第1章_第17話_今の自由

 

「弾薬、食料、まあ大概買えてるな。もうそろそろ見回りの時間が近い。急ごう」

 明かりが高価なものである今、夕暮れにもなって出歩く人間は稀有である。疎らな人の隙間を潜り、彩の店まで辿り着くと、そこには誰もいなかった。

「しまった、店仕舞いの後か……」

 彼らはその性質上あまり表に出ない。出来れば今日渡したかった、と茜が肩を落としたその時。

「さっきの彼氏さんじゃん。彼女に会いに来たの?」

 飄々とした口調が道を通っていった。

 顔を上げると、猫の面とフードを被った男が立っている。猫の面と言えばちょうど野良を追っているところ……だが、商人の類はそもそも面を着けていて当然という節があるし、連中ならばこんなにも堂々と姿を現しはしないだろう。それにしてもいつの間にと思いつつも、さっきの野次馬かと茜は更に憂鬱な気分になった。致し方ないとはいえ妙な目立ち方をしてしまったものだと反省もする。

「そんなところさ。どうかしたかい」

 すると男が得心がいったというふうにああやっぱりと頷いた。

「店主さんなら今さっき帰ったよ。……会ってどうするの?」

 茜くん、と樒が袖を引いた。獣の臭いがする。

「耳がいいんだね。大丈夫。俺が躾けてるから言うことを聞くよ」

「言うこと聞いて八つ裂きってか、物騒だな」

 軽口を叩いた瞬間、二匹の山犬が路地から出てくる。それに気を取られた隙に、フードを剥ぎ取られた。

「な……っ」

 樒が懐に手を入れる。だが、男はそれだけで引き下がった。茜の素顔は、大部分がガスマスクで隠されているため、そう見られたと言うわけでもない。だが男は目を見開いた。

「……どこかで会ったことある?」

「ねぇな」

「まあそうかもね。俺の情報網にもないよ、こんな凸凹コンビ。名前は?」

「いきなりそりゃないんじゃねぇか、旦那。あんたこそ名乗ってくれや」

 なるべく刺激しないよう声をかける。と、男は首を傾げて仄かに笑ったようだった。その姿を嘘のように赤い夕日が照らし出す。

「そうだね、そうだったかもね。情報は何よりの武器だ。なら始めにオレがそれを振るおう。俺の名前の情報は出流(いづる)。しがない情報屋だよ」

 くす、くすくすくす、と笑った彼はくるりと回る。長く古びたローブがふわりと靡いた。

「さあ名乗ってよ。次はあんたの番だ」

 その道化じみた振る舞いに狼狽しつつ、茜は名乗る。

「俺は……新哉。案内屋をやってる」

「ふぅん。それで、そっちの人たちのことは教えてくれないわけだね。まぁいいよ、それじゃあ情報が欲しけりゃオレをご贔屓にね」

 と、言い終えたタイミングで甲高い悲鳴が響いた。その幼い声は——彩のものだ。

 時間稼ぎか? もしや彼が野良か、と総毛立つ茜に、出流はおっかないな、と冷えた声で言う。

「オレじゃないよ。早く行けば」

 その声は先程までの馴れ馴れしさとは打って変わって、余所余所しかった。


「イロ! イロ、大丈夫か⁉︎」

 悲鳴の方へ駆けつけると、彼女は全身で悲鳴をあげていた。

「あああ! 来ないで! 来ないで! 消えて! 触らないでぇ……‼︎」

 そう叫ぶ彼女の周りにはしかし、誰もいない。血を吐くような叫声は誰かの存在を予感させるものだったが、彩は激しくナイフを逆手に持ち——自傷していた。

「あんた何やってる、やめろ!」

 茜が駆け寄って押さえつけるが、その細い体のどこからと言いたくなるほどの強い力で振り払われた。一層強い悲鳴が彩のひび割れた唇から溢れる。

「触んないで! お願い、お願い! ……ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 助けて……!」

 振り払われよろけた場所に落ちていたのは何枚も……何枚も何枚も描かれた絵とも言えない色の塊たち、その上に彼女の腕から伝う血が落ちていた。黒、黒、黒、赤。怒り、悲しみ、恐れ、憎しみ、絶望。それら全てを塗り固めたような色に吐き気が込み上げる。それは確かに魔術のように、見るものをおかしくさせる力を持っていた。胸の奥まった柔らかい部分が引き裂けるような。深く仕舞い込んだなにかを守る壁を壊してしまうほどのそれ。

 ここに居てはいけないと場違いに茜は思った。壊される、自分を支えているなにかを、せきとめている様々を殺されてしまうと。

 茜を現実に引き戻したのは彩に飛びかかるノ風の姿。

「やめろ!」

 恐ろしく大きな声が出て、ノ風は電気ショックを受けたように立ち止まった。その目は彩のナイフをじっと見ている。

「それは俺らに振られるものじゃない。俺は大丈夫だ、やめろ」

 そう言ったが、ナイフは今や近付いたノ風に向けられていた。瞳孔は開かれ、顔は涙でぐしゃぐしゃだ。涙をこすったのか血が流れた跡がまるで血涙を流したようだった。

「やだ、やぁあっ! 来ないで! こっちに来ないでぇ!」

 茜が近づこうとすると更にパニックがひどくなる。どうしたものか、兎角パニックを止めなければ、この悲鳴を聞きつけた人間がどういう行動に走るかわからない。自傷も出来ればやめてほしいが、昼間隠されていた彩の肌は寒空に晒され、そこには無数の古傷と新しい傷跡があった。簡単にやめろと言えるものでもないだろう。

 近付けないのはなにが原因だ? 対人恐怖症だとしたら昨日の態度が解せない……と、茜が考えた、刹那。

「避けて下さい」と涼やかな声。反射的に飛び退った茜の視界にきらきらとした何かが写った。びしゃりと水音。

 バケツを持った雪白が、許されなかった距離にあっさりと踏み込む。水をふっかけられた彩は口を呆然と開けていた。

「砂湯です。……落ち着きましたか」

 彩は声が出ないというように、口をはくり、はく、と開閉させる。顔についた血も涙も透明な真水に混じってゆっくりと流れていった。

「おい、あんたな」

 雪白に血相を変えて詰め寄った茜に、彩は小さく、しかし鋭くやめてと呟いた。

「ごめん。もう大丈夫、大丈夫なの……だから帰って。怖い夢を、見ただけだから」

「しかし手当てを」

 茜が近付くが、さっと距離を取られる。その足は微かに震えていた。

「信じられないな」

 声をあげたのは樒だった。柔らかい声で、泣いて嫌がられた距離に、やはりあっさりと踏み込む。

「怖い夢だなんて。せっかく綺麗な腕だったろうにね……これを放って帰れるほど、『私』薄情じゃないよ?」

 そう言って彩を優しく、壊れ物を扱うかのように優しく抱き締める。彩の喉からふぇ、と泣き声が漏れた。ほろほろと涙が出る。

「綺麗じゃない……あたし、汚くて……もういやで……」

「大丈夫、もう大丈夫だから」

 そして、いつもより高い声で茜くん、と呼んだ。

「やっぱり。この子、男性恐怖症だ」


 ぼんやりと、月明かりは曇天に覆われている。。もうすっかり夕方を過ぎ、ランタンを囲み、腕に包帯を巻いた彩は少し違うの、とぽつり呟いた。

「夜だけだめなの。どうしても……思い出して……」

 何をとは聞かなかった。大方予想がつく。

「あいつが憎くて仕方ないから、あいつが触ったあたしも大嫌い。時々……自分が気持ち悪くて、殺してやりたくなる」

 掠れた声で、喉を締め上げるように彩は首に指を回した。

「……幻滅していいよ。あたし、奴隷だったんだ」

 奴隷、と聞いた茜の目が細まる。

「……すまない」

「勝手に話してるんだから謝んないで」

 そうではない。茜は自分の役割を果たせなかったことについて謝っていた。わざとぼかしてはいるが。大方検挙してやったはずだが、と彼は歯噛みする。人買い、人売り、奴隷は政府で禁止されている。

「幻滅なんかしない。……よかったら吐いていけよ。人形に話しかけるんだと思って」

 傷口と向き合うのは痛い。人にそれを話すことも苦しい。だが、秘めておくのもそれはそれでつらいのだ。話した方が軽い痛みもこの世にはある。

(……多分、な)

 茜は、閉じ込めて鍵をかけ、その箱の色さえも塗り替えてしまった。茜の過去がどこにあるのかは最早彼自身ですら検討がつかないし、思い起こすこともそれを知る誰かもいない。

 彩は長く息を吐いた。

「あたしは捨て子だった……みたい。気付いたらバイヤーの所にいたの。それで……『キョーイク』を受けた。背中はもうあたしのものじゃないくらい……触ると象みたいで。あたしは商品だから、尊厳なんかなかった」

 投げやりな笑みを浮かべる。

「それで、あの男に買われた……あの男……あの男あの男あの男! 夜……夜が怖くなった。毎晩。今でも思い出すの、あの声を、汚い指を、あの屈辱を……」

 悲しいのでもなく、辛いのでもなく、屈辱に彩は震える。樒が肩を抱き寄せ、とん、とんと叩くとやがて落ち着いた。

「男が死んであたしは晴れて自由になったよ。でも、全然自由じゃなかった。男の人を見るだけで足が竦んだし、触れられたら息ができなかった。傷が疼いて、それ以上に記憶がちらついて、夜も眠れなかった」

 ねぇシンヤ……アカネ、助けてよ。

「持ち出したお金もあたしが汚された証明になる気がして、だから少しでも綺麗なものになるように絵を描き始めたの。きっかけはそれだけだったのに……気が付けば絵を描くことがすごく楽しくなってた。褒められたことも、喜ばれたことも初めてだった。ねぇアカネ、あたし死にたくないよ。あいつの記憶に殺されたくない。このままじゃ殺されるんだよ。あたしは生きたい。生きる、生きていることの尊さを感じていたい。本当に自由になりたい。あいつに勝る自分になりたい」

 茜を呼びながら、彩は全く違う誰かをじっと睨みつけていた。


 彩は落ち着き、自嘲気味に笑った。「それがあたしの目標。……こんな風になってるようじゃまだ遠いかもだけど」と。

 茜は優しく笑いかける。

「言葉に出せるようならそう遠くはないさ。ともかく体を労ってくれや」

 彩の細腕を握ると、彩はふと顔を曇らせた。

「ねぇアカネ、あたし男に生まれたかった。蹂躙される側じゃなくて、自分のしたいことを押し通せる強さが欲しかった」

「男に生まれようが同じですよ」

 ふと、雪白が口を開いたので全員が注目する。

「男に生まれようが女に生まれようが、運命は変わらない」

 そうさ、と茜が引き継いだ。

「重要なのはどう生きるかで……誰しも、生まれ持ったままで生きるしかないんだ。たらればを追い求めても偽りの自分は虚しいだけだよ。少なくとも今の自由と」

 懐から借り受けていた絵を取り出す。

「この絵はあんたのものだ。俺はこれが好きだぜ。こうも心を動かせるのはあんたがあんただからだと思う。これを今日は買いに来たんだ」

「アカネ……ありがとう」

 代金を握らされた彩は、今度こそ輝くような笑顔を見せたのだった。


「それとな、イロ」

 きょとんと立ち上がった茜を見上げた彩に、茜は片目をつぶってみせる。

「アカネは2人の間だけの名前にしてくれや。声に出さずに、な」


 さて、そんな彼らを遠い屋根から覗き見る2つの影があった。

「本当にあれがオレたちのきょうだいなの?」

 1つの影が身じろぎすると、もう1つの影が頷いた。

「恐らく間違いない。さて何をしてるんだか……何にせよすることは変わらないよ、ノラ」

 ノラと呼ばれた影は大仰に礼をしてみせた。

「全て我がおとうとの思うままに、ってね。大丈夫、オレは……オレだけは君を裏切らないよ」

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