3-9

 上手いこと木陰の下になっているベンチがなかったので、僕らは公園の木の幹にからだをあずけ、休憩をとっていた。


 滝のように流れる汗をタオルでぬぐい、べとついた耳の裏も首のうしろも拭く。シャツの首元をぐいっと広げ、扇子をあおいで風を送る。


 先輩はうなだれていた。彼女はサファリシャツを脱いで腰に巻き、黒いハイネックのブラトップにぴたりと包まれた上半身を晒していた。白い肌は上気し、桃のように紅みがかっていて、華奢な肩には汗の玉つぶが浮かんでいた。


 僕の傍らには蜃気楼のような黒い犬が寝そべっていた。「君臨号」僕はその大きい背中をなでさすり、霧のような毛並みの感触と、ごつごつした背骨をたしかに感じとっていた。「においは?」


 僕の案内役となっているこの獣は、土のにおいをふんがふんがと嗅ぐ。片耳にはめたイヤフォンをとおして、ざらついた声が聞こえてきた。すこしさきにべつの公園がある。そこにいるな。


 もう片方のイヤフォンは先輩の耳に収まっていた。先輩は顔を上げると、眩しそうに目を細める。きれいなまつげが一本の線になりそうだった。木の幹で休む僕らの目の前には青々とした芝生が広がっていた。まだ夏本番ではないとはいえじゅうぶんに暑いのに、小さな子供たちが駆け回っていたり、中学生たちがバドミントンをやっていたり、大学生ぐらいのお兄さんたちがフリスビーを回している。みんな元気だった。音叉を盗んだヤツを追って五つもの世界を走って渡ってきた僕らには、もうそんな元気はなかった。


 雪が降り積もるとおいむかしの昭和の町で朽ちた電柱に触れたかと思ったら、今度は呪術が支配するジャングルに飛ばされて奇妙なトーテムなのか敷石なのかよくわからないものに触れたり、そうかと思ったらガス雲の上に浮かぶ広大な都市の隅っこにある、バグのようにねじれた階段に向かって肩車をしてのぼったりした。


「あと五分」先輩は言うと、膝小僧に顔をうずめた。「っていうか二時間ぐらい寝たい」


「寝ます? どっかネカフェとかでも行って」


「寝ない。そのあいだにあのぴょーのぴょーの言ってるのがどっか行ったらヤでしょ。そうなったときに責任の押し付け合いみたいなのはしたくないよ、ぼくは」


 それに、時間軸をわざわざまた行ったり来たりしてこっちに戻ってきたりするのは面倒だし、と先輩は言う。それもそうだった。僕ら〈王さま〉は時空を行き来できるから過去にも未来にも行けるけれど、自分が支配していない、慣れていない場所ではそれはよりいっそう感覚的になるし、ふたりとも疲れているからやる気が起きなかった。


 わかりにくいたとえだけれど、電子レンジで温泉たまごを作るのと同じくらい感覚的で面倒だった。電子レンジで温泉たまごを作る方法というのはこんな感じだ。まず深めのお椀に水をいっぱい注ぎ、そのなかに玉子を割り入れ、つまようじかなにかで卵黄にぷつぷつといくつか穴をあける。あとは電子レンジで一分ぐらい温めれば温泉たまごができるのだけれど、この加減が難しく、秒数が中途半端に足りないときれいに出来上がらないし、やりすぎても卵黄も卵白も普通に固くなってしまう。下手すると爆発してレンジの中がベトベトになってしまう場合もある。そもそも器自体も熱されていて、レンジから取り出すときに熱いし、お湯を捨てて肝心の温泉たまごだけを取り出すのも結構面倒で……と、そういう感じの面倒さだった。行き慣れた場所に行くのはただ卵を割るのと同じくらい容易だ(それもそれでコツがいる)。


 先輩は押し黙り、僕はしばらくぼんやりしていた。


 よし、と先輩が言って立ち上がる。片耳にはめられたイヤフォンがぴんと張って、先輩の耳が引っ張られないように僕も慌てて立ち上がった。僕の左手に握られたカセットウォークマンのなかでは、毒々しいマーヴル柄のカセットテープが入っている。カセットテープの収録分数は合計約133分、片面66分6秒(冗談じゃなくて本当に666なのだ)。たしか、いまちょうど15分ほど再生したところだった。


「君臨号」と僕はまた犬に声をかける。「これってA面の最後まで再生し終えてB面に入ったらなんかあんの?」


 君臨号というこのゲームにおける僕にとっての案内役は、超常的なカセットテープに封じられている。行きたい場所、探したいものや人がある場合はこいつを喚ぶと連れて行ってくれる。そのプロセスは映画やアニメに出てくるワープやタイムトラベルのシーンみたいに案外すぐ終わるから、僕はこのテープを最後まで──つまり君臨号を時間ギリギリまで召喚しつづけたことがなかった。カセットテープはA面とB面がある。片方の軸から片方の軸に磁気テープは送り出され、巻かれ、そしてそこで再生が終了する。オートリバース機能がある再生機器だったらそのままガヂリと鳴って逆回転し、B面の再生が始まる(そういう機能がなければ、カセットを一旦取り出してくるっと裏返してまた再生させればいい)。


 いまはべつに知らなくてもいいぞ。そういうようなことを君臨号は言った。こいつは曖昧な存在なので言葉も曖昧だった。思念が直接注ぎ込まれ、ニュアンスがなんとなくわかる感じ。いまは、ということはいつかは教えてくれるんだろうか。一応この獣は僕にとってチュートリアルを説明するキャラでもあるらしいのだけれど、僕に重要な情報をあえて教えなかったりする。もうちょっとちゃんと仕事してほしいと思った。


 イヤフォンのコードはそんなに長くないから、僕と先輩は互いの肌が触れそうになるほど近づいて横並びで歩く。


 やや距離を空ける。


「ふーむ」と喉の奥を鳴らすと、先輩はウォークマンを持つ僕の手の上に自分の手を重ねてきた。そしてぴたりと肌をくっつかせる。そよ風で冷めた彼女の汗が僕の二の腕と彼女の二の腕のあいだをつつつと落ちていった。


 意識しないように僕はあからさまにそっぽを向く。


 先輩は唇を吊り上げ、表情の端っこに疲れが見えはするものの、いつも僕にするような意地の悪い笑顔になった。疲れていても、こういう元気はあるのだった。


 先を歩く君臨号は僕らの方をちらと見やると、興味なさげにぷいと前に向き直った。

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