第九章 Dual(3) 男心を分かってほしい
***
――都内某所・美術館バックヤードにて。
この日イリヤは常設展示品の定期メンテナンスを行う予定でいた。この美術館はイリヤのお得意先で、毎年三月・九月に一週間ほど訪れては必要に応じて修復作業を行っている。基本的に自身の仕事は自分でマネジメントを行うイリヤだが、この案件だけは浩の案件との重複を避けるため、相良に調整を依頼している。
さて、一時間ほどかけて館内を一周したイリヤは、バックヤードに入ったとたん後ろをついて回っていた男に対してこのように言い放った。
「……という感じかな。どうだいアマネ、メモはできたかい」
彼が相良代理・
そのままではイリヤが人相を把握できなかったので、ファインダー越しに確認すべく出会い頭にスマートフォンでツーショットの写真を撮影したのがいけなかったか。以降周は一度たりともイリヤと目を合わせようとせず、びくびくと肩を震わせている。
――自分がよく知る日本人像はおおよそこんな感じだ。ヒロやサガラが特殊なのだ。イリヤはほんの少しショックを受けつつ、胸の内でそう言い聞かせた。
イリヤの問いかけに対し、彼はおずおずとメモ書きを渡してくる。
「これで間違いありませんか」
別に取って食ったりしないのに、とイリヤは思いながら彼からメモを受け取る。
イリヤが彼に頼んだのは、「どの美術品に手を入れるべきか」、その対象と館内配置の洗い出しだ。もちろんイリヤがひとつひとつにざっくりとしたコメントを呟いていたので、それを失念しないよう紙に記録してもらうだけのつもりでいた。
だが、ここでひとつ予想外のことが起きた。
イリヤは彼が作成したメモに目を向けると、はっと目を剥く。
「……、君、もしかして美大出身だったりするのかい」
そしてイリヤはこのように尋ねた。「完璧だ。俺、こんなに細かいこと言わなかったよね」
そこにはイリヤが最低限欲しいと言っていた情報の他に、修復が必要と思われる項目について丁寧なコメントが書き残されていた。確かにイリヤは修復方法について大まかな構想は練っていたけれど、それについては決して口に出さなかったし、万が一口を突いて出たとしてもそれはロシア語になるはずだ。それを周が聞き取れるはずがなかった。
すると、周は「そういう目の動きをしていた」と短く言い、不安そうにイリヤを仰いだ。
なんという観察眼。アマネ、とイリヤが珍しく嬉しそうに声を弾ませた。
「臨時でなく本気で俺のマネージャーにならないか。はっきり言って最高。というか、なんで君のことをサガラもヒロも黙っていたんだ。意地が悪いなぁ」
「そんな、恐れ多い、です……!」
「ええと、あれは日本語で何て言ったかな……。ケンソン? かな。ケンソンはよしてくれ。俺は君のことをものすごく褒めているつもりなんだから」
あまり期待はしていなかったのだが、相良の代理というこの男、実はものすごくできる奴なのではないか。
少なくとも彼の立ち振る舞いはイリヤが求めるマネージャー像とぴったり合致していた。相良と周は本来鑑定士部門のマネージャーなので、技師に就くマネージャーとは求められる技能が違う。しかし、この周は技師が好む細かい資材の知識等も十分に加味したうえでコメントを入れている。今のところこのレベルで会話ができた営業は相良くらいである。
という訳で、今猛烈にこの男を口説きたくなっているイリヤだった。
周はそんなイリヤの反応にぷるぷると肩を震わせつつ、メモ書きを資材発注書に転記している。
彼や相良が胸に刺しているピンは、人相の分からない浩が見分けがつくように用意したものと聞く。なぜ周にウサギのピンを渡したのかとイリヤは不思議に思っていたが、彼の仕草を見てようやく理解できた。この何かに怯えながら仕事をする様はまるでウサギのようだった。
「アマネ。それが終わったら一旦休憩だ。既にバックヤードに持ち込まれた絵を見るから、終わったら呼んで」
「分かりました」
イリヤは周の側を離れ、別室に隔離していた絵画のもとまで足を運ぶ。
随分綺麗な水の絵だった。イリヤはその絵を舐めるように眺め、微かに眉間に皺を寄せた。小さく唸り声を上げると、右手で己の首筋を擦る。指輪の冷たく固い感触が肌に残る。その感触を認識した刹那、イリヤの脳裏にひとり、これと同じものを身に着けた人物が思い浮かんだ。
向こうの邪魔をするのもよくないと思いつつ、だからといってこれを一人で決めたくないという思いもある。悩みに悩んだ結果、
「ちょっと電話してみるか……」
イリヤはポケットに入れていたスマートフォンに手を伸ばした。
すると、ちょうどイリヤの携帯が鳴り始める。見ると、噂の張本人・浩からのコールだった。まるでタイミングを見計らったかのような電話。イリヤは思わず苦笑する。
イリヤは通話開始ボタンを押し、左耳に当てた。
「
『
いいよ、とイリヤは囁くような声色で言う。
「ちょうど俺も電話しようと思っていたところだ。今なにしているの?」
『人様の庭先で朝顔を探している』
「……君は一体なにをしにカマクラまで行ったんだい? 土いじりならうちでやればいいだろ」
耐えきれず思わず突っ込みを入れてしまうイリヤである。「で? どうしたの」
『少し思い出してほしいんだけど』
電話の向こうでヒロが淡々とした声色で続ける。『俺たち、今年に入ってから宝石に関する案件っていくつ回したかな』
ぴたりと、イリヤの身体の動きが止まる。彼の質問の意図が分からなかったためだ。イリヤは暫しの逡巡ののち、
「……そうだな。『胡蝶の夢』を含めていいなら、二つかな」
『紛失が一件、質流れが一件――いや、もっとあるけど、カテゴリ的に一件。認識に相違ないか』
「うん、合っているよ。最近多いよね。宝飾関連の案件なんてここ数年やっていなかったのに。君だって、貴金属の鑑定は苦手だろう」
そうか、そうだよなぁ……と浩がぼやくものだから、イリヤは思わず怪訝な顔をした。この反応はなんだか妙だ。
まさかと思うが。イリヤは声色を低くして尋ねる。
「なんだい、また宝石がらみの案件なのかい?」
『多分。今度は盗難だ』
「
『緑のガラスの箱に入ったエメラルドが五つ』
「またエメラルドかい……? 多いね、本当に」
覚えておくよ、とイリヤは言った。
「俺からもいいかい。ちょっと画材の相談なんだけど」
イリヤが絵画のタイトルを伝えると、浩はすぐに「それならうちに在庫がある」と妙にあっさりとした答えを出した。
『分かっていると思うけれど、湿度だけは気を付けて。あの顔料、確か他の顔料より乾燥しやすかったはず。君も時々失敗していたろう』
「うん、ありがとう。助かる」
イリヤはそう言うと、頬を微かに緩ませる。さすが、己のパートナーはイリヤ・チャイカの思考をよく分かっている。保険として扱うには些か贅沢すぎる気もするが、時々自分の考えが正しいのか不安に思うことがあるのだ。それを補ってくれる人物が傍にいてくれるだけで安心する。こういうときほど浩の存在をありがたいと思うことはない。
そこまで考えたところで、なんだか急に本人に会いたくなった。
イリヤはぼそぼそと甘えた口調で尋ねる。
「ねえ、今日はやっぱり帰れそうにない?」
『ごめん』
その問いに、ヒロは声色を落とした。『危ないことはしないから』
「頑張れ。ねぇ、キスしていい?」
『仕事しろ』
ヒロは冷たい一言を呟き、ぶつっと音を立てて終話した。あまりの出来事にさすがのイリヤは呆気にとられ、口を開け広げたままその場に硬直してしまった。
通話時間が表示されるスマートフォンの画面に目線を落としつつ、イリヤはぽつりと呟く。
「だから君はおばかちんから卒業できないんだよ……」
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