(2)
「秩序は、
「ははあ。スカラの場所を移したのは、その手始めってことだね」
「そうじゃ。メルカド山に近いところは常に危険が伴う。それを覚った者に
「確かにそうだね」
何度もケッペリアの地図を見回していたアラウスカが、難しい表情のまま顔を上げた。
「うまく行くんかい」
「分からん。いろいろ試してみて、じゃな」
机の上に乗せていたケッペリアの地図を丸めたところで、マルタがひょいと顔を出した。
「おっさん、客だよ」
「は?」
思わずアラウスカと顔を見合わせた。
「なんの気配も感じなかったが」
「あたしもだよ」
「はて?」
◇ ◇ ◇
戸口に立っていたのは、白髪の身なりのいい老人。私は、一目でそいつが誰か分かった。
「おお! ヨーク! ヨークではないか! 達者であったか!」
「はっはっは! ゾディ、久しいのう」
「まあ、入ってくれ」
「邪魔するよ」
広間に案内し、マルタに茶を出してもらう。室内をゆっくり見回していたヨークは、微笑みを崩さぬまましみじみと言った。
「変わらぬのう」
「はっはっは! じじいじゃと、そんなもんじゃ」
「そうだな。で、そちらは?」
「ああ、西の魔女アラウスカじゃ。いろいろと頼み事があるゆえ、ここに住まってもらっておる」
席を立って丁寧に拝礼したアラウスカに、ヨークも席を立ち丁寧に応えた。うむ、優美じゃのう。
「彼女だけではなかろう?」
「相変わらず、よう見えるの」
「それが取り柄だからな」
「はっはっは! 今はスカラに行っておるが、女児二人、男児一人、それに女の赤子が一人」
「おう、それは賑やかでいいの。血筋か?」
「いや、みな
「……そうか。因果なことだな」
「まあ、いろいろあってな。それより、お主どうした? いきなり」
「ははは。儂はそろそろ
「む……」
予感はあったが、その宣告はどうしても聞きたくなかった。私の落胆をさらりとやり過ごしたヨークは、落ち窪んだ眼窩の奥深くに目を埋め、それをさらに細めた。
「さすがに二周り、三周りはようせんよ。一族も増えたゆえ、儂の役回りはこれまでにさせてもらう。それで、旅路の前に挨拶をと思うてな」
「相変わらず、律儀じゃな」
「ははは。世話になったゆえな」
「他には?」
「もう全て回った。お主で終いだ」
それまでずっと微笑を絶やさなかったヨークが、窓外に目を移すなりふっと真顔になった。
「竜のせいで思わぬ長命を得たが、儂のすること、出来ることは他の者と何も変わらぬ。儂は達観したが、みながそうするわけではない」
「うむ。今後も竜のせいで、お主のようにとばっちりを食らうものが現れるかも知れぬ。その
「そう。されど、竜が意図して我らを変えておるわけではない。
「ああ」
ことり。カップをソーサーに戻したヨークが、小さく息を漏らした。
「眷属の誰もが然様に悟ってくれればよいのだが、儂はもう関われぬ。心残りと言えばそれくらいだ」
「そうじゃな。竜に邪心があるでなし。竜は竜じゃ。我らと同じように生をかこつておるに過ぎぬ。誰もが穏やかに過ごせる日々を、あたうる限り永く続けたいがの」
「うむ」
◇ ◇ ◇
マルタを伴い、
永訣。これまで何千、何万とあった
最後の抱擁を交わしていた時にふと思い出したことがあり、ヨークに尋ねた。
「そうじゃ、ヨーク。お主に一つだけ頼みがある」
「なんであろうか?」
「ここで繁く厄介ごとが起こるのは、一つには竜域との境があやふやになっておるせいじゃ。境界に
「おお。
ひゅん!
矢のように中天高くに放たれた尾が無数の炎に分かれ、メルカド山を囲むようにゆっくりと落ちてゆく。
「昼夜を問わず燃ゆる狐火。この世への置き土産だ」
その場で四肢を抱え込むようにしてすうっと丸く
「大変世話になった。これにて」
それだけ……言い残して。
◇ ◇ ◇
「なあ、おっさん。あの狐と仲が良かったのか?」
マルタが、茶器を片付けながら私に尋ねた。
「まあな。竜の瘴気で黒くなり、冬毛を失った狐。妖力を得て長命になったが、他の狐たちからひどく疎まれた。魔術で毛の色を戻してくれと私のところに来ての」
「そっか。その願いを叶えたんだ」
「うむ。一族が増えたと言うておったゆえ、ヨークの願いは叶ったんじゃろう」
「報酬は?」
「さっきのがそうじゃ。この先、どこでお主の世話になるか分からぬ。その時には頼み事を一つだけ聞いてくれぬかとな」
「それで……かあ」
「私に負債を残して逝くのは忍びなかったんじゃろう。ほんに律儀なやつじゃ」
裾野に狐火が灯るようになったメルカド山。その火は安全を祈る明かりではなく、立ち入りを拒む警告の証じゃ。これから先、その警告を是が非でも活かさねばならぬ。
「さて」
「あれ? これから晩飯だよ?」
「済まんな。私は明朝まで部屋にこもる」
「……」
「今宵だけは。独りにしてくれ」
「ああ」
◇ ◇ ◇
「く……う」
涙を流す意味などない。いくら悲しんだとて、逝った者が生まれ変わるわけではないゆえな。
それでも。それでも、涙は流れ出る。何もかも老いさらばえてしまった心からも……な。
「ヨーク。達者でな」
【第二十一話 九尾 了】
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