十五

 勢い余ったイチ君の体は少し浮かぶ。投げられた刀は柄と刃を上下回転して靄の方へと進んでいく。


 イチ君の声が届いたことで恐怖から解かれたのか、回転しながら飛んでくる刀が目に入ったのか分からない。だが、身の危険を感じ、エンドウさんは両膝を折り曲げて身を小さくした。


 その瞬間、突如回転が止まる。何かに当たったわけでもないのに、水平に。刃先を靄へと向けたのだ。

 さらに、一気に加速し始めた。何の外力も加わっていないのに、スピードを上げたのだ。


 何が起きているのか、これから何が起きるのか分からなかった。全てが予想の範疇を超えていることに、ただその場で見てるしかできなかった。


 そして、靄に刀が刺さる。あまりのスピードに、投げられた時よりも断然早いスピードに俺はその瞬間を視認できなかった。気づいたら刺さってた。

 おもむろに靄が蠢き出した。叫び声はない。だが、空中でのたうっている。遠目でも先ほどまでとは違うと分かるほど、一目瞭然だった。その動き方はまるで、人間のよう。いや、よく見ると、姿形が人間みたいだ。ただ、四肢や部位の境界線は曖昧なため、どこからどこまでが顔で、胴で、脚なのかまでは判別できない。全てが繋がっている。


 刀は細かく上下に振動しながら、さらに深く刺さっていく。比例するかのように、靄もより大きく蠢くが、靄が前に丸まると、靄が小さくなっていく。


 倒したか? 俺はそう思った、一瞬だけ。

 刀身が短くなっているのが見えて、理解する。靄は小さくなってるのではなく、刀に集まっているのだと。柄に向かって刀を侵食していく。音もせず静かに、でも切迫した勢いで。


 すると、刀身がなぜか長くなっていく。直線方向に見えなくなっていた姿を再び表していく。一方の刀は、カチャカチャとつばが当たり金属音を鳴らす。そして、再び刀身が短くなっていく。またしても靄は蠢く。

 その瞬間、気づいた。靄が集まっていたのは、刀を引き抜こうとするためであると。盛り上がったのは手のようなものであったのだと。刀は、靄に刺さり続けようと必死に抵抗しているのだと。


 そんな目前での、まるで弱肉強食の世界を映しているかのような攻防に、俺はあっけに取られていた。が、すぐに俺は、意味のないことだとしても撮影しておこうと、ケータイを取り出す。

 バッグに体を傾けた途端、横であの本を開き、手をかざしているトー君が目に入った。視線を移す。もちろん、あの靄の方に向けてなのだが、それよりも、だ。


 イチ君が、エンドウさんを間に、既に靄の前にいたのだ。その上、斜に構え、右手でもう、刀を掴んでいた。


「じゃーな」


 イチ君は右手で持っていた刀を素早く90度左に傾け、右横に切り裂いた。


 瞬間、靄の動きが止まる。イチ君もトー君もエンドウさんも、そして俺も止まる。イチ君が水滴を払うかのように刀を振り、肩に置く。カチャリと音が鳴る。

 それを契機に、靄は空へと消えていく。じわりじわりと、まるで天に召されるかのようだった。次第に靄が薄くなる。奥が透けて、続く道が見えてくる。


 エンドウさんの周りから何かが消えたのを目にした。透明だったが、太陽の光に反射したため目視できた。なんだあれ?

 だが、考えてる時間はなかった。トー君が2人の元へ駆け寄っていったのが見えたからだ。俺も慌ててついていく。


 先に着いたトー君が、エンドウさんに手を差し伸べる。まだ状況をよく分かってないようで、へなへなと座り込んでいた。体の力は地面へ抜けており、どこか遠くを見ている。


 「大丈夫ですか?」ゆっくりと顔を上げ、俺の顔を見る。次にトー君、最後に少し離れたところにいるイチ君に。


 再び俺の方へ目線を向けてから、「その……ちょっと何が何だか……ええっと……」と少し吃りながら答えた。まだ混乱してるようだ。そりゃああんなのを見れば当然なことだ。少し時間を置こう。


 あっそうだ。


「そういえば、トー君。さっきの変な黒い靄に向けて何かしてた、よね?」


 「いや」首を横に振られてしまった。


「でも、あの本を開いて、手をかざしてなかった?」


 トー君は、それか、と言わんばかりの表情を見せて「ええ。でも、それをしていたのはエンドウさんに向けて、です」と話し始めた。


「さっきのは、透明な壁で囲んで外部からの攻撃を受け付けないようにする、防御術の一種なんです」


 防衛術——前に見た、飛んできた網を空中で粉砕し、四散させたあれと似たような感じということか。


 追加して、「ほとんどの攻撃から守れる代わりに、囲まれた人は身動きを取ることができないため、先ほどのように、危険が及ぶが逃げられないような場合にのみ使用してます」と解説してくれた。なるほど、分かりやすい。


 「トー」声のした隣を見ると、いつの間にかそばにイチ君が。まだ名前を飛ばれただけだが、トー君は「ん」と持っていた竹刀袋や鞘を渡した。受け取ると黙々と片付け始めるイチ君。まるで熟年夫婦かのような連携プレーだ。


 俺は「これがあの?」と今度はイチ君に尋ねた。


「『あの』ってなんだ?」


 少し怪訝そうに眉をひそめている。


「その……怪異?」


 それか、というかのように片眉をあげると、「いや違う。さっきのは怪異じゃねぇ」と答えるイチ君。先ほどと同じく眉をひそめてはいるものの、少し残念そうな悔しそうな感じだ。


「なら、あの靄は一体」


 イチ君は刀の入った竹刀袋を地面に垂直に立て、その上に左腕を乗せる。


「ただの、悪霊だ。悪霊の集合体」


 刀を小さく回しぐらつかせながら答えてくれた。前にも似たような、人喰い女の顛末についてのと同じようなのを聞いた。


「でも、なんで突然……」


 あの靄は突如、エンドウさん近くで彼女だけ狙う気で出現していた。偶然、とは割り切れないような、おかしい気がしたのだ。まあ、「考え過ぎだよ」とか言われてしまったら、それまでなことなんだけど。


「さあな。ただ、アレが関わってるとすれば分からなくはない」


 アレ?


 イチ君は肩に背負い、歩き出す。視線の先には、ペットボトルに入った水を飲んでいるエンドウさんと、その隣に片膝立ちで視線を合わせているトー君がいる。緊張で喉が相当乾いたのだろう、エンドウさんは人目をはばからず、両手で持ちながらゴクゴク、音を立てて飲んでいた。


 「見せてくれ」イチ君はエンドウさんの前に手の平を出す。はたから見たらカツアゲしてるような、そんな感じだ。


 エンドウさんは「えっ?」とキョトンとした顔をする。


「持ってきてんだろ?」


 そこでエンドウさんは何かに気づいたようで、小さく口を開く。そして、俯き、視線を逸らした。明らかに挙動不審だ。

 イチ君はさらに距離を詰め、目前に立つ。太陽の光がイチ君で遮られ、エンドウさんの顔に影ができる。それでも、見せようとはせずに渋り、ただ気まずそうに左手で右手首を擦るように触っていた。


 トー君が体を少し落とし、顔を近づけ、「大丈夫です。僕たちを信用してください」と表情を柔らかくした。

 エンドウさんは、背負ったリュックを前に持ってきて、小物などが入る小さな口の方のファスナーを開いた。中から何かを取り出し、イチ君の手に置く。ゆっくりとした動作だ。


「え……えっ!?」


 俺はひどく驚いているのに、一方のイチ君は何も驚かず、隈なく目を凝らしてあちこちを見ている。トー君も何か気づいていたような素振りだ。あまり驚いていないみたい。


「な、なんでっ!?」


 見覚えがあった。というか、さっき見たばっかり。写真で見た、あのとそっくり。いや、まさにそれそのものだ。


 「そりゃ決まってんだろ?」イチ君は気だるそうな表情を浮かべ、ガムを噛んでいる。「こいつも買ったんだよ」


「か、買った?」


 「そうです……」俺はエンドウさんを見る。


「小夜に、『おそろにしない?』って言われて、その……同じ雑貨屋さんで」


 そうだったのか……ていうか。「2人とも知ってたの?」俺は首を2人に振る。


「俺じゃなく、トーがな。お前がさっき地図開いてた時に教えてもらった」


 てことは、さっきタクシーを降りた時ってことか……

 俺はトー君の方を見ながら「いつからこのことを?」と尋ねた。


「気づいたのは、遺族の方からブレスレットについてお話を聞いていた時です。ふと、エンドウさんがあの喫茶店で手首をよく触っていたことを思い出して」


 それは俺も思っていた。なんか手首よく触ってるなーって。でも、ただのクセ程度にしか思わなかった。そもそも。


「だけど、その時はブレスレットなんかしてなかったよね?」


 いくら触っていても、多少は見えるはずだ。だけど、そんなのは見当たらなかった。


 俺の問いに「ええ」トー君は頷く。


「ですが、もしブレスレットをしていたとしたらって考えた時、服装のことも納得できたんです」


 服装? 見てみるが、何もないように思える。今は軽装で動きやすそうな服……あっ!


 そうか、今もこの前も共通点がある。


 俺は気づいた興奮を抑えながら、一拍置いて、こう告げた。


?」

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