第三章 Trigger(6) 芸術との対峙
さて、とイリヤは彼らに背を向け、奥の部屋の戸を開ける。
――部屋というより、小屋である。
イリヤの得意分野は絵画修復だが、それ以外にもあらゆる素材を用いた芸術品の複製を依頼されることが多い。そのため、アトリエ内に専用の加工場を設けている。
イリヤ自身はここしばらく使ってはいなかったが、彼が不在の間は別の金属加工技師に場所を貸しているため、機材は十分きれいに整えられていた。
イリヤは壁にかけていた目を保護するためのゴーグルを男へ渡すと、自分も同じものを首から下げる。
そして昼間に『例の彼』から渡された鍵のメモに目を通した。
形状からしてスケルトンキーだろうか。チェスト側の鍵穴そのものをまじまじと見てはいないが、おそらくウォード錠が付いているのだろう。一応『金庫』だというのにわざわざセキュリティ能力が低い鍵が付いているということを踏まえると、この金庫はウォード錠の全盛期・一八〇〇年代ごろに作成されたものの可能性が高い。
しかし、だ。
ふむ、とイリヤは胸の内に溜まりゆく違和感についてじっくりと思案する。様々な可能性を考慮し、最終的に、
「まあ、いいか」
一旦考えるのをやめることにした。今自分が鑑定の真似事をする理由などない。本当に鑑定する必要があるのなら、それは本職に任せたほうがずっといい。
メモには鍵の形状や合い形についての記述はあるが、素材についての指定は特になかった。
「じゃあ、真鍮でいいか」
そう呟きながらイリヤは真鍮の板を取り出した。そしてこうも思う。
「だから、俺より先に鍵師を呼んだ方がよかったんじゃないの……」
板の状態に不備がないかを確認するためにあらゆる角度からチェックを入れている。しばらく放置していた割には悪くない。これを使おう、とイリヤは板を作業台に置いた。
その時だった。
閉じていたはずの部屋の戸が開き、ひとりの男が姿を現した。
――『例の彼』、もとい、ヒロ・ショーライだった。
彼は随分急いできたのだろう。今までのクールな印象からは想像もつかないほど激しく呼吸を乱しており、きれいに上げていた前髪も崩れてしまっている。彼は黒づくめの男、それから作業に取り掛かろうとするイリヤへと目を向け、喘鳴混じりに呪いの言葉を吐き出した。
「他人を巻き込むものじゃないよ」
ヒロは吐き捨てるように言うと、右手で己の襟ぐりをくつろげた。右手の甲にできたばかりの青あざが見える。
「君もね、わざわざこいつらの言うことを聞く必要などないだろ」
「……あのね」
それを耳にしたイリヤはのろのろと口を開いた。「俺は変なことに巻き込まれて確かに迷惑はしているんだけれど、ちょっと楽しくなってきたから黙っていてくれる」
「は?」
そう言い放ったイリヤはじっと先ほどの真鍮の板を見つめており、決してヒロの姿を見ようとはしなかった。――否、既にその場にいないものとみなしていた。
彼はただ、眼前で生まれようとする芸術のみと対峙する。
それが彼の『神様』たる所以。
青みがかった灰色の瞳が、真鍮の光を捉えていた。
――刹那、『神様』が現れた。
イリヤは一言も口を開かず、ただ黙々と作業を進める。通常の鍵は原型を元に型抜きをするものだが、スケルトンキーの場合はそうもいかない。まして今回は原型が存在しないのだ。彼はメモに書かれたことを頭の中で何度も反芻し、分解し、再構築する。真鍮の板が手際よく指定された寸法通りに切断され、削られてゆく。
そしてイリヤが工具を机に置くまで、ヒロはその姿をじっと見つめていた。表情は、ない。しかしながら、イリヤのその姿に何かを見出しているような、そんな気にさせられる眼差しを向けていた。
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