2-25
ふーっと、ニンテンドー64のロムカセットの端子部分に息が吹きかけられる。
カートリッジがセットされ、本体の電源がカチリと入れられた。
「はい」
そう言って
タイトル画面が表示され、こどもたちが大きな声で「マリオカ~ト!」と言う。夕陽が沈みかけている砂漠で、マリオたちが小さなカートを駆り疾走している。画面の一番手前にいるドンキーはみどり甲羅を手に持って、いまにもルイージに投げようとしていた。
ここは先輩の部屋――というか小屋だった。
彼女の家は伝統のある床屋だ。店舗兼住宅というやつで、一階の半分がお店、あとの半分が台所と食卓、そして居間という感じになっている。まだまだ床屋として現役なおじいちゃんとおばあちゃんも一緒に暮らしているためか、二階と三階の部屋は空いてない。いや、実際のところ、ふたりの兄が使っていた三階のこども部屋は、彼らが都心の方にある大学や専門学校に行ったため空いているといえば空いていた。
先輩は屋上に建てられた小屋を根城にしていた。広さは8畳ほど。そこにはベッドがあって、小さなブラウン管テレビがあって、ちゃぶ台があって、スーパーファミコンとメガドライブがあって、大きなスピーカーが特徴の無骨なラジカセが置いてあって、レコードやCDやカセットテープや録画したVHSテープが敷き詰められている棚や、ファッション雑誌と音楽雑誌と少年漫画とゲーム雑誌ばかりの本棚があって、更には僕のよく知らない洋楽アーティストのポスターが何枚か貼ってあった。映画に出てくるアメリカとかイギリスの男の子の部屋みたいだった。
タイトル画面を抜ける。150ccを選ぶ。キャラクターセレクト画面で僕はドンキーを選び、先輩はキノピオを選んだ。
さて、先輩の住んでいる世界は西暦でいえば1994年だ。ニンテンドー64の発売は1996年なので、彼女は二年後のゲーム機をこっそり持ち込んでることになるけれど、まあ、そういう行為はいまに始まったことじゃない。支配している領地がある以上、かき集めたものの隠し場所はたくさんある。王さまたちはいくらでも秘密の宝物殿を持っているものだ。
僕たちは他愛のない会話をしながらだらだらとレースをしつづけた。
先輩はジャンプやダッシュキノコを駆使してショートカットをよく狙っていた。ゲームのスキを突きたがる先輩らしいプレイスタイルだった。でも、半々の割合で失敗し、順位を落とすことがままあった(それでも上手いことリカバリーするのが先輩のすごいところではある)。
「……先輩」
「ん、なんだい」
「ただでさえ先輩上手いのに、なんでそうリスキーなことするんですか」
ノコノコビーチのジャンプ台から、ショートカットできる洞窟に向かって先輩=キノピオは跳んだ。だが、タイミングがずれたのか、僕の言葉に動揺したのか、64的としか形容のできない茶色いローポリゴンの岩肌にぶつかる。
「むぅ~~」と先輩は唸って僕をねめつける。あくまでも声かける瞬間が重なっちゃっただけで、べつに先輩を動揺させようとしたわけじゃないですよ、という感じで怯えたように首を横に振った。
「……だって、そのほうがスリルあって楽しいだろ?」
ねめつけるのをやめて画面に向き直ると、口をとがらせてそう言った。
「まあ、それはわかりますが……」
でも先輩、ショートカットはそんなに上手くないじゃないですか……。
「それにね、キルシくん」
「はい」
「ゲームは成長の場でもあるだろ。できないことだって、いつかはできるようになれたりするし、それはいずれ糧になる」
「糧ですか」
「現実でぶち当たる諸問題の
「はあ、一理ありますね……でも先輩」
「ん?」
「先輩って邪道っていうか、ルールのスキ? を突くようなこと結構やってません? あとたまにわざとバグらせたりとか……」
それに対して先輩は、「あー」とちょっと思案して喉を鳴らす。
「ぼくはあくまでも、ルールを把握したうえでそういったことをしているだけさ。それが仕様上のものなのか、それとも予期しない本当のバグなのかは、やってみないとわからないだろ?」
見極めたいのさ。なにがシステムによるもので、なにがそうじゃないのか。ぼくらやぼくらのおこないは、どこまでが想定内で、どこまでが想定外なのかをね。
対話だよ。彼らとの。
――と彼女はつづけた。その声音には、どこか真剣な、秘めたる情念のようなものが込められていた。
その凛とした横顔を見て、また先輩は真理なのかポエムなのかわからないことを言っているな――と意地の悪いことを思いつつも、僕にないものをこの人は持っているんだなと改めて思う。
僕は挑戦することをためらうし、失敗したらすこしは億劫になってしまうし、一歩踏み出すことを躊躇する人間だ。踏み出せないなんて、〈国道の王さま〉なのにおかしな話だとは思うのだけれど。
ちょっとでもいいから、この人に近づいてみたいなと僕は思った。
コントローラの3Dスティックを傾ける。スティックの表面に形成された、滑り止めの三重円の硬さを、左手の親指の腹で感じる。いつも失敗ばかりしているノコノコビーチの洞窟のショートカットに――その手前の狭いジャンプ台に向かった。
ふむふむと先輩はうなずいている。
ジャンプ台からドンキーが駆るカートが跳ぶ瞬間――ちょうどアイテム欄にストックしてあったキノコを使って急加速させる。
――が。
「……え、」
呆けた声をまっさきに出したのは僕じゃない。先輩だった。
ステアリング調整が悪かったんだろう。ドンキーはそのままローポリゴンの岩壁に衝突し、そのまま砂浜に落下していき、そして――
「え、え、なにこれなにこれなにこれ」
ドンキーは岩壁と砂浜のあいだにあるポリゴンの裏へ落っこちていってしまった。
ドンキー特有のボワッボワッという感じの咆哮をあげながら、くるくると回転しつつ、真っ暗な深い底に落ちていく。砂浜だったものは底から見上げると透明な天井のようで、岩山の内部が透けて見えた。空だけが、嘘のように青い。
ノコノコビーチでこんなバグに遭遇するのは初めてだった。
ドンキーはやがて、雲に乗ったジュゲムに釣り竿で引っ張り上げられる。
先輩と顔を見合わせる。僕らは予期せぬできごとに驚き、そしてくつくつと笑うしかなかった。
「ま、まあこういうこともあるよ」と先輩はふひっふひっと笑いをこらえながら言う。
「ゴ、ゴリラが、虚無に」僕はにやけづらを抑えようとしながら言う。「ゴリラが回転しながら、虚無に」
ぶふーっと先輩は吹き出した。
■ ■ ■
建築物や場所に愛着を持ち、そこを支配する〈王さま〉と呼ばれる存在は、時としてその場所に沈むことを楽しむ。その行為は一種の酩酊にも似た状態を引き起こす。いや、すでに酩酊状態にあるからこそ、自我が曖昧になって場所そのものと一体化しようとするのかもしれない。
まるでこどもが泥んこ遊びをするように、王たちはビルの壁面にずぶずぶと身を沈ませ、アスファルトに肩まで浸かり、ファミレスで溶ける。そして、ダンス。歓喜の痙攣。
だが、あまり深くまでもぐってはいけない。
澱んだ情報や呪いに触れすぎてはいけない。
気がつかないあいだに、泥にひそんだ獣にちくりと噛まれているかもしれない。
そしてなによりも、そういった行為はこのゲームを仕切っている/いたとされるシステムからは好ましく思われていないようで、ランキング順位を争う場においては公平さを保つために制限されているし、無理にやってもペナルティの対象となっていた。
このレースだって「なんでもあり」と謳ってはいるが、それはあくまでも道路の上での話だ。「なんでもあり」というルールがあるだけだ。
バグを利用してズルをする王には、罰が与えられる。
それはいま現在、君臨号に導かれるまま道路の裏側を高速移動しているキルシも例外ではなかった。
「ぐぅっ……!」
半透明になった宇宙の道路を見上げ、キルシは自分の意志とは無関係に裏側をぶっ飛んでいた。いつぞやのマリオカートと同じように、自分は世界の裏にいるんだなとキルシは思う。
道路を走る車の裏側の機構や、接地したタイヤが頭上をびゅんびゅんとかすめていく。
息ができない。べつに、宇宙の道路で何気なく行っていた呼吸のような行為が本当にそうだったのかは怪しいものの、とにかく、息が詰まって仕方がなかった。
からだもちくちくざりざりと存在そのものを擦られているようで痛い。
濁流に飲まれている――そう思った。このままでは溺れ死んでしまう。
早く抜け出したい。
もう来たか。君臨号がぼそりとつぶやくと同時に、背中が凍てつく痛みに襲われた。
背後からプレッシャーを感じる。なにかに狙われている。
悲鳴をあげたい。でもきっと悲鳴をあげたら、背後からせまってくるなにかにすべてを奪われそうな気がしてならなかった。
頭上にはちょうど、炎の貴婦人が発生させている巨大な赤い竜巻の目があった。
君臨号としては、最大の障壁である炎の竜巻をやり過ごすために、わざわざ危ない手段を選択したのだろう。しかし、背後から迫ってくるあいつに捕まってしまっては元も子もない。
仕方がないが、いいな?
獣の問いには答えない。ただ、暗黒物質の激流に落としてしまわないようにジッポライターを強く握る。
道路を突き破って、黒い悪魔のような存在が飛び出した。
浮かび、両手を広げていた貴婦人はそれを見下ろすと、かさついた唇を不機嫌そうにひん曲げた。
急降下する。
赤と黒が衝突する。
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