二十九
俺は顔を上げた。三日月よりも少しやせた月を眺めるためじゃない。真っ直ぐ伸びた黒いポールの上についでのごとく乗った円形の時計を見るため。
だが、俺と時計の間にはそこそこの距離があり、なかなか把握しづらかった。俺は目の辺りの筋肉を上手く調節するが何回か繰り返すも見えない。
俺は首から紐にくくりつけぶら下げておいた双眼鏡を使ってみることにした。目に付けた瞬間、分かった。今は18時15分。長針短針しかないタイプだから秒単位までは不明だが、そろそろだというのさえ分かれば、場所を移動すればいいだけの話なので、分からなくても特段の問題はない。
確認を終えた俺は振り返り、エンドウさんを見る。先程から変わらず、すぐそばのベンチで両手両足を絶えず動かしながら座っていた。はたから見ればただ落ち着きがない女子高生にしか見えないだろうが、理由を知ってる俺はその行動が心情が痛いほど伝わった。それは怪異への単なる恐怖だけではない。
タイムリミット寸前なのに、イチ君とトー君がいないのだから。そばに、ではなく、見える範囲に、だ。つまり、対処が出来ない2人しか今ここにはいないということ。そんなの、不安にならない方がおかしい。
大丈夫ですか?――俺はそう声をかけようと距離を詰める。だけど、喉辺りまで来た時にやめた。足も同時に止まった。
視界に俺の足が入ったからだろうか、エンドウさんはおもむろに頭を上げ、俺の顔を見てきた。 俺の気持ちを汲み取ったエンドウさんは微笑んだ。力は感じれなかった。
「大丈夫です。正直なところ、全く分からないです。こんなのは生まれて初めてですし」
すると、弱い笑みは少し力を取り戻した。
「けど、あの2人は約束してくれました。何があっても助ける、って。坂崎さんと同じで、私も2人を信じます。信じて、私がやれることをします」
エンドウさんの真っ直ぐな目を見て、俺は縦に首を傾けた。
「あと、どれくらいでした?」
その言葉で思い出す。そうだ、時間を知るために時計を見たんだった。
「15分ぐらいです」
エンドウさん曰く、買ったのは18時30分頃だったそう。そうなると、まだもう少し時間はあるが、距離的なことも考えて余裕を持って行動したほうがいい。
俺は、そろそろ行きますね、と声をかけようとした。だが直前、突如として風が吹いた。勢いがあり、双眼鏡の紐が捻れる。
俺は顔を上げる。まるでデカい怪物かのように、周りの木々が大きく波打っていた。絶えず吹く風。季節を逆らい冷たく乾いていたことに、おかしいと本能で感じた。肌を撫でていく感触に、嫌な予感がした。
ガタリと音が聞こえ、視線を変える。エンドウさんが立ち上がり、辺りを不安そうに見ているのだ。どうやら俺と同じことを感じ取ったらしい。
もしかして……怪異? いやいや、そんなことはないはすだ。だって、リミットまでまだ時間は残ってたはず。さっき見た時計だって……え? な、なんで?
「時計が……止まってる」
思わず心の声が漏れる。時計の針が動いてない。考えられることは2つしかない。あの時計は壊れているか、ただの気まぐれなモニュメントか。どちらにせよ、時計は正確な時間を表現していないことは確か。となると、今は針が指してる時間よりも先に進んでいる可能性がある。つまり、もう時間かも……
最悪だ……なんでよりによってこんなタイミングで、そんな文言が一瞬頭をよぎった。だけどすぐ、時計は壊れたのではなく、怪異に壊されたのではないだろうかという案が脳内に浮上した。
もしくは一時的に時計の反応を遅らせたのではないか、はたまたまだ時間ではないという幻覚を見せていたのではないか。たらればを言えば可能性は無限大に広がっていく。
正直なとこ、どこまで怪異が出来るのか分からない。存在を知ったのはほんの数日前で、今俺は姿形でさえもろくに覚えてないのだから。ただ自分をこんな姿に変えてしまったということを加味すると、時計の針を進まなくさせることぐらい容易いような気がしてならなかった。
俺は振り返り、エンドウさんと声をかけようとした。だが、できなかった。振り返った瞬間、背筋がビクリと伸びたのだ。まるで背筋を殴られたように、電気を流されたように。遅れて熱い何かがじんわりと身体中に広がっていく。
体は動かないものの、瞬きができた。目は動かせる。俺は視線をエンドウさんの顔に。エンドウさんはただ俺の背中の方の一点をじっと見つめ、ただ唇を震わせていた。震えは明らかに寒さのせいだった。体の奥から出る悪寒という寒さのせい。震えは広がり、まず歯が音を出し始める。カチカチと刻むリズムが細かくなっていくと、今度は顔。肩から腕、そして全身。恐怖が侵食して体を乗っ取っているのがよく分かった。
それだけじゃない。それ程までの恐怖を抱かせる存在が今、俺の後ろにいるということも分かった。いや、分かってしまったという方がこの状況では相応しいかもしれない。
音を立てて唾を飲む。液体であるはずなのに、量が多かったのか、固形のように感じられた。意を決して、俺は、ゆっくりではなく勢いよく一気に振り返った。
視界が変わる。“何か”の足がいる。顔を上げる。恐怖の全てが目に入る。
俺はじっとその姿を見つめながら、いつのまにか震えていることに気づいた。それも細胞の1つ1つが振動してるかのような、熱を帯びている。
即座にこれが2人の話してた怪異だということは直感的に、本能的に分かった。俺は微塵も覚えてないけど、体にはしっかりと刻まれていた。
「……早く」
俺は視線を逸らさずに、後ろに手を伸ばした。エンドウさんの腕に触れる。
「逃げないと」
そのまま腕を掴み、左右に揺らす。だけど、反応はない。
「逃げなきゃ……」
より揺らす。でも、反応はない。俺は振り返る。顔を見上げたまま、硬直しているエンドウさんの双肩を掴む。
「逃げるんだ!」
俺の口から、目で追えるほど大きな唾が飛んだ。
唾を飛ばすほどの声でなのかこれでもかと強く肩を揺らしたからなのか定かではないが、エンドウさんの眼の色が変わった。まさに、血の気を取り戻した、状態。エンドウさんが顔を上げ、目が合った。
「逃げろっ!」
意識せずとも大きな声を出した俺は、いつのまにかエンドウさんの腕を掴んでいた。逃すまいとしてか、怪異が叫ぶ。俺なんかよりもよっぽど耳をつんざく、また言葉にならぬ叫び。それを俺らは短距離走のスターターピストルにして、駆け出そうと左を向く。
瞬間、背中に衝撃が走る。物凄い力で押された。痛みとともに足が宙に浮く。俺は腕のようなものが俺らを押しているのを一瞬捉えたことだけ分かると、遠くに弾き飛ばされた。
俺は左腕を下にした状態で、地面に叩きつけられる。勢い余ってそのまま少し滑り、辺りに砂埃が舞った。
「うぅ…‥」
背を殴られたはずなのに、胸の辺りにまでジンジン痛み、呼吸が上手くできない。下になってる左腕に力が入らない。
目を開ける。視線の先にはエンドウさんがいた。目を閉じたまま、少し離れたところで倒れていた。
「エンドウ……さん……」
後ろに目をやる。エンドウさんの方へ近づいている怪物が、ゆっくりと距離を詰めている怪異がいた。
助けなきゃ……俺が助けなきゃっ!
鉛のように重い俺の体を手や腕を地面に付いてどうにか持ち上げる。視線の先にエンドウさんを捉えながら、前傾姿勢の不安定なまま、俺は思いっきり歯を食いしばる。そして、地面を強く蹴った。
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