9

 それは帰り際に起きた。

 お昼ぐらいにとりあえず練習を終えて、片付けて。それから昇降口で「解散! じゃあ明日はクリスんちで!」ってなったときだった。

 昇降口の下駄箱って、クラスごとに場所が分けられてるの。デッカい下駄箱があって、左側から一年一組と二組。その反対側が三組と四組で、次に二年生、三年生ってなってる。つまり、アタシとクリス、それからエレンは同じ列の下駄箱。で、三組の真哉だけが反対側なわけ。

 アタシたちは軽いガールズトークを交えながら、じゃあ帰ろうかって言ってた。そのときだった。

 エレンが下駄箱を開けた瞬間、何かが音を立てて落ちた。それは黒くて、丸くて、すのこの上にぶつかった瞬間に砕け散った。見ると、それはドロの塊だった。

「エレン、どうしたの――」

 アタシは靴を履き替えながら言った。でも、その直後には靴のことなんてどうでもよくなった。

 エレンの下駄箱、ドロだらけだった。そしてドロだらけの靴の横に、黒い肌をした人形が座りこんでいた。まるで疲れ果てて、倒れ込んだみたいに。

「……なに、これ」

 気づくとアタシは、靴も履かずに立ち尽くしていた。心の中には、よくわからないざわめきがあった。わからない……これは、怒り?

「えっと……大丈夫、です」

「大丈夫って、何が大丈夫なの? 何があったの? ドロだらけじゃん。どうしたの?」

「えっと……なぜなら今朝、転びました」

「昨日も今日も雨なんか降ってないのに、どうして転んでドロだらけになるの?」

「なぜならワタシ……水たまり……あって……」

 これ以上言ってると、まるでアタシがエレンをいじめてるみたい。アタシはイヤになって、目を伏せた。気分が悪い。どうしてこんなことになったの?

 すぐに靴を履き替えた真哉が飛んできたけど、アイツも呆然とするきりだった。


 エレンは昇降口前の蛇口で靴を洗ったけど、ドロはそうかんたんには落ちなかった。それに、靴だって濡れてしまった。幸いにも今日は雲一つない青空だったから、よく乾くだろうけど。でも、これ履いて帰ったらぜったい気持ち悪いはずだった。

 アタシはエレンが靴を洗うところを、隣に座りこんで見てた。蛇口の隣には植え込みがあるんだけど、そこに腰掛けて。右手では、下駄箱に入ってた人形をつかんでいた。

 その人形、よく見るとマジックかなんかでわざと焦げ茶色に塗ってるみたいだった。しかもタチの悪いことに、背中のとこに黒いマジックで書いてあるの。『ちびくろサンボ』だって。

 この名前、どっかで聞いたことがあった。たしか、小学校のとき。道徳の授業だ。ほら、道徳の教科書っていろんな話がのってるじゃない。そのうちの一つにあった気がする。たしか人種差別だって、絵本が訴えられたって話だ。先生がいろいろ説明してた。

 アタシ、道徳とか同和教育の時間って大嫌いだった。なんでって? だって、くだらないじゃない。授業のたび、アタシは「わざわざ教えることなのそれ?」って思ってた。いじめとか、差別とか、そういう事実をわざと教えるなんてさ。きっと先生たちは、反面教師で「やらないようにしましょうね!」って言ってるつもりなんだろうけど。でも、アタシは知ってる。授業の翌日には、そういう差別用語って男子たちの流行語になるだけだって。まあ、ほんの二週間ぐらい流行りだけどさ。……あんなの意味ないよ。教える必要ない。くっだらないって、ずっと思ってた。

 それがまさか、中学になってまで起きるとは思ってなかった。

「……エレン、これってさ」

 一足洗い終えたところで、アタシは彼女に言った。

 エレンは黙ってる。黙々と靴を洗ってる。

 みんな黙ってた。しゃべりづらい空気だってのは、アタシでもわかる。だって、あの歩く暴言製造機――真哉のことね――が黙ってんだもん。まるでこのあいだアタシに同情してるときみたい。……ああ、そうか。アイツってば、いまエレンに同情してんのか。

「いいんです……ワタシ、みんなと違う……から」

「いじめでしょ、これ」

 エレンは答えない。

 靴が洗い終わる。彼女は、乾かしもせずに足を入れた。

「……いいんです。ワタシ、クラスには居場所ないです。しかし、ワタシにはみんながいます。ストレイ・キトゥンズの仲間がいます。だから、居場所あります。大丈夫です」

「でも……!」

「大丈夫ですから。……ワタシ、うれしかったです。カスミ、ワタシを必要としてくれました。それだけでうれしかったです。だから、大丈夫です。……空気、悪くしてスミマセンでした。また明日、練習……楽しみです」

「エレン、アンタ!」

 アタシは彼女の手を取って、止めようとした。その先は何も考えてなかったけど、とりあえず彼女を引き止めようとした。かけるべき言葉も、アタシが施すべきことも、何もわからなかったけど。とりあえず彼女に何かしてあげられればって。そう思った。

 でも、エレンはアタシの手をふりほどいた。

 そして、その手を振って、バイバイって……小さく振って、走って帰ってった。

 アタシの足は動かなくて、彼女を見送るしかなかった。


 そのあと、重い空気がアタシたちを支配したのは言うまでもない。クリスは別れるとき、アタシを心配してくれた。

「エレンちゃんも大丈夫って言ってたし……大丈夫だよ、奏純ちゃん……わたしたちなら、大丈夫……」

 その言葉はうれしかったけど、でもアタシ、どうしても変な見方しかできないの。クリス、アンタが心配すべきはアタシじゃないでしょ。エレンでしょ? って。アタシ、彼女を引き留められなかったのにさ。バカみたい。

 それからは、また途中まで真哉と二人きり。

 コイツとはしょっちゅう一緒に帰ってたけど、黙り込んで帰るのは、終業式前のあの日以来だった。ライブができないって、アタシが絶望してた日以来だ。

 あの日、アイツは気を利かせて何も言わなかった。アタシはむしろそれが悔しかった。このバカでも、他人に気をつかうだけのアタマがあるんだって。そう思ったら、無性に悔しくなった。

 今日だってそうだ。

 アタシは怒りだか、悲しみだかわからない感情と格闘してた。なのにコイツは、涼しい顔して黙ってるんだ。いつもならここに口笛が加わる。それでアタシが何の曲か当てて、それはこう弾くのよって、ちょっとエアギターしてみたりする。だけど、今日はそんな暇なかった。

 アタシは自分の感情と戦うので精一杯。アタマは働かなくて、でも動き続けてた足は、いつの間にか交差点までたどり着いていた。

 信号機も何もない、ほっそい路地。生け垣が道からはみ出してる。アタシと真哉は、いつもこの交差点で別れる。

 アタシは足を止めて、黙り込んでいた。熱さやらなにやらで、アタマはオーバーヒートしてた。

 そしたらさ、アイツが言ったんだ。

「南、これから暇か?」って。

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