第2話 屋上の花

 入社二年目の春。

 今年入社したばかりの新人に、私は複雑な思いを抱えながら、仕事を教えている。彼女も地方から単身上京し、一人暮らしをスタートさせた。生き生きとした横顔が、都会生活に夢と希望をふくらませていたかつての自分を思い出させる。


(ああ、地元に帰りたい)


 望郷の念が日に日に増している。まるで生活に疲れたお年寄りのよう。

 確かに、疲れてはいるけれど……



 昼休みになった。

 ランチに出かける新人を横目に、私はいつものように屋上にのぼり、小さな自然を鑑賞した。

「あっ、咲いてる」

 屋上の一角にプランターが並べられ、バランスよい配色で植えられた花々が、春の風と陽射しの中、懸命に息づいている。


「デイジー、マーガレット、それからこれは……ネメシアだっけ」

 誰が世話をしているのかわからない。いつの日からか日当たりのいいこの場所に、小さなオアシスが作られていたのだ。

 そしていつの日からか、ここに来るのが私の日課であり、癒しの時間になっている。

 故郷の風景を目に浮かべた。自然が当たり前にあり、その環境で当たり前に生活をしていた私。何て贅沢な暮らしだったのだろう。


『ふうん。香奈ちゃんの故郷って、自然がいっぱいなんだ』

『うん。山があって、森があって、畑も田んぼも緑が豊かで、通学路のあぜ道にも、花がたくさん咲いてるの』

『花が好きなの?』

 優しく笑う彼に、元気よく頷いていた。


 あれから一年……寂しくて怖くて、しょっちゅう涙が滲んでいた気がする。


 フェンスに体を凭せ掛け、遠くを眺めた。白っぽく霞む街並に、彼の姿が重なった。

「くぼたくん……か」

 時々開かれる同期会を、私はいつも欠席している。幹事は毎回、久保田くんだった。

 彼とはあれ以来、仕事以外では接触していない。向こうも気まずいのか、私への連絡は人伝とか一斉メールだった。


 噂によると、久保田くんは営業課で頑張っているらしい。先輩社員の指導から早々に独立し、自力で顧客を得て活躍していると評判だ。

 彼は生粋の東京人であり、人々と喧騒の大海を、生き生きと泳ぎ回っている。

 私とは正反対。光と影。

 彼の話を聞くのは辛かった。


 花を眺める私の耳に、鉄製のドアを開く音が聞こえた。

 何となく振り向いた私は「あっ」と小さく叫び、慌てて街へと視線を戻す。営業部の若手社員が、女性社員数人と屋上に入ってきた。

 暖かくなったので、屋上で昼休みを過ごす人が増えている。とりわけ若い社員達の社交場になっているのを忘れていた。


 その中に、久保田朋久くんがいる可能性が高いというのに――


「香奈ちゃん久しぶりだねー」

「課が違うとなかなか会えないよね」

 同期の女の子が二人、声を掛けてきた。

 同期会をいつも欠席する付き合いの悪い私なのに、気軽にお喋りをしてくれるのが嬉しい。人間関係は淡白ながらも良好で、ありがたいと思っている。


 だけど、彼女らと話している間も彼が気になって仕方がない。

 目の端に彼……久保田くんが映っている。

 しかも、こちらを見ているようであり、今にも近付いて来そうな雰囲気が感じられて、私は焦った。


 やはり、歩いて来るのがわかった。数か月ぶりの、仕事外での遭遇だ。

 どうしよう。どうしてこっちに来るんだろう。いやそれよりも、挨拶をしたほうがいいだろうか、でも、今さらなんて言えばいいの?

 私はぐるぐると頭で考え、目が回りそうだった。


「ちょっと、ごめん」

 どきーんと、飛び上がりそうになる。これは間違いない、彼の声だ。

 同期の女の子二人と一緒に、彼のほうへと顔を向けた。

 久しぶりの正面顔。一年前に比べて、ずっと大人っぽくなった彼がそこにいる。

 こんなにも間近でまともに見たのは、あれ以来初めてな気がする。

 童顔の面影は薄れ、かなりかなり、男くさくなっているのを目の当たりにし、さらにどきーんとした。


「なあに? 久保田くん」

「うん、ちょっとね」

 久保田くんは同期の女の子に頷くと、すっとしゃがんでプランターを覗き込んだ。手にはビニール袋を抱えている。

「何してるの」

「花の観賞?」

 からかい口調の質問に彼は答えず、黙って軍手をはめると、ひな壇の下から重そうな何かを引っ張り出した。花は植えられていない、土だけのプランターだった。

 私と彼女達は顔を見合わせる。


「さてと……」

 久保田くんはビニール袋を下ろすと、ごそごそ探ってその中身を一掴みした。

 慣れた手つきで土と混ぜ合わせているそれは、肥料だとわかった。実家の母が園芸で使っていたのと同じである。

「えっ、もしかしてこれって、久保田くんが育ててるの?」

 女の子の声に私はハッとして、あらためて彼の手元に注目した。軍手は土色に染まっている。それは、今日初めて使われたという色ではない。


「……そろそろ行こっか」

「うん。じゃあまたね、香奈ちゃん」

 黙々と作業を続ける久保田くんに肩をすくめると、同期の二人は他の仲間達のもとへ走って行った。

 私はといえば、立ち去るタイミングを逃し、何となく居残ってしまった。


 いや……


 自分でも意外なことであり、にわかには信じられない現象が起きている。

 居残ってしまったのではない。

 私はいつの間にか、久保田くんの丁寧な作業に見惚れていた。


 ひな壇の下に元のようにプランターを戻すと、久保田くんは軍手を脱いで額の汗を拭った。今日は快晴の上天気。日当たりが良い屋上にいると、夏を思わせるほどに暑い。

「まあ、こんなものかな」

 誰にともなく口にすると彼は立ち上がり、段飾りの花々をあらためて眺め回す。

 私はそんな久保田くんを眺め回している。本当にこの人がプランターの面倒を見ているのだろうか。そうだとしても、毎日のように屋上に来ているのに、一度も出くわしたことが無いのはなぜだろう。


「きれいだろ」

「えっ?」

 花に目を当てたまま、彼は普通に言った。

「……う、うん。きれいだね」

 今のは私に向かって話しかけたのだろうか。そんなことを考えてしまい、反応が遅れた。

 だけど、二人の周りには誰もいない。間違いなく今のは私への声かけだろう。


 久保田くんは軍手についた土をポンポンと払い、汗が浮かんだ髪の生え際に押し当てる。無骨で、素朴な仕草だった。


 久保田くんは園芸が趣味だったのだろうか。でも、研修中にそんな話をした覚えはない。最近になって始めた趣味なのかな。それにしても、意外だな。

 などと心の中で不思議に思うのを察したのか、彼はちらりと私を見ると、

「総務の土川つちかわさんに相談したんだ。屋上が殺風景だから、植物でも置いてみませんかって」

「えっ、そうだったの?」

 いきなり答えをくれた彼に、私はひっくり返った声を出す。


 総務の土川さんというのは、社内の整理整頓や、環境の改善に尽力する勤務暦30年のベテラン社員である。とっつきにくい印象の、厳しそうな人だ。

 私の反応が可笑しかったのか、久保田くんはふふっと笑った。

「土川さんは賛成してくれたけど、言いだしっぺが実行しろと命令した。というわけで、俺が朝夕見に来てる。水やりとかさ、結構手間が掛かるんだ」

「久保田くん……」

 笑うと、彼は童顔だった。

 一年前と同じ、私がいいなと感じた、彼の少年っぽい表情。


 でも、今さらドキドキするなんて、どういうわけだろう。

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