第3話 二人の春

 斜めの姿勢のまま、久保田くんは私を見ている。

 何かを求めるような強い眼差しがまぶしくて、私は俯いた。彼の瞳をまともに見ることなく数か月を過ごした癖がついている。

「……久しぶりだな」

 横顔になり、小さく言った。返事を期待しない、独り言のようなつぶやきだった。

 久しぶり。本当に、久しぶりの接触だ。

 だから、どうすればいいのかわからない。


「先行くぞー、久保田!」

 同僚の声に振り向くと、彼は軽く手を上げた。

 昼休みの終わりはまだだけど、日陰ひとつないここは暑くて、まぶしすぎるのかもしれない。皆、ぞろぞろと屋上を去り、鉄製の扉はがちゃりと閉められた。

 屋上には二人が残され、誰もいなくなってしまった。


 こんな事態、さっきまでの私ならどうしようもなく困惑するはずだ。

 それなのに、今の私はかえってホッとしている。

 もちろん少しは緊張しているけど、嫌な感じではない。我ながら不思議で、なぜだろうと思う。


「きれいだね、花」

 自然に話しかけていた。自分でもびっくりするくらいの普段どおりの口調に、彼がぱっとこちらを向いたのが気配でわかる。

 瞳を見ることは、できないけれど。

「うん、よく咲いてる」

「……久保田くんだったの、知らなかった。私、いつもここに来て、花が咲くのを楽しみにしてたんだ」

「そ、そうか。昼休みは、あんまり来ないから」

「今日は珍しく?」

「うん」


 私から話しかけたのがよほど意外だったのか、久保田くんの受け答えにはぎこちなさがあった。

 でも、この場を去ろうとはしない。私も、同じだった。

「えっと、さっきのプランターには何を植えるの?」

 目の前にいるこの人はあの久保田くんなのに、私は逃げ出さず、質問などしている。一体、どういうことだろう。

「ああ、これは」

 ちょっと口ごもったあと、彼は答えた。

「わからないな」


「わからない?」

「これからの季節のために用意したんだ。土川さんに何種類かすすめられてる苗を選んで、今度植えようかなと」

 ひな壇下のプランターを靴先でつつき、横を向いたままでぽつりと付け足す。

「さっきまで、そのつもりだったのに」

 生き生きと仕事に取り組み、同期から抜きん出る勢いの営業マンとは思えぬ、自信なさ気な態度だった。


「君を見て、気が変わった」

「……」

 彼が近付いたのがわかった。

 だけど、私は動かない。都会コンプレックスの発端となったはずの彼なのに、あれ以来避けている彼なのに、逃げずにいる。

「君の好きな花を、教えてくれ」

 俯き加減の顔を上げた私を見て、彼は固まった。瞳が、驚いた私を映している。私の瞳にも、まるきり同じ彼が映っているだろう。


「……香奈ちゃん」

 一年ぶりの、懐かしくも甘い響きだった。

 お互いの心を、奥底まで覗くように探るように、見つめ合っている。

 あの日からこれまで、確かめようともしなかった相手の気持ちを、ようやく受け止める準備が出来たみたいに、しっかりと。


 この人は、私が逃げ出した久保田くんじゃない。


 彼は観念した顔つきになり、口を開く。

「あの日俺は、知ったかぶって君を案内したんだ。確かに東京育ちだけど、都心なんて、特にシブヤなんて滅多に遊びに出なくて、よく知らないくせに」

 軍手を丸めたり延ばしたり、かなり言いにくそうにしているのが、その繰り返しに表れている。私は黙って耳を傾けた。

「途中で君が具合悪くなって、落ち着いた振りしてたけど、実はかなり動揺してたんだ。何とかしなくちゃとウロウロ連れ回した挙句、あんな所に流れちまって、俺は……」

 頬がぽおっと赤らんできた。久保田くん、そして私も。


「ごめん」

 がっくりと首を垂れる彼に、私は頭を振った。

 そうだったのか、そうだったのかと、あの日の記憶を早送りで再生する。純粋な瞳、心配な表情、しっかりと私を支えていた力の入った手。

 彼は必死だったのだ。

 私のためを考えて、一生懸命だったのだ。

「完全に誤解されたと思って、もう君に合わせる顔がなくて……だけど、謝りたいとずっと思ってたんだ。でも君は俺を避けてるし、同期会はいつも欠席だし、まったく隙がないし」

 恥ずかしい限りである。まるで子どもだと、我ながら呆れてしまう。

「それで、せめてこんな形でと」

 見下ろす彼の、視線を追った。


 プランターの花々が、春風に揺れている。

 彼が丹精し、きれいに咲き揃った花たちが、私に微笑んでいるようだった。

 この人から逃げなかったのは、この微笑があったからだとようやく理解する。

「香奈ちゃんが喜ぶと思ったから。気付いてくれるかどうか、わかんなかったけど」

「久保田くん」

 私のために?

 勝手に誤解して、あなたの言い分も聞かずに避けていた、こんないじけた私のために。私はただただ感動して、唇を震わせる。


「もう一度行かないか、渋谷」

 真顔での言葉に、泣きそうだった。

 間近で見上げる彼は、一年前と同じ、私が好きな久保田くん。だけど、あの頃よりもずっとずっと男らしくなっている。

「今度は上手に案内するよ。街に詳しくなったし、人混みを避けるコツも覚えた」

 静かだけれど、はっきりとした、意志のある声だった。


 魔界がいきなり、夢の世界へと一変する瞬間。

 人も街も、こんなに変わってしまうなんて。


 花と夢と、微笑んでいる久保田くん。

 故郷の温かみに似た優しさと、男らしさを併せ持つ、素敵な男性になっていた。

 そして私も、何も持たない愚者ではなくなっている。ようやく気付くことができたのだ。


「行きたい、シブヤに」

「香奈ちゃん」

 ほわっと、花が綻んだ。きれいに微笑み綻んだ、私が一番好きな花。

 この街は、望んでいたとおりの夢の国。

 だけど、しっかりと地に足着けて生きて行く、現実の街なのも今は知っている。


「新しい春だ、俺と香奈ちゃんの」

「うん」

 手を取ったのは、久保田くん。

 王子様のようだけど、王子様よりも素敵なひとだと、今は知っている。


 優しい香りにふわり包まれ、街は一面の花畑になった。


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花と夢と久保田くん 藤谷 郁 @fujitaniz

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