貳譚目其乃弌〜恋患〜
一
いつから頰杖をついていたのか、覚えていなかった。
とはいっても、ここは誰もいない控え室。別に無理に解こうとかは思わなかった。そんなどうでもいいことを、私はパイプ椅子に腰を下ろしながら考えていた。
部屋の中央にあるテーブル。普段4人がけなのに、今は3人しか座ることができない。理由は、段ボールだ。山になって、部屋の隅に置かれているのだが、あまりの多さに休憩スペースを侵害しているのだ。
故意なのか偶然なのかその上、端から中央にかけてその段数は増えていっている。まるで山頂まで伸びる山道のよう。動かざること山の如し、なんちゃって。
中に入っているのは、外国版コミック。発売は明日。陳列するための作業がいくつか残っているが、箱に入ったまま。こんなおかしな状況を作り出してるのは、担当の
いつものように、「終わらないんだよぉ」「僕を助けると思ってさぁ」と、梅干しでも食べたかのような顔で助けを乞うてくる。
本屋のバイトは大変だ。普通の人が想像する何倍も何十倍も。本好きでなければとっくにやめているぐらいだと私は思ってる。どんな仕事もそうだろうけど、はたから見るのと実際やるのには雲泥の差があるのだ。それに、バイトとはいえお金を貰って働いているし、何より“お互い様”。手が回らず大変だから、助けを求めることに異論はない。反対に、助けを求められた時に手伝うことに抵抗はない。
けど、土金さんが求めるのはそれとは明らかに異なる。面倒な仕事のみ、初めっから放り投げてるのだ。これは気がするではなく、実際そう。誰しもが思っていて、共有もしてる。
私より年齢も働いている期間も、僅かではあるけれど、上。つまり、先輩。勘弁してくれよって辟易しているけど、口にはできない。
一応、一度だけ忠告、といえば聞こえが良いがその時の感情も加味すれば、遠回しの嫌味を言ったことはある。言い訳をさせて貰えば、こちらも与えられた業務があって、手いっぱいだったのだ。その時の顔はなんとも恐ろしく、恨むような形相だった。何も言わなかったというのも相まって、トラウマになるほどだった。
要するに、段ボールの山は、手伝ってくれる人がいないから、面倒だからと本人が手をつけてないのだ。忘れたふりでもすれば誰かやっておいてくれるだろうという、そんなことを考えているのだ。
あぁ、
「少し痩せた?」
不意に呼びかけられ、思考が止まる。誰か来た。急いで頬杖を解いて姿勢を起こし、声のした右の方へ顔を向けた。
「ああ、
顔を見て肩の力が抜ける。
「私で悪ぅござんしたね」
「今から休憩?」
私からの問いかけが、由奈のパイプ椅子を引きずる音に紛れた。聞こえなかったかもと脳裏をよぎった。けどらその後に「ううん、もう上がる」とちゃんと返答がきた。
腰掛けてから改めて「やっぱ痩せたよ」と笑みを浮かべてきた。
「そう?」
「うん、頰の贅肉がなくなった」
「久しぶりに会うからじゃない? ほら、記憶の美化補正」私は頬を触りながらそう伝えた。
「それはあるかも」
由奈はにやにやした顔を浮かべた。
思えば、一緒に旅行した時以来。大学が違うから、遊んだりしなければバイトの時しか会わないのだけれど、シフトが違ったり私生活で色々忙しいことばかりで、久しぶりに会った。
「幸せ太りしたかと思えば、痩せちゃうのか。いいなー」
幸せ太り……
「そういう、そちらさんは彼氏作らないの?」
私は緩く組んだ腕をテーブルに置き、体を乗せた。
「うーん」由奈はバツが悪そうに視線を落とすと、持ってきたペットボトルの蓋を開けた。
「紹介しよっか? ゼミとかサークルとか、結構イケメンなのに1人って男、案外多いんだよね。性格もいいし」
そう言うと飲み物を飲み、蓋を置いた。「大丈夫」
「あっ、もしかしてもう彼氏できたとか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどね」
「なら、なんで渋るのさ。由奈、可愛いんだからさ」
由奈は肌が白い。日焼け止めクリームとか塗らなくても、白いままなほど強い。目鼻顔立ちがはっきりしていて整っている。数字の付くアイドルでメインを務めている人によく似ていて、私と同い年なのに大人っぽく見える。
「いいの」また俯いて飲み物を飲む。「私にはずっと好きな人、いるから」
「えっ」私は初耳の事実に思わず目を見開いた。「それ誰?」
「ヒミツ」視線はそのまま、由奈は笑った。
「えぇーもったいぶらないで教えてよ」
「付き合えた時に紹介するよ」
「えぇー」
「それよりさ」
由奈は背を前に倒し、私を見てきた。覗いてきた、の方が適切だ。目の奥の、その先にある心を透かすようにじっと見つめてきた。
「な、何?」思わず軽く仰け反った。
「
「ん?」
素っ頓狂であることに、妙に恥ずかしくなった。改まって名前を呼ぶような場合、何か大事なことを含んでいるのが大抵なはずなのに、なんとも気の抜けた返事をしてしまった。
「さっき痩せたとか話したけどさ、やっぱり違う気がしてきた」
「違うって何が?」
「なんかさ、痩せたというより顔色悪い気がするんだよね」
思わず瞬きが増える。見抜かれたかもしれない。
「テスト相当大変だったみたいだね。疲れ溜まってる」
テスト……中間試験のことだろう。落としたら留年の綱渡り的要素をこれでもかと孕んでいた危ない試験だったので、由奈にバイトを何日か代わってもらったりした。実験のレポートに試験に……なんで情報系の学科なんか選んじゃったのだろうか。楽そうだからと甘く見た高3の自分が恨めしい。
「いや、まあ、ね」
私は視線をそらしつつ、軽く返事をした。よかった、杞憂だったみたいだ。
「ボロ出したね」
「はい?」
「それだけじゃないでしょ?」
いつも思うけど、由奈はホント人の心を読むのが上手い。
かと言って、素直に話すべきなのかと言われれば、微妙なところ。余計な心配かけたくないからとこれまで繕っていたんだし、さっきだって話を変えてまでしていたんだし。
とはいえ、ここ最近、より酷くなっていて疲労感は増していた。誰かに聞いてもらいたい気持ちは大きかった。
「私に話してみなさいって。少しぐらいなら力になれるよ」
胸をトンと叩く姿に励まされ、思い切って話すことにした。これ以上隠し通すことは難しいだろうし、最近
「実はね、今、変な人につきまとわれてるんだよ……ね」
「変な人?」
「その……」
その一言を出すことに少し抵抗があり、思わず口籠る。確定もしておらず、確信も絶対までではなかったからだ。けれど、ここまできたら言い渋るのもおかしな話。最後まで言ってしまおう。
「ストーカー、みたいな」
軽くはぐらかしてみたものの、由奈の眉は縦に伸び、開いた目と距離を最大限に開けていた。部屋が静かになる。というより、冷え始めた。
「そのせいで妙に怖い夢見ちゃったりしてさ、ハハハ」
少しでも暖めようと、冗談めいて話した。由奈はテーブルを両手で弾きながら、席を立つ。
「そんな大変なこと、なんで相談してくれなかったのさ」
「ご、ごめん」まさかこんなにも怒気を含んだ言葉が返ってくるとは思ってもみず、私はたじろいだ。「由奈に心配かけたくなくて……」
「被害届は?」
「出してない」
「なんでよ、今は警察もそういうのも取り扱ってくれるとか言うじゃん」
「だって、ストーキングされてるだけで、証拠無くて……」
由奈がゆっくりと膝を曲げたのが視界の隅に入り、私は顔を上げた。反対に、由奈は視線を落としていた。下に向かう目が泳いでいるのが見えた。
数秒そのまま固まっていたが気持ちの整理ができたのか、由奈は一つ大きな息を吐いた。そして、視線を上げた。
「彼氏さんは知ってるの?」
「うん」私は首肯する。「晴矢には車で近くまで送ってもらったり、合鍵貰ったからあとをつけられて家に帰りにくい時は寄っていいよって言ってもらってる」
だけだ、という言葉は飲み込んだ。晴矢の家には行っていないし、自宅まで送ってもらうのは都合が合う時だけ。その話をした直後、喧嘩してしまったからだ。疲れや不安で余裕がなかったからか、今思えばホント些細な小さな事でいさかいになってしまった。
送ってもらったりとか会ってはいるのだけど、まだ「ゴメンね」を言えていない。そのせいで、会話は殆ど無い。けど、心配をかけないためにもそう言っておいたほうが得策だろう。
「でも、もしかしたら、だから。確定じゃない。何かされたとかものが送られてくる的なこともまだ起きてないし」
「起きてからじゃ遅いんだよ」
「確かにそうなんだけどさ……」
「私、ちょくちょく泊まりに行こっか? その方が安全だったりするし」
「うん……」
やはりこうなる。人に迷惑をかけまいと思ったのに、結果こうなってしまった。申し訳なく思う。同時に、持つべき者の有り難みを感じる。
「無理にとは言わない。もし不安だったらとかでいいから」
「ありがとう」
由奈の労いに、感謝の想いを乗せた精一杯の表情を浮かべた。
「
見ると、ドアが僅かに開いていた。隙間から店長が顔を出していた。目元や口元にある五十代相応の皺に加え、眉間に濃い皺が作られていた。困っている、というのがよく伝わる。
「ちょっと早いんだけど、レジ入ってもらえるかい?」
時刻はもう17時を回っている。仕事や学校が終わり、混雑し始める時間帯だ。
私は席を立つ。
「すぐ行きます」
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