2-18

〈獣〉というものが存在している。


 それぞれの“場所”で太古より刻まれてきた、すべての生物たちの営みの痕跡――情報が蓄積した層のような存在。


 過去から現在、そして未来にかけてなにもかもを吸収して、地下深くで胎動しつづける超常存在。


 このゲームにおける〈獣〉の役割は文字通りモンスターで、端的に言うとボスだ。


 人間がつくりあげた建築物や場所を巡るこの争奪戦ゲームにおいて、かれら〈獣〉たちはそういった“場所”をめぐって、僕たち〈王さま〉と対立する。


 かれらはその“場所”そのものと言ってもいいだろう。


 たいして害のないやつもいるけれど、澱み、凶暴な存在になっているのがほとんどだ。


 だから、とも形容できるかもしれない。


 呪いが蓄積しているから凶悪な存在になるのか、それともその存在自体が呪いだから災いを呼び寄せてしまうのか。それはよくわからない。


 そしてかれらの一部は変質した〈王さま〉たちでもある。


〈王さま〉は“場所”を通じて時空を行き来し、情報を貪欲にかっ喰らう。


 強欲に土地を支配し、奪い合い、己のなわばりはここだと主張しつづける。


 ぶくぶくと太り、玉座に収まりきらなくなるほど肥大化したリビドーや自意識に導かれて、〈王さま〉はやがて〈獣〉に成り果てる。


「ぼくらだって、言っちゃえばすでに〈獣〉みたいなもんだけどね」


 と、炊井戸先輩はいつものように嘯いていた。


「まあ、それはさておき――」


 〈獣〉になってしまった人間には食べられないよう、気をつけなさい。


 先輩のつめたいささやき声が耳にリフレインする。


 もし、食べられてしまったら――


 きみも〈獣〉になるしかなくなるよ。



■ ■ ■



 マスクの男が振りかぶったバットをトォタリさんに叩き込むと同時に、彼女は右手のチェンソーでそれを受け止める。


 床がみしりと軋んだ。


 チェンソーの刃がゆっくり回転しだすのを敏感に察知して、ニワトリ頭は身を引いた。なぜかバットは傷ひとつついていない。


 上段から斜め下に振り下ろす青白い一閃が、奴の胸元をかすめる。大きなスキが生まれたものの、トォタリさんは振り下ろした姿勢から踏み込み、しなやかな豹のように突撃する。


「――ッ!」


 しかしニワトリ頭はからだを一歩ぶんずらすだけで、またしても軽々しくかわす。


 反撃を与えてしまう大きなスキが生まれた。トォタリさんの顎をつたい、汗が一滴、床に落ちた。


 だがニワトリ頭は敢えてなにもせず、なにを考えているのかわからないゴム製の虚ろな黒い目でぼんやりと宙空見ていた。


 ――ちがう。


 僕だ。僕のことをじっと見ている。


 黒い瞳の奥から、なにか邪悪なものを感じる。


「ぼけっとすんなぁッ!」


 トォタリさんが踏み込んだ姿勢から更にからだを沈ませ足払いを放つ。奴はこともなげに垂直にぴょんとジャンプしてそれをいなしてしまう。


 僕は手近にあったVHSのテープをむんずと掴むと、男めがけて手当たり次第に投げつけた。その間にトォタリさんは距離を取る。そしてどこかへ走っていく。……どこへ?


 テープのほとんどはニワトリ頭のトサカにかすりすらせず、当たりそうになったものもバットで叩き落とされてしまった。


「…………」


 そいつはゆっくりと近づいてくる。緩慢でぞっとするほど機械的なからだの動かし方。ポロシャツとスラックスの奥にある筋肉が、悪意で駆動しているようだった。


 バットを握る革のグローブにいっそう力が込められ、蛍光灯の白い光を鈍く反射する。


 自分の血のにおいがした。そんな気がして、ビデオテープを投げる動作を思わず止めてしまう。


「うららららららららららら!」


 雄叫びを上げながらトォタリさんが走ってきた。右手は燐光を放つチェンソーのまま。左手、いや左脇にはカバーを外して羽がむき出しの扇風機を抱えていた。白い羽はチェンソーに負けず劣らず高速で回転している。おそらく強風設定だろう。


 ニワトリ頭はゆっくり振り向く。バットを構える。


 ふたつの回転する刃とバットがぶつかりあう。けたたましい音を立てながら火花が散った。トォタリさんの方がやや優勢に見えた。不敵な笑みを浮かべ、眼が銀にきらめく。


 圧され気味なニワトリ頭の、そのラバー製のマスクが一瞬毛羽立ったように見えた。まるで本物の獣のように――いや、まさしく獣そのものだった。


 再度、ぶるりとマスクの表面が震え、毛がぞわぞわと逆立つ。無機質なマスクは一気に生々しいものに変貌していた。大量生産されていたラバーの表面が羽毛に変わる。うつろな黒い瞳は、更にどろっとしたほんものの瞳になり、チェンソーの青白い輝きを映す。真っ赤なトサカも、肉感的なぶよぶよしたものになっている。


 開かないと思われていた黄色いくちばしが開く。


「■■■■■■■■■■■■!!」


 この世のものとは思えない叫声をあげると、男の太ももがひとまわり肥大化する。それを包んでいたスラックスが、ゆっくりぶちぶちと裂けた。


 鍔迫り合いの状況が一転しようとしていた。


 どうにかしないと――!


 僕は近くにあった小型のテレビデオを両手で抱えると、駆け出す。ずっしりとくる重さだ。


 ニワトリ頭の黒い目玉が僕を一瞥する。一瞥するだけだ。


 スピードの勢いをそのまま乗せて腕を大きく振り、ヤツの側頭部にブラウン管を思い切り至近距離から叩き込む。ごぎゃりという骨が折れる感触が黒いプラスチックごしにつたわって、さらにその感触が腕から肩に抜ける。


 トォタリさんは姿勢を崩した男の首を二刀で一閃した。


 今日、何度目かの光景。首があっけなく飛んでいく景色。


 床にがしゃりとテレビデオが落ち、近くに生々しい巨大なニワトリの頭がぼとりと不時着した。


「こいつ、ボス、ですよね」僕は肩で息をしながらトォタリさんに言った。「終わり、ですか?」


 彼女はなにも答えない。ニワトリの頭をじっと眺めたまま、むんずと掴んでいた扇風機を放った。延長コードをいくつも繋いで電気を供給されている扇風機は、陸揚げされた魚のようにビチビチと跳ねている。プラスチック製の回転羽は床にぶつかるたびにバキバキと折れ、欠けていく。


 頭の欠けた男のからだは、バットを構えたまま硬直していた。ピクリとも動かない。スラックスが裂けるほど膨張していた脚の筋肉は、いつのまにか元に戻っていた。


 跳ねた扇風機の羽が何度か男の腿を深く切り裂く。それでも、ヤツのからだは動かない。


 終わってないのか? そう思ったときだった。


「うおっ」トォタリさんが素っ頓狂な声を上げて男のからだから距離をとった。「逃げろ逃げろ」


 彼女に手首あたりを掴まれて、一緒に逃げようとする。


 だが、いくら足を前に進めても距離がなかなか進まない。進まないというより、床自体がだんだんと斜めになっていっているような……


 いや、このフロア自体がゆっくりと傾いている。


 緩やかに床を滑ってきたCDケースを、トォタリさんは思わず踏んでしまう。


「あだっ!」


 体勢が崩れ、僕らはリノリウムの床を「うわーっ」とか「ひゃーっ」と叫びながらつるつる滑り落ちていった。


 真後ろからがたがたと激しい音をたてながらなにかが追ってくる。振り向いてみるとそれは扇風機だった。その後ろからも、展示されていたテレビだとかビデオデッキだとかが転がり落ちてくる。


「あっぶね!」


 トォタリさんが僕のからだを思いっきり強く引っ張る。高速回転する羽は僕の鼻先をかすめて壁にぶつかって止まった。


 ふたりそろって壁に着地する。


 がしゃりがしゃりと大きな音をたて、周囲に家電が溜まっていく。大型ブラウン管テレビにテレビ台がぶつかってガラス片をあたりに撒き散らし、揉みくちゃになったMDコンポがノイズ混じりに大音量でポップソングを流す。さらに洗濯機が落下してきてすべてを圧壊する。破壊の嵐が巻き起こっていた。


 ひといきつく暇もなく、今度は棚から溢れ出たカセットテープにVHSテープ、小型ラジカセ、MDウォークマン、テープ式のビデオカメラ、デジタルカメラ、そういったものたちが雹のように降ってくる。


 見上げる。家電だけじゃない。このフロアの他の売り場に置いてあったものも落ちてくる。さっき倒した人形たちの白いからだも、まるで放り投げられた死体のように降ってくる。


 そしてまた地面(壁)がゆっくりと傾く。今度は骨組みの吹き抜け天井が床になろうとしている。


 降り注ぐ金属の雹をなんとか避けて、僕らは目と鼻の先にある天井に向かう。


 背後から迫りくる質量の巨大なうねりが音と気配で感じられた。擦れあい、軋み、ひび割れたりひしゃげたりぶつかったり引っ掻いたり潰したり潰れたりする音の渦が聞こえる。


 後ろを一瞬振り向くと、日常生活で目にするものすべてを混ぜたような濁流が迫ってきていた。飲み込まれたら命はないだろう。


 空間の角度が斜めになっていくにしたがって、濁流の速度が増す。


「とべ! とべ!」トォタリさんは天井の骨組みに掴まって僕に左手を伸ばしていた。「ジャンプ! ジャンプ!」


 助走をつけてジャンプをし、彼女に引っ張り上げてもらう。


 わっせ、わっせ、とふたりして天井の骨組みに指や足先をかけ、上へ上へとのぼっていく。傾斜はだんだんと緩くなってきている。視線を下に向けると、売り物の濁流は量が多すぎてやや流れが停滞していた。


「あいつ、もしかして――!」


 トォタリさんは何かに気がつくと、はっと振り向き見上げる。僕もつられて、そいつを見た。


 すこしまえまで僕らが立っていた床――いまは天井になり代わろうとしている――には、変わらずあのポロシャツの男が、まるで足を打ち付けられ固定されているかのように立っていた。


 男の存在しない首がこちらに向けられる。赤黒い首の断面はヘドロのように渦巻いている。ホームランを狙うバッターのようにバットをこちらにゆっくり向ける。視られている、と僕は感じた。



 ドドドドドドドドド――――



 皮膚が痺れそうなほどに強い振動が建物全体を揺さぶる。同時に上方から強い圧力がかかって、鉄格子に体をぐっと押し付けられる。頬にひんやりとした鉄が食い込む。


「くそ、あいつ飛ぶ気だっ」


「はあ!?」空間の回転、そしてあまりにも強い振動と圧力――もう答えはわかっていたけれど僕は思わず訊き返してしまう。「なんですかっ、飛ぶって!」


「そのまんまの意味に決まってんだろ! 行くんだよ! 宇宙に!」


 パチン――!


 指を鳴らす音が、轟音のなかでやたら明瞭に聞こえた。僕らはあの首のないポロシャツの男を――〈獣〉をもう一度見る。奇妙なことが起きていた。


 ヤツの存在しない頭のすこし上あたり、そこに無数の幽霊みたいなマスクが横一列にズラッと並んでいた。青白い透明な炎に包まれた、ニワトリやヘビやブタやゾウやタコやドクロなどを模した無数の頭部たち。


 やがて首たちはザーッと高速で流れていく。食肉工場で吊るされている肉の塊みたいな規則正しい動きだった。ゲームで装備品やアイテムをセレクトするみたいだな、とも思う。


 その動きはぴたりと止まり、ポロシャツの男はちょうど頭の位置に来ていたタコを模したマスクを両手で掴むと、首にむんずとはめ込んだ。首にはめたというより、ないはずの頭にマスクをかぶらせた、と言う方が正しいかもしれない。


 ドンキ全体を揺るがす振動は止まらない。天井に設置された蛍光灯の支柱がぎいぎいがたがたと震え、鳴る。僕らが掴まっている鉄格子もがたがたいっている。


「どうします!?」


 横にいるトォタリさんに尋ねる。頬にべったり張り付いた髪を鬱陶しそうにひっぺがし、自分を抑えつけるGに反抗して腕をつっぱった。焦燥感と疲労が混じった表情で僕を一瞥する。口を開きかけ、なにかを言おうと逡巡する。


 逡巡した末に出た答えはシンプルだった。


「……まじで倒す」


 静かに言うと、楽しそうな笑みを浮かべた。


 強いGにまけじと手の指と裸足の足先を駆使してぐいぐいのぼっていく。


 ガダダダダッ! という音とともに、頭上ななめうえ――天井と床のあいだ、棚や柱に衝突したりしながらベッドが落ちてきた。一台だけじゃない。そのあとからもまだまだやってくる。ベッドだけじゃない。ソファーや家具も落ちてくる。


「キルキル!」


「なんですか!」


「自分はどうしたらいいって、考えてるでしょ!」


 とりあえず、困ったときは走りな。


 そう言い残すと彼女は鉄格子に両足をつけ、ぐぐぐと膝を曲げ――跳んだ。


 咆哮しながら落下中のベッドに飛び蹴りを食らわす。


 軌道を無理やり修正させられたベッドはそのままマスクの男に突っ込んでいく。


 タコの触腕が瞬時に伸び、ベッドを貫いた。


 そのまま触腕は衝撃を殺すように大きくベッドを振り回し、そして――


 視界いっぱいに白いマットレスが迫ってきたところで僕の意識は途絶えた。

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