Bullet (9) 君が、君らしく在ること

***


 ――ということがあってから、ふたりの間には数々のローカルルールが誕生することとなった。本格的に運用開始したのは同居を始めたあとからだが、そこに至るまでに紆余曲折あったのは言うまでもない。


 さて、なぜそんなことを今さら思い返しているのかというと、浩が今朝方受け取った封書のせいだった。特に心当たりはなかったのだが、その宛先を見るや否や、浩はすぐに何が送られてきたのかを察した。とりあえずそれはイリヤが起き出してから開けることにし、リビングの小さなカフェテーブルの上にそれを置いておく。


 少しだけ機嫌がよくなったので、ブランチ用にパンケーキを焼こうと浩はキッチンへ向かった。


 普段料理に関することは――自分の料理はお世辞にも上手とは言えないので――イリヤに任せきりなのだが、時々は自分でも頑張ってみようと思うのだ。


 スマートフォンの料理アプリを眺めながらきっちりと分量を量っていると、奥から扉が開く音がして、芸術的なヘアスタイルのイリヤがそのそと起き出してきた。右手で頭をがしがしと掻き乱すと、それでようやくいつもの髪形に戻る。欠伸をかみ殺しながらキッチンまでやってきた彼は、計量中だった浩にとりあえず背後から抱き付いておいた。


「なんだいそれは……?」


 耳元でうわごとのように呟くものだから、浩は思わず鼻で笑ってしまった。


「頼むから服は着てくれる。それと、おはよう。こっち向いて」

「ん、オハヨウ……」


 浩は計量カップをその場に置き、それから首に手を回してキスをひとつ落とす。この手の習慣はいくつかあり、だらだら続けていたところ気づけば七年目を迎えた。「どうしたらいいか教えて」と言ったのは自分だが、これはある意味でイリヤの教育の賜物である。


 あの日から続くゆるやかな監禁生活が最終的にこのような結末を迎えるなど、誰が予想できたろう。

 そんなことを考えていたところ、ぼんやりとした様子でイリヤが呟いた。


「ああ、嫌な夢を見た」

「うん? そう。無事に目が覚めてよかったね」

「怖かった。ヒロが『俺たちの関係は遊びと何が違うの?』って言うやつ。あの日の夢だよ」


 どうやらイリヤにとってあの日のできごとは相当なトラウマとなっているらしかった。年に一度は夢の中であの日の出来事を反芻し、そのたびに一日悲しそうな顔をしている。今日はその日だったか、と浩は言葉にこそしなかったが、内心そうぼやいた。


「ごめんってば。でもこれだけは言わせて。一晩のアバンチュールで済ますこともできたあの状況で、世界規模の有名人が一般人に対し堂々と監禁を言い渡すのははっきり言って莫迦だよ。そういう趣味なのかと思ったよ。違ったけど」


「へえ。君はそういうこと言っちゃうんだ。へえ……」

 不満そうにイリヤはぼやき、それからゆっくりと抱き付いていたその手を離す。「君だって持ち前の女王様気質を全面に押し出したくせに、その口でなにを言うんだか」


 そこまで言うとイリヤは冷蔵庫からミネラル・ウォーターを取り出し、中身をコップに注いで一気飲みした。ふうっと息をついたかと思えば、その姿をじっと見つめていた浩と視線がかち合った。


「……、ごめんなさい」

 刹那、ふたり同時にそう言い放つ。


「この話はもうやめだ。碌なことにならない」

「うん。何か食べる?」

「食べる。……ああ、でも、もう個展の打ち合わせに出ないと。君も出席するだろ」

「もちろん」


 毎年このネタで喧嘩しているので、さすがの彼らも色んな意味で学習していた。


 イリヤがコーヒーを所望したので、コーヒーメーカーに挽いた豆をセットする。そうしている間に一度イリヤが姿を消したので、どうやら着替えるために寝室へ戻ったらしかった。


 喧嘩したら、互いに謝ること。これが意外と難しいルールだったりする。なんだかんだ言って互いに気が強いので、どうしても譲れないことがあるとあらゆる手段を以て蹂躙する癖は抜けないけれど――『イスタニア・コレクション』の件や、イリヤのの件は顕著な例である――、軽度なものはできるだけそうするように努力したつもりだ。


 浩は少し考えて、「ああ」と思う。

 おそらく、これが今まで上手くやっていけた秘訣なのだろう。イリヤが全部教えてくれたことだ。


 彼が自分に与えてくれたものは星の数ほどあるけれど、それらは一言で表現するならば『愛』だ。愛の海に満たされて、溺れて、それなしでは生きられないほどになった。彼の生むその世界に底はあるのだろうか。もっと長く一緒にいることが許されるならばいつかは見られるかもしれないが、それは何年先になるかは誰にも分からない。


 本当に不思議なひとだ。

 ひとりきりの世界から連れ出してくれた、おれの『かみさま』。


 そんなことを考えていたところ、着替えを済ませて戻ってきたイリヤがカフェテーブルの上に置かれた封書の存在に気が付いた。


「ヒロ、どうしたの、これ」

「今朝届いたんだよ。カナダから」


 カナダ? と一瞬目を瞬かせたイリヤだったが、ややあって、その中身に心当たりがあったのだろう。ぱっと表情を明るくして言った。


「開けよう。ヒロ、こっちおいで」

「はいはい」


 くすくす笑いながらふたりはソファに腰掛け、封を切る。開けるよ、とイリヤがそわそわしながら言うので、浩もつられて笑みをこぼす。まるで子供だな、と冷静に呟いてはいるが、自身も心が浮ついているのが分かる。


 さて、中から出てきたのは、茶色っぽい色をした紙である。


 ――Certificate of Marriage.

 そう大きく書かれ、以降は登録した互いの名前が記されている。


 コーヒーメーカーが停止する音を耳にするまで、ふたりはその紙を無言のままじっと眺めてしまった。


「届いてしまったね」

「ああ、これが噂の……」


 結婚証明書、と浩が呆けた様子で呟く。


 そのまま互いに顔を見合わせる。イリヤも珍しく呆けた様子で浩のまなこを見つめ、なんと言葉にしたらよいのか分からないとでも言いたげな表情を浮かべた。


セレモニーを挙げた時も思ったけれど、まさかこれを拝む日が来るなんてね。イリユーシャ、ありがとう。ここ数年で君は一番いい仕事をした」

「そりゃあどうも。四〇回近くプロポーズした甲斐があったよ」


 酔った勢いで言ったものはカウントしないでよ、と呆れた様子で肩を竦めるヒロである。


「ねえ、ヒロ。君はこれでよかったと思う?」

 そのとき、イリヤがぽつりと呟いた。「答えを聞かせてほしい。君は、君が望む姿になれただろうか。俺はね、君はもうじゅうぶん俺が望む姿になったと思うし、これからもっと君を素敵にしなくてはと思っている。今後も俺が望むのは、『君が、君らしく在ること』だ。俺はその手伝いができればいい。そうすることで俺は満たされる。君はどう思う?」


 その問いは、あの日浩が言ったことに対して投げかけられたものだ。


 ――俺は君の望む姿になるよ。何者にもなれる。兄弟でも恋人でも師弟でも。君が名付けた関係になろう。


 あの日この男は、それに対してこう返したのだ。


 ――それじゃあ、俺のパートナーになってよ。仕事でもプライベートでも、共に歩いていける『魂の伴侶』に。そのために俺が求める姿は、『君が、君らしく在ること』だ。


「もちろんだよ」

 浩はそう言うと、今までで一番の笑みを見せた。


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愛の逸脱 依田一馬 @night_flight

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