2-3

 いつものように、フヒトベ先輩から継承した鍵で屋上への扉を施錠した。


 炊井戸タクイド先輩はその様子を見守る。


「それ」鍵をスラックスのポケットにしまおうとする僕を指さして彼女は言う。「やっぱり気になる」


 僕はポケットに入れかけていた手を引っこ抜いて、掌の上の鍵を差し出した。


 身をかがめ、彼女は鍵をまじまじと観察する。


「先輩、フヒトベ先輩もこれ使って先輩と会ってたんですよね」


「そうだよ」彼女は身を起こすと、階下を指さしてここ暑いから早く下に行こうぜと意思表明する。踊り場に滞留するむわっとした熱気から逃れたいのは僕も一緒だったので、階段を降りはじめる。


 少し勢いをつけて降りるたびワイシャツのなかを停滞した空気がとおって行くので、生ぬるいのに少しだけ気持ちがいい。


「見たところ、ほんとうにふつうの鍵だけど、なんで入れるんだろうなあ」


「もしかしてこれって、本当に無理やり介入してるんですか。その、先輩の――〈王さま〉の力と領地に」


「別に無理やりじゃないさ。〈屋上理髪師〉として、人が入ってこれるようそこまで厳重に締め出しちゃいないし……。でも、干渉はしてる」


「この鍵は」


「その鍵は」


 一歩先を行く先輩は、僕を振り向き見上げた。学帽の下の黒い髪が揺れて、彼女のにおいがふわっと漂う。


「だから、ふしぎなんだ。いったいなんなんだろうね」


「この学校に代々伝わってるものだって言ってましたけど」


「あの子の言ってることを鵜呑みにするのかい?」彼女はやれやれと眉間と口元を歪ませ苦笑する。


 フヒトベ先輩はメガネをかけていたし、制服もきちっと着ていた。外見だけで判断すれば真面目な優等生だったけれど、でもよくよく見るとメガネには凝った意匠が施されていて、制服も結構改造していたし、ソニープラザで買った極彩色且つ海外製のワーム状のグミを食べ、モンスターエナジードリンクの瓶のやつを愛飲し、「もう上履きとか全国的に全部クロックスでいいと思うんだよ」などとだるそうに言い、そして未成年が吸って問題ない電子タバコをくわえては水蒸気の爆煙を吐き出したりもして、あたりにライムとミントの香りを振りまいていた。


 語弊がある言い方でしかないけれど、下北沢に行ったことはないけれど下北沢ってきっとこんな感じなんだろうな――とフヒトベ先輩と接するたびに思っていた。優等生でも不良でもないし、かと言って所謂サブカルやオタクとも雑にカテゴライズできなさそうな彼女は、実際に話してみると理知的でありながら平然とふざけたことを言うので、どれが本当でどれが嘘なのか判別がつきずらかった。


「あの子がどういう子なのかなんて、きみだってよく知ってるだろ」


 まあ、それなりには。


 炊井戸先輩はフヒトベ先輩とどんな会話をしていたのだろう。彼女の知っているあの人は、僕の知っているあの人と同じようにふざけた話をして、意地悪そうに笑ったかと思えば物憂げに目を伏せたりしていたのだろうか。


 あの子――炊井戸先輩はフヒトベ先輩のことをそう呼ぶ。名前で呼ぶことはめったにない。そこに僕は、彼女たち当事者だけにしかわからない関係性や絆を感じ取ってしまって、ほんのちょっとだけ疎外感を感じてしまう。


 もし炊井戸先輩と会うのがもう少し早くて、僕と炊井戸先輩とフヒトベ先輩の三人で放課後に会話するようになっていたら、どうなっていたんだろうか。


 その場合、僕はどっちにより多くの好意を抱いていたんだろうか。


 それを試したければ〈王さま〉の力で過去に行けばいい。に行けばいい。それをやらないのは、やったところでのこの僕が満足するだけで、過去の僕が変わるわけでも救われるわけでもないからだ。


 特別棟一階に降り立つ。購買奥にある厨房からは、使い古した油のにおいが常に漂っていた。なんだか自分も揚げ物になった気がして、一部生徒たちのライフラインである購買付近は少し苦手だった。そういえば、この購買でお弁当やメンチカツを買ったのはいままで一回か二回ぐらいしかない。


 先輩は立ち並んだ自販機でいつものようにエネルゲンを買うと、飲食スペースの席をぎいと引いてどっかり腰を下ろした。


 僕が通うこの高校の制服はブレザーだ。夏のいま、僕たち男子は半袖の白シャツにグレーのスラックス、女子はグレーを基調とした半袖セーラー服を着用していた。


 そのなかで黒いセーラー服を着て黒い学帽を被った先輩は非常に目立つ。他校の生徒が混じっているのに誰も彼女を見咎めないのは、ひとえに〈屋上の王さま〉としての能力のおかげだった。さっきの王や神は認識できない云々という話を思い出す。


 彼女は足を組む――黒いストッキングに覆われた脚が、スカートからすらりと伸びている。


 エネルゲンをひとくち口に含んで嚥下する――黒いハイネックのインナーに覆われた華奢な喉が動く。


 ふうと一息つくと腕を組み、退屈そうな表情で学帽からのぞく前髪を手櫛でといた。


「え、なに」


 ポケットから取り出した小型の野暮ったい端末――ポケベルというらしい――を確認してから、先輩は自販機の前で静止したままの僕に目をやると、戸惑ったように半笑いを浮かべる。


 気まずくなった僕は「あ、いえ、なにも」ともごもごつぶやいて目をそらす。


 今日はコカ・コーラを飲もう。砂糖を摂りたい気分だった。赤いやつがいい。赤いコカ・コーラ――それはオリジナルで、リアルだ。人工甘味料なんてフェイクだ。――だが、フェイクのなかにもリアルは存在するはずだ。そしてリアルがフェイクになることもあるだろう。いったいぜんたい、なにがリアルで、なにがフェイクなんだ……?


 僕は気がつくと赤いコカ・コーラも黒いゼロカロリーのコカ・コーラも買わずに、金色に輝く小さなそいつ――リアルゴールドを買っていた。リアルと名乗るならこいつは正真正銘リアルなはずだ。そしてこいつはゴールドだ。輝きに導いてくれるはずだ。さっきからなにを言ってるんだろう。自分で自分がわからない。


 リアルゴールドをすすりながら先輩の正面に腰を下ろす。


 彼女はエネルゲンの黄色い缶を持ったまま人差し指を僕に突き出して「おっ、リアル」とだけ言った。


 僕は呼応するように顔の横に缶を持ち上げ指をさす。なんらかのCMのように「これこそが、リアル――」と言った。


「なにやってるんですかおふたりとも……」


 聞き慣れた低い声――ちょうど近くを通りかかったままの姿勢で固まったカヤサキが、神妙な面持ちで僕らを見下ろしていた。制服の上からはカーキ色のエプロンを着用していた。エプロンはところどころ絵の具やら石膏やらで薄汚れていた。今日は美術部の活動日だったっけか。〈王さま〉になってあちこち行っていると、曜日感覚がたまにおかしくなってしまう。


「リアル!」先輩がカヤサキをビシッと指さして叫んだ。


 驚いたカヤサキはびくりと長身をすくめ「え、なんすか。え」と戸惑う。


「汝、リアルの者よ。この王の話相手をするが良い」


 芝居がかった口調で先輩は言い、「この王」のくだりで顎をしゃくって僕を示す。


 彼女は制服のポケットからポケベルを取り出して僕に見せると「ごめんよキルシくん、すごいタイミングで急な予約が入ってしまった」と苦笑を浮かべ残念そうに席から立ち上がった。


 えー、あとまわしでもいいじゃないですか。僕は口を尖らせて言いそうになったけれど、彼女は見習いとはいえちゃんと理髪師としての仕事を全うしようとしているので、引き止めるわけにも行かない。


「きみも知ってる人だよ」


「え?」


「ま、すぐにわかるだろう」


 それじゃあ、またね。先輩は足早に階段へと向かって行った。


 残された僕とカヤサキは顔を見合わせる。カヤサキとは親交があるものの、めちゃくちゃ仲が良いというわけでもないので、お互いどうしようか探り合うような空気が一瞬形成される。


「カヤサキ後輩」口火を切ったのは僕だった。


「なんですかキル先輩」突っ立ったままのカヤサキは手にしていたパックのコーヒー牛乳をじゅーっとひと口飲んだ。


「部活、もう終わり?」


「ええ、まあ。一服してから帰ろうと思ってたところですね」


 もし良かったら一緒に帰らないか、そう僕が言う前に彼女は薄汚れた白い天井を指さすと「ちょっと片付けてくるんで、待っててもらっていいですか?」と言った。言い終わると、またコーヒー牛乳をじゅーっとストローで吸い上げる。


 先に言われるとは思わなかったので、僕は面食らって「おっ、おっ、おう」と変にどもりながら返事してしまった。


 それでは、また。彼女は大股でこの場をあとにした。ほんのりと、絵の具がまざりあった匂いがした。

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