第三十四話 海霧

(1)

「うっとうしい雨だねえ」


 忌々しそうに吐き捨てたアラウスカが、ずっと降り止まない雨と、雨を注ぎ続けている分厚い鉛雲を見上げた。うっとうしい、か。確かにな。


「なあ、ゾディ。ここは、いつもこうなのかい? あたしゃ、去年もこんな天気だったっていう記憶がないんだけどさ」

「まあ、真夏よりは幾分お湿りがあるという程度じゃよ。普段ここは、海からの湿った西風が吹き付ける冬以外まとまった雨に恵まれぬ」

「今年が異常だってことかい」

「そうじゃな。異常では済まぬが」


 アラウスカが、杖をぐっと握って身を乗り出す。


「どういうことだい?」

「まあ、いつものとばっちりじゃ」


 私は、窓外のメルカド山に目を移した。いつもは眼前にくっきり見えるはずのメルカド山が、降りしきる雨に煙ってぼやけておる。ガタレの竜もひどく苛々しておることじゃろう。


「ふう……」


 ソノーたちも、この悪天では校舎に閉じ込められてばかりでがっかりであろうのう。じゃが、子供たちにはがっかりで済んでも、ケッペリアの農夫たちにとってはとんだ災難じゃ。このままでは、穀類の収穫が大打撃を受ける。深刻な飢饉の引き金になりかねん。


「仕方あるまい。交渉に行くか」

「は? どこへ、だい?」

「海じゃよ」

「……。まさかと思うけど、テレインの筋かい?」

「そのまさかじゃ。外道は人間だけとは限らぬゆえな」

「ううむ」


 アラウスカの表情が、いっぺんに険しさを増した。


「ガタレの竜は別格にしても、竜には竜の流儀があるゆえ、それを私がとやかく言うことは出来ぬ」

「ああ」

「ただ、己の欲を満たすために人を侵すものは、人から狩られる。竜は決して絶対者ではない」

「そうだね。ミスレの僧院の火竜がそうだったんだろ?」

「あれは不幸な事故じゃ。火竜を責めるのは酷なことよ」

「まだ幼獣だったからかい?」

「ああ。自らの意思で僧院に巣食ったわけではないからな」

「うむ」

「じゃが、オコテアの海竜は違う」

「あたしゃよく知らないんだけどさ。性悪なのかい?」

「微妙じゃな」

「微妙……か」


 いつも開く地図の代わりに、海図を開いてアラウスカに示した。


「ガタレの竜は唯一無二の存在で、代替わりの時以外は竜が並立せぬ」

「ああ」

「じゃが、海竜は種族ゆえ同類が大勢おる」

「へえー、それは知らなかったよ」


 アラウスカが、海図の上にぐいっと身を乗り出す。


「そしてな。海竜の間には、我々と同じように貴賎の差がある」


 ぱん! 海図の上を平手で叩いたアラウスカが、大きく頷いた。


「そうかい! なるほど!」

「位の高い海竜は深海に住まい、我々には決して姿を見せぬ。じゃが、卑賤な竜は陸地の近くにしかおれぬ。そして、しばしば人に狩られる」

「騒ぎを起こすから、だね」

「ああ。されど水を自在に操れる竜はそれなりの地位にある。容易には狩られぬ」

「そうか、あんたがさっき言った微妙ってのは、そういうことかい」

「徳も毒も中途半端。まあ、ベグレンみたいなものじゃな」

「あはは! 確かにね。あいつは因業だったけど、人の生き死にまで振り回したわけじゃないからねえ」

「そうじゃ。じゃが、オコテアの海竜はそこがどうにも微妙でな」


 海図から目を離し、外の降りしきる雨を睨みつける。


「あやつのしでかしていることは、すでに竜難。海竜に悪意があるのならば、それはあやつの身に返さねばならぬ」

「でも、交渉するんだろ?」

「オコテアの竜とではなく、海竜王レギオンとな」

「!!」


 飛び退ったアラウスカが、こぼれるほど目をむいた。


「あ、あんた……」

「案ずるな。喧嘩を売りに行くわけではない。逆じゃ。請願を奏上して来なければならぬ」

「ふう、それでも」


 アラウスカは、こつこつと小さく床を蹴りながら愚痴をこぼした。


「厄介なことだね」

「まあな。じゃが、せっかく再会を果たして賑やかに暮らし始めたクレオの家族を、すぐ離散させるわけにはいかぬ」

「すぐに出るのかい?」

「出る。なに、交渉だけじゃ。ほどなく戻るゆえ、留守を頼む」

「任せて。あんたも無理をしないようにね」

「はっはっは! 私はいつも私の出来ることしかせぬよ。実体以上のことは、最初はなから出来ぬ」


◇ ◇ ◇


 いつもであればホークを使うのじゃが、オコテアの竜に覚られるとどのような攻撃を仕掛けてくるか分からぬ。ただの竜退治であれば瞬時に終わるんじゃが、一応サエラの夫ということになるからの。無益な戦闘は回避したい。私は別路を使うことにして、屋敷裏の川の深みに飛び込んだ。


 ざぶっ。

 その水音を聞きつけたネレイスが数人。すぐに近寄ってきた。


「ちょっと! いきなり何よ」

「ああ、済まん。ちと海竜王レギオンどのに謁見を申し込みたくてな。確かここが居城への近道じゃったはず」

「げえっ!」


 傍若無人なネレイスたちも、レギオンの名を聞いた途端に色を失った。


「あ、あんた……正気?」

「私は下手な冗談とへぼ魔術師が大嫌いじゃ」

「いいけどさ。じゃあ、あたしたちが取り次ごうか?」

「そうしてくれると、とても助かるのう」

「前にたんまりご馳走になったからさー」


 ははは。化け物蜂掃討の時には、無制限食べ放題じゃったからのう。


 ネレイスたちの一人がさっと深みに潜ったと思うと、すぐに一枚の貝殻を持って戻ってきた。


「レギオンさまが謁見を許可するって。すぐ行ける?」

「もちろんじゃ」

「じゃあ、付いてきて」


 泡沫水魔のネレイスにとって、海竜王にまみえることなど夢のまた夢。私のことは単なるダシで、王に己をアピールする千載一遇のチャンスなのであろう。ネレイスたちは川底に繋がっている洞穴に這い上がり、ぴょんぴょんと跳ねるようにしてその奥に進んでいった。


 ほどなく、メルカド山の直下、地熱で沸かされてぼこぼこと泡が噴き出している地下泉に到達する。


「ぬう。お主ら、よくこんな熱湯の中で平気でおられるな」

「鍛え方が違うもん」

「そーそー」

「やれやれ。ここまで来て蒸し風呂に放り込まれるとは思わなんだ」

「蒸し風呂で済んじゃうあんたも変だよー」

「はっはっは」

「行くよー」

「うむ」


 硫黄が溶けて白濁する熱湯をくぐり抜けると、その先に深い藍青色らんせいしょくの鏡があり、それが城へ至る要路の扉になっているようであった。先ほどの貝殻を手にしていたネレイスがそれを扉に押し当てる。


 ぎっ。短い軋み音のあとで、扉が大きく開いた。


「こっちこっち」

「うむ」


 先の熱湯とは一変し、扉の先を満たしているのは全てを凍りつかせるような冷水じゃ。


「ううむ。熱かったり寒かったりでは、身体からだに響くのう」

「こうしとかないと、変なのがなだれこんじゃうでしょ?」


 お主らは変ではないのかと全力で突っ込みたいのをぐっとこらえて、誘導に従う。やがて、重厚な青銅の城門が我々の行方を阻んだ。ネレイスの一人が、門前にかしずいて到着を告げた。


「レギオンさま。ゾディアス・リブレウスを案内あないして参りました」


 頭上から大音声だいおんじょうが降ってくる。


「ご苦労であった! お主らも入城するがよい」

「わあい! やったあ!」


 ネレイスたちが無邪気に大喜びしておるわ。はっはっは!


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