沙と美衣が、駆け出した伊緒菜を目で追った。

 伊緒菜がきらきらした目で見上げたのは、背が高くスタイルの良い美人だった。栗色の長い髪は艶めいており、切れ長の目は自信に満ちていた。クリーム色のブラウスと赤いリボンという飾りっ気のない制服すら、彼女が着るとブランド物のように映えた。

 この場にいる誰もが、彼女のことを知っていた。北海道白練しろねり高校の三年生、馬場ばばはじめ。QK全国大会で二年連続優勝を果たしている強豪選手にして、伊緒菜の“師匠”だ。

「一年ぶり、伊緒菜。元気そうじゃん」

「お姉ちゃんも、相変わらず意地悪そうな笑顔してるね」

「なんだそれ。今日はツンの日か」

 二人は笑いあった。恋人同士が見せるような、じゃれ合うような笑顔だった。

 美沙が混乱しながらみぞれの腕をつつく。

「え、あの二人、どういう関係なの?」

 みぞれは微笑みながら答えた。

「小学生のとき、近所に住んでたんだって」

「それだけであんなになる?」

「色々あったみたいで」

 二人はまるで久しぶりに会った遠距離恋愛中のカップルのようだった。

「なんでこの大会は東京でばっかりやるんだろうね。たまには北海道でやればいいのに」

「北海道なんて遠いじゃん」

 と伊緒菜が玉を転がすように笑う。

「道民にとってはこっちの方が遠いんだよ。それに、QK協会の本部は北海道にあるんだろ?」

「そうなの?」

「うん。どうも昔から、北海道には熱心なプレイヤーが多かったらしいよ。QK研究会ってのがあって、それがQK協会の前身になったらしい」

「へぇー!」

 伊緒菜の声がいつもより1オクターブ高い。後輩たちは戸惑いながら、ひそひそと話した。

「色々あったのは聞いてたけど」と慧。「いつもの伊緒菜先輩と全然違くない?」

「あの人、あんな表情するんだね」と津々実。「あたしらの前ではキャラ作ってたな」

「作ってるのは、むしろ今じゃないかな」とみぞれ。「好きな人を見る目してるし」

「ただの幼児退行だろう」と石破教諭まで話に入ってきた。「古い友人に会ったときは、当時の性格に戻るものだ」

 伊緒菜と肇はまだ話していたが、肇の背後から少女が口を挟んだ。

「あの、肇先輩。その人は誰ですか?」

 クリっとした目をしているが、どこか表情に乏しい人だった。無表情でジッと伊緒菜を見つめている。睨んでいるつもりかもしれない。

「前に話したでしょ。この子が宝崎伊緒菜だよ。あたしの舎弟」

「あ。あなたが……」

 急に割り込んできた少女に、伊緒菜は不機嫌な表情を見せた。眼鏡を押し上げて言う。

「そういうあなたは、お姉ちゃんの後輩ね? 白練高校の加賀見かがみ稲荷いなりさん?」

「え」稲荷は暗闇の猫のように目を丸くした。「なんで私の名前……」

 肇が笑いながら言った。

「出場選手のリストを覚えてただけでしょ」

「その通り」伊緒菜はにやりと笑った。「参加者の確認すらしてないなんて、お姉ちゃんの後輩とは思えないわね。脇が甘すぎなんじゃない?」

「はぁ!?」

 稲荷は無表情のままだったが、明らかに伊緒菜の上から目線に腹を立てていた。

「お、なんかキャットファイトが始まった」と愉快そうに津々実。

「え? あれってそうなの?」と状況が飲み込めていない慧。

「肇さんってモテるんだね」と微笑ましそうにみぞれ。

「宝崎さんが喧嘩っ早いだけじゃないの?」と美沙も話に乗ってきた。

「君ら、楽しんでるだろ」

 史が萌葱の一年生たちの顔を見た。みぞれは慈愛に満ちた表情をしているが、津々実は新しいおもちゃを見つけたような顔をしている。

「しかしあそこでずっと立っていると、他の人に迷惑だな」石破教諭が冷静に言った。「邪魔をするのは気が引けるが、場所は移させよう。――おい、宝崎。そこは通行の邪魔だからどきなさい」

 声をかけられ、伊緒菜は振り返った。そして後輩たちの表情を見て、すぐにバツの悪そうな顔をした。

「な、なによ、その顔は」

「いえ別に」津々実は悪戯っぽい顔を崩さなかった。「それより邪魔ですよ、伊緒菜先輩」

 肇たちは一歩中に入り、脇へどいた。

「この子たちが、伊緒菜の後輩?」

 一同を見回して、肇が聞いた。

「こっちの三人がそう」

 そう言って、後輩三人を紹介する。それから、石破教諭と柳高校の面々も紹介した。肇は演技じみた会釈をすると、

「初めまして。東京……いや、千葉の皆さん。あたしが、白練高校三年の馬場肇です。うちの舎弟がいつもお世話になっています」

 みぞれ達は苦笑した。伊緒菜が恥ずかしそうに肇の脇腹をつつく。肇は笑いをこらえながら、話を続けた。

「で、こっちは二年の加賀見稲荷」

「初めまして」

 稲荷はフラットな声で挨拶した。

「本日はよろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げる。みぞれ達もつられて頭を下げた。

「言っておくけど、稲荷も相当強いからね。うちの精鋭たちが鍛え上げたから」

「お姉ちゃんが鍛えたんじゃないの?」

「肇先輩は」稲荷が二人の間に割って入った。「自分の鍛錬に集中していたんです」

「別に、ちょっと教えるくらい、邪魔にならないって言ったんだけどね」

「ふぅん」伊緒菜は眼鏡を押し上げて、稲荷を見た。「私はお姉ちゃんにQKを教わってたけどね」

 二人の間に火花が散った。


 一番広い体育ホールに、出場選手とその応援者たちが集まっていた。全部で三、四十人はいるようだ。そこかしこで、ざわざわと話声が聞こえる。

 ホールには試合用のテーブルが十脚、用意されていた。前方のステージ上にも一脚ある。そのテーブルの周りには、地区予選のとき同様、カメラが設置されていた。実況部屋へ中継されるのだ。

 選手たちが揃った頃合いを見て、ステージの上へスーツの女性が上った。短い髪を、ぴしっと後ろで一つにまとめている。マイクの前に立つと、女性は目礼した。

「皆さん、おはようございます。これより、第二十二回全国高校素数大富豪大会、全国大会開会式を始めます。私は本日の総合司会を務めます、日本素数大富豪協会の小西こにし那由他なゆたです。どうぞよろしくお願いいたします」

 小西が堅苦しく話している間に、高校生たちのざわつきは収まっていた。小西はそれを確認して、

「ではまず、日本素数大富豪協会の名誉会長、せき三四郎さんしろうより、開会の挨拶を頂きます。関さん、お願いします」

 小西はステージ下に視線を投げた。パイプ椅子に座っていた男性が立ち上がり、ステージに上る。

 五十近い恰幅の良い男性だった。ストライプの灰色のワイシャツに、黒いベストを着ている。大きな鼻に黒ぶちの眼鏡を載せた男性は、マイク前に立つと、照れ臭そうに微笑んだ。

「えー、皆さんおはようございます。ご紹介に与りました、関です。……皆さん、素数、たくさん覚えてきましたか?」

 くすくす、という笑いが広がった。それに気を良くしたように、関はリラックスした笑みを浮かべた。

「この全国大会も今回で二十二回目ということですが、22というのはヒジョーに面白い数なんですね」

 体の前で手を動かしながら、関は前屈みになって喋った。

「2143は素数ですが、2143÷22は、なんとπの四乗に近い値になるんです。ラマヌジャンはこのことに注目し、ある作図によって、円周率の三分の一に非常に近い値を得られることを示しました。残念なことに、その作図をここで紹介することはできませんが……」

 関の声には、徐々に熱がこもっていった。目を見開き、お気に入りのゲームについて話す子供のような笑顔で、関は22の性質を語った。三分ほど喋ったあと、

「ではみなさん、全国大会優勝目指して、頑張ってください。ご清聴ありがとうございました」

 と言って、関はステージを降りて行った。

「すごく数に詳しい人でしたね」

 みぞれが伊緒菜に小声で言った。

「そうね。たしか、どこかの大学の教授らしいわ」

「へぇ」

 数学をやっている人は、みんな数に詳しいのだろうか、とみぞれは思った。でも、慧はあまり数に詳しくないから、そうとも限らないのかもしれない。

 開会式はその後も、日本数学検定協会やら高校文化連盟やら、仰々しい名前をぶら下げた大人たちが代わる代わる前に出て、五分ほど喋っては下がっていった。

 最後に小西が再びマイク前に立ち、今日のスケジュールを説明した。団体戦は午前十時開始、個人戦は午後一時開始予定だ。

「では最後に、本日のトーナメントを発表いたします」

 ホールの左右の壁際で、スタッフが巨大な方眼紙を広げた。手早く、それを壁に貼る。みぞれは背伸びして、団体戦のトーナメント表を見た。

「最初に当たるのは……」

 萌葱高校の名前は、一番左に書いてあった。その右隣に書かれた名前は、「札幌しとらす高校」。それを見て、伊緒菜が小さく呟いた。

「いきなり、面倒なところと当たっちゃったわね」

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