第二十八話 地理
(1)
「ふう。春陽が眩しいのう」
学年が改まって。スカラに向かう馬車に大はしゃぎしながら乗り込んでいく子らの背が、日差しを眩しく照り返す。私は目を細め、そのまま瞑った。
私は、ソノーを取り返しにきた夫婦の末路を誰にも口外しなかった。もう二度と毒親に悩まされることはない。ソノーにはそれだけを伝えればよかろう。心浮き立つ春をくだらぬ憎悪で濁らせるのは、ひどくもったいないことじゃからな。物事に執着せぬソノーの
メイは、年初に屋敷に来た友人プレナと重ねる時間を優先することにしたらしい。仲がよい友人と共に過ごしたいというだけではなく、スカラを出ればいずれ己の身の上のことになるという私の警告をまじめに考えたようじゃ。その友人と同時にスカラを修了することで、それぞれが身の振り方を考えるであろうからの。
レクトも希望通りに一つ学年を上げ、早速上級者向けの棒術の練習にいそしんでおる。まさにめきめき腕を上げておる状態じゃ。王都で行われる武術大会にも出場させたいと、指導教師がとても喜んでおった。レクトにとっても、目標があることは励みになるであろう。
エルスは、雪が消えた庭を縦横無尽に歩き回っておる。母親が儚い印象であったのに比べれば、線の細さは母似であるもののかなりやんちゃじゃ。まあ、子供は元気が一番じゃからの。
本格的な春の到来に合わせて始動した子供らのエネルギーは、まさに未来の胎動。私も、そいつを分けてもらわぬとな。執務室の窓から降り注ぐ暖かい春の日差しに顔を向け、私はしばし思案を休めておった。
「ゾディ、ちょっといいかい?」
そこに、顔を強張らせたアラウスカがずかずか入り込んできた。
「どうした?」
「厄介なことになりそうだよ」
「……王家、か」
「そう。執政官は誰もがまじめに勤め上げてる。諸侯も今のところ新王への忠誠を誓っていて、大きな謀反の芽はない」
「ふむ」
「だけど、どうもね」
かんかんかんっ! アラウスカが、忌々しげに杖で床を叩きつける。
「隣国クレスカの碌でなし王子が、王妃を狙っているみたいなんだよ」
「はああ?」
思わず頭を抱えてしまう。
「なんと節操のないことじゃ。下半身しかない
「まあね。王女の輿入れが二度にわたって頓挫しているだろ?」
「メレディスとセレスじゃな」
「そう。それは約束の不履行じゃと難癖をつけ、果たせねば王妃自ら輿入れせよとねじこんできた」
「王妃は?」
「絶対に嫌だと言ってる」
「当然じゃな。幼王を後見するものがいなくなる。その上、王の実母じゃからな。我が子を置いて輿入れなぞ気違い沙汰じゃ」
「それはいいのさ。問題は、どうやってはねのけるかなんだよ」
「うむ。確かにな」
クレスカ王国は、国としての規模はルグレスとそれほど変わらぬが、地方自治を一切認めておらず、王への集権が徹底されている。現王オクタビウスは、為政者としては平均的な男じゃが、出来の悪い世嗣ぎの王子ゲウムを溺愛していることだけがどうにもならぬ。
現王が退位してゲウムが国を統べるようになれば、クレスカは崩壊するであろうのう。まあ、穀潰しの最たるものじゃからな。
ルグレスの前王もシモがゆるゆるじゃったが、王妃に隠れてのお忍び。建前としては王族をちゃんと維持しておった。じゃが、ゲウムはおおっぴらにやりたい放題。後宮なんぞという高等なものではなく、王宮そのものがまるで売春宿じゃ。あれでは、諸外国の嘲笑の的になるだけであろう。現王が王子の乱行を全く諌めぬのにも困ったもんじゃ。それがクレスカ国内のことで治まるのであれば笑い話で済むが……そうは行かぬ。もし兵を出されると、今のルグレスでは堪え切れぬからな。
王はまだ幼く、直接兵を率いることは出来ぬ。前王が暗愚だったために、騎士だけではなく騎兵がおらぬ。起伏の激しいルグレスの地理を活かすための兵備が、全く整っていない。歩兵だけではのう……。諸侯は己の領地を守ろうとするゆえ、隣国と
それでもルグレスが国として生き残ってきたのは、攻め滅ぼすだけの魅力がなかったからじゃ。国土は山がちな上に狭く、寒冷地で生産力に乏しく、独立性の高い辺境ばかりで統治が難しく、賢者も勇者も数えるほどしかおらぬ人材難の搾りかすのような国。紛うことなき末等国で、列強国からすっかり看過されておったからこそ、阿呆のテビエ三世でもなんとか王が勤まっていた。
されど、国を侵すのにいつも妥当な理由があるとは限らぬ。外交面でも華のないルグレスには、
修行中のジョシュアに執政官に就いてもらえればサクソニアとの友誼を頼れるが、今はまだ無理じゃ。自力で事態を打開するしかない。
「ううむ……」
「厄介だろう?」
「そうじゃな。みなの知恵を集めるとするか。それと」
「ああ」
「ちょうど、ソノーらにとって地理のよい勉強になるゆえな」
アラウスカが、苦笑いしながら腰を伸ばした。
「あんたは、困るってことがないみたいだね」
「困っておるよ。じゃが困るというのは、頭がいっぱい働いておるということじゃ。それゆえ、呆けずにここまで永らえておる」
「ひゃっひゃっひゃ! 確かにね」
表情を引き締めたアラウスカが、ぐいっと体を起こした。
「早速やろうか」
「そうじゃな」
◇ ◇ ◇
夕食のあとで広間に全員を集め、卓の上に大きな地図を広げた。みんなの前で、ケッペリアを含むルグレス王国、そして国境を接したいくつかの国を指し示していく。
「よいか? お主らが自国以外は生涯足を踏み入れることなぞないと思っておるなら、それは幻想じゃ。まじめに地理を学んでくれ」
「どしてー?」
マルタがすぐに疑義を呈した。
「そんなん、行き当たりばったりでもなんとかなるじゃん」
「阿呆」
すかさずどやす。
「どこにでも
「あ、そうか」
「マルタのように五感を駆使して危険を避けることは、ソノーやメイ、レクトには出来ぬ。それならば、前もって地理を理解しておくことがとても重要なのじゃ」
「あの……どうしてですか?」
ソノーが地図を覗き込みながら質問した。
「人が変わっても、高い山や広い川、砂漠や沼地の位置はずっと変わらぬ。何度も覚える要がないゆえ、一度覚えておけばいろいろ役に立つからの」
「ふうん」
「行路を決める。気象を読む。災いに備え、情報を得る。全てに地理が絡むゆえな」
幼い子供らにとっては、まだぴんと来ないじゃろうな。それでも、目をきらきらさせながら地図のあちこちを指差し、そこが何かを確かめておる。
「以前、屋敷を訪れた騎士団が属するガレリアはここじゃ」
レクトがぐんと身を乗り出した。
「うわっ。とおいー」
「メルカド山を回り込めば、な。山越し出来ればそれほどでもないが、あそこは常人には越せぬ」
「うん。りゅう、こわいもんね」
「そうじゃ」
今度は、サクソニアを指差す。
「ジョシュアのおったサクソニア公国は、ここじゃな」
「おっきいです」
メイが、目をまん丸にして私の指先を見つめている。
「ボルムは、それよりも大きいじゃろ?」
「はい」
「じゃが、ボルムは大きい割に、使える土地が少ない」
北辺は険しい山岳地。西辺は砂漠。南辺は海に面した岩礁地。
「そうかー。ここのあたりしか使えないんですね?」
ソノーが、ボルムの王宮周辺を指でくるっとなぞった。
「うむ。ソノー、よく分かったの」
「えへへ。ここらへんが畑っぽいなーと思って」
「そうじゃ。ボルムに比べれば、サクソニアには険しい場所が少ないであろう?」
「その分、狙われやすいってことだったのか」
マルタが、納得顔。
「目の前にいつも餌がぶら下がっておるようなものじゃな」
「それで、ボルムが崩れてもサクソニアが逆に攻め込まなかったんだね」
「マルタ。当たりじゃ」
「やりぃ!」
ぴょんぴょん飛び上がって、マルタが喜んでいる。
「あのー、どしてー?」
ソノーがおずおずとマルタの顔を見つめた。
「だって、めんどくさいことして占拠しても、そこってあんま使えないじゃん」
「あっ。そうかー」
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