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最後に乗った飛行機は、アレです。
ロンドン・ヒースロー、成田空港行き。今でも覚えてます。最後に乗った飛行機ですから。
パパがワタシの手を引いて、ママがみんなのチケットを持ってて。日本まで、一日中飛行機のなかでした。エコノミー・クラス・シンドローム、何度も注意された。ワタシはワクワクで、ぜんぜん気にしていなかったんですが。ワタシは機内で、ずっと映画を見ていました。何の映画かは、もう覚えていません。何年も前、小学生の時。
それが、最後に乗った飛行機。
アレに乗った時は、まだ楽しいことが待っていると考えていました。ワタシ。
でも、現実ってそういうものじゃないんですね。
学校。
先生以外、誰とも話さなかった。きっとみんな、ワタシは日本語しゃべれないと思ってる。半分正解。そんなにうまくない。それに、しゃべれるけど、書けない。読めない。だから、授業も一緒じゃない。辞書片手、特別な先生と二人だけ。教室にはほかに誰もいない。
給食の時間になって、教室に戻ってきても同じことです。みんなと、ワタシは違う。だから机は離されて、誰も話してくれません。ワタシは、みんなと違うから……。
家に帰ると、よりそれを実感します。ワタシが今住んでいるのは、祖母の家。パパは、東京へ仕事へ。ママも一緒。パパは、元々ロンドンで楽団員をしていました。いまは日本のオーケストラにいます。ママと結婚して、日本に行くと決めたそうです。でも、ワタシはロンドンにいてほしかったと思います。
祖母の家。玄関には、「田野」という漢字の名前。ふつうの名前。ワタシとは違う……。
ワタシの名前。
ホワイト
ホワイトなんて名前、学校じゅう探してもどこにもいません。田野なら、もう一人ぐらいきっといます。でも、ホワイトはいない。カタカナの名前は、ワタシ一人。ワタシは、みんなとは違う。ホワイトだけど、
玄関を通って、「ただいま」って挨拶をします。祖母はいつも返してくれます。キッチンから出てきて、腰を曲げて、ゆっくり、ゆっくり。
「おかえり、恵憐ちゃん。お夕飯、もうちょっと待っててね」
おばあちゃん。
ワタシのこと、ちゃんと孫だと思ってくれてます。ふつうじゃないのに、ワタシのこと。ワタシ、むしろそれが怖いです。つらいです。
祖母は背中を曲げて、キッチンに戻ります。ワタシはカバンを持って、自分の部屋に行きます。宿題。せめて、それぐらいみんなと同じぐらいできないと。日本語、読めないとふつうじゃないから。ただでさえ、ふつうじゃないんですから。
夕飯は日本食。焼き魚、豚汁、そして白いご飯とお漬け物です。
初めて日本に来たときは、祖母の作った料理は嫌いでした。ロンドンの料理とは、ぜんぜん違うからです。ロンドンの料理――日本の人は、フィッシュ・アンド・チップス、思い浮かべます。たしかに有名。でも、毎日は食べないです。チップス――ジャガイモはよく食べるけど。ジャケット・ポテトとか、シェパーズ・パイとか。ジャガイモと、肉と、グレイヴィーソースと……。そういう食事ばかりだったから。日本の、味噌スープとか。ヘルシーな食事は、はじめ物足りなかった。味気なかった……?
でも、食べようとしないと、祖母は怒るから。だから、食べるようにして。いまも食べています。そういうこと。おばあちゃんのため。
箸の使い方も教えられました。祖母は、そういうことにうるさいから。でも、そのおかげでワタシは、ふつうに近づけた。日本人なら、お箸使って日本食を食べるのがふつうだから。そうじゃないのは、おかしいから……。
テーブルにごはん。テレビは、ニュースを流しています。NHK、このあと健康番組。祖母は毎週それを見ます。元気の秘密だそうです。
「学校はどうだったんだい、恵憐」
祖母はいつもこう聞きます。なにがあっても。健康番組が始まる前に、一度。
ワタシ、はじめ聞かれたとき困った。学校は楽しいですか? ……そう聞かれると、ワタシは何も答えられません。学校、ワタシ、みんなと違う。誰もワタシを受け入れてくれない。ワタシは……日本人じゃないから。
でも、祖母はそんな言葉を期待していません。おばあちゃん、ワタシが学校での話をして笑顔になるのを期待している。だからワタシ、このときだけはウソをつきます。悪いことだって、知ってるけど。
「楽しかった」
「そう。今日は何の授業があったんだい?」
「国語と数学と、あと理科と……体育も」
「そうかい。日本語はだいぶ読めるようになったかい? お友達とは仲良くしてる?」
うなずきます。もちろんウソだけど。
「それはよかった。今日の給食はどうだった? あ、まさかメニューかぶってないよね?」
「大丈夫。今日の給食、パンでした。パンと、トマトのスープと。それから、チキン」
「おいしかったかい?」
「はい」
そう言って、ワタシは笑いました。
でも、給食の味は覚えていません。給食のとき、覚えているのは空白だけ。机と机のあいだの空白。合わせてくれない、深いミゾ。そこには壁があるみたいで、みんなワタシとは話してくれない。机、はなしたまま……。気分が悪いだけで、ご飯の味は気にしていられない。いつもそうです。喉の奥、酸っぱい味がする。それだけです。
いまのご飯もそう。
ワタシは、祖母にウソをつくことばかり考えている。味に注意を払えません。考えごとばかり。ワタシはふつうじゃないから……ふつうにできないから……。
ご飯食べて、お風呂に入って。寝室に戻ったとき、ワタシはいつも写真を見ます。ロンドンにいたころの写真。小学校の友達。ワタシたちが住んでいたのは、イーリング区。日本人が多くて、パパとママもそこで出会ったと言います。
写真。日本に出かける前、アパートの前で撮った写真。パパとママがはじっこに立って。真ん中にワタシ。その左右に友達。
みんながパーティを開いてくれた。お別れのパーティ。嬉しかった。みんな、友達だった。ワタシはふつうじゃないけど、あそこではふつうでした。肌が黒い――パパのおかげ。でも、みんな気にしてなかった。みんなもそうだったから……。
――でも、ここでは違う。
ワタシの手を取るパパ。背の高い、肌の黒い、トランペット吹き。でも、ママと違ってふつうじゃない。ここでは……。
「ワタシは、ふつうじゃないから……ふつうにならなければいけません」
言葉にして、ワタシは写真立てを倒しました。
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