第91話 人喰い餓狼を追え 1
アルバートの書斎から出たクロードは屋敷を出る前に少しリビングの方を覗いてみる。
そこには既に義兄や義妹達の姿はなく義母のレイナーレだけが水色の毛糸と2本の棒を手に編み物をしていた。
仕事が溜まっているので早く帰りたいがこのまま挨拶せずに立ち去るのもなんだか気が引けたので少しだけリビングに立ち寄る。
クロードの入室に気づいたレイナーレが顔を上げる。
「あら?クロード。あの人との話は終わったの」
「ええ、そうですね」
「そう。カロッソとレイナなら少し前に会社に。メリッサは貴方が帰るまで待つと言ってファルムとミーシャを困らせてたわ」
「それは・・・2人に悪い事をしましたね」
レイナーレから話を聞いて義妹の専属護衛をしている猫人族の少年と少女に申し訳ない事をしたと心から思う。
「そう思うならたまにはメリッサの相手を代わってあげたら?」
「今は難しいですね。丸一日予定が空いている事自体が最近ありませんから」
「そうなの?それなら今度2人に何か美味しい物でもご馳走でもしてあげなさい」
「そうします」
そう言ってクロードはレイナーレに軽く頭を下げる。
「それでは俺も行きます」
「もう行くの?」
「はい。留守にしている間に仕事が溜まってますから」
「そう。それじゃあ仕方ないわね」
少しだけ残念そうな顔をしたレイナーレだったが、すぐにいつもの様に笑顔をつくってクロードを見る。
「それじゃあクロード。気を付けていってらっしゃい」
「はい。いってきます」
レイナーレの見送りの言葉にクロードはもう一度頭を下げて屋敷を出る。
屋敷の敷地外に出てすぐ影の中に潜んでいたアジールが顔を出す。
「で、この後どうするんだいクロード?」
「どうするとは?」
「さっきアルバートが言ってた話。"人喰い餓狼"の事だよ。手掛かりが全くないって話だったじゃないか」
「ああ、その事か」
クロードは改めてアルバートから聞かされた話を思い出す。
以前から噂には聞いて知ってはいた。
獲物を猛獣の様に喰い殺す悪党殺しの殺人者、通称"人喰い餓狼"。
巷では食人の性質を持つ亜人種であろうという説が有力視されているが、実際の所はどうなのかはまったくもって不明。
それだけでなく大胆な手口の割に目撃情報は驚く程に少なく。
一部ではグループかあるいは大規模な組織という説もあり、そもそも本当にそんな人物が実在するかどうかさえ疑われている程だが、もし実在するならその実力は間違いなく本物だろう。
何故なら今まで人喰い餓狼の標的となったのは暗黒街でも特別危険視されていた犯罪者達であり、彼らを悉く葬った手腕を考えれば当然の帰結だ。
「今までこれといった目撃情報もないんだろう?お手上げじゃないか」
「そうだな」
アジールはその気になればこの街に住む人間はおろか蟻の一匹に至るまで補足する事が可能だが、一度会った事がある相手で無ければ対象を特定できない。
(さて、どうしたものかな)
歩きながら顎に手をやり考え込むクロード。
正直、見つけてしまいさえすればそれがどれ程強かろうが打つ手はある。
問題はどうやって見つけるかだが、今のままではあまりに手掛かりが不足している。
しかもこうしている間にも空いては次の標的を定めているかもしれず。
いつ次の犠牲者が出るか分からず猶予がない状況。
だというのにクロードの心は普段と変わらず。いや、いつも以上に落ち着いていた。
「まあ焦っても仕方がない。一度事務所に戻って考えるとしよう」
「なんだいクロード。今回はいやに余裕があるじゃないか」
「そう見えるか?」
「うん。まるで何か策でもあるって顔してる」
「別に何もない。ただ一つ確信している事はある」
「確信している事?」
「ああ」
アジールの問い掛けにクロードはシガーケースを取り出しながら自身の持つ確信について答える。
「恐らくこちらから探しに行かなくても奴は俺の前に現れるだろうという事だ」
「どういう事だい?」
「簡単な事だ。"人喰い餓狼"の標的はどういう訳か悪党ばかりで一般人に手を出したという話は出ていない。しかも狙うのは裏社会で名の知れた実力者ばかりだ。そんな相手にとって"第七区画の鴉"というのは名の悪人はどう映る?」
「・・・なるほどね。僕たち自身が彼にとって格好の獲物っていう事か」
「そういう事だ」
シガーケースから取り出したタバコを咥えるクロードの耳元で、説明に納得したアジールは声を上げてケラケラと笑う。
相手がどういう理由で強い悪党を狙うのかは分からない。
それでも何かしら思惑があってそうしているはず、ならばそれを利用しない手はない。
きっと強者を狙う相手にとって第七区画最強の悪党はこれ以上ない標的となる。
「相手の矜持を逆手にとって自分自身を餌にするか。大した悪党だよ君は」
「そうでもない」
「でもさ。それで本当に喰いつくかな?だって人喰い餓狼は"第九区画の毒蛇"には結局手を出さずにこっちに来たんだろ?」
「ああ、だがそれは仕方ない。"第九区画の毒蛇"ダニード・セルベンテスは元はどこかの国の諜報員らしくてな。自分の所在を隠匿する術に長けていて居場所を特定するのが非常に困難な相手らしいからな」
「なるほどね。探そうとしたけど結局見つけられなかったのか」
「恐らくだがな」
そう言って口に咥えたタバコの先端に火を点けるとクロードは煙を軽く吸い込む。
「ともあれ奴が急に心変わりしないとも限らんからな。もしもの事を考えて何とか見つけ出す手立ては考えておかないとな」
「じゃあ急いで帰らないとね。仕事も溜まってる事だし」
「そうだな」
煙を吐き出しながらアジールに応えたクロードは足早に事務所へと向かう。
それからしばらくして事務所に戻ったクロードを見知った顔が出迎える。
「お~う!クロード帰ったか」
「おはようございますクロードの兄貴」
「おはざーっす!」
事務所の中には珍しくデスクワークをしているラドルとオックスに電話番をしているトムソンの姿。
そこに混じって約一名、今日ここに居るはずのない人物がクロードを出迎えた。
「ヤッホー、クロードくん。お邪魔してるよ~」
声のした方を見ると事務所のソファの上で寝転がったままクロードが朝事務所に残していった土産の焼き菓子を頬張るラビがいた。
「どうしたんだラビ。今日は特に会う約束はしてなかったはずだが?」
「ん~?ちょっとね~」
そう言ってラビはソファの上で体を起こしたラビは食べていた焼き菓子を口の中に全て放り込むとテーブルの上の土産の箱を指差す。
「これってクロードくんが買ってきた第八区画のお土産だよね?」
「ああ、駅で適当に買ったやつだがそれがどうかしたか?」
「イマイチだよ」
「そうか。それは悪かったな」
会って早々に土産にクレームを入れるラビにクロードは思わず苦笑を浮かべる。
もっとも、その土産がいまいちである事は昨日の晩にグロリアとシャティから散々言われたので既に把握している。
そんなクロードとラビのやりとりを横目で見ていたラドルが顔を上げる。
「なんだよラビ。お前は勝手に食った土産の文句を言う為にわざわざ来たのか?」
「そんな訳ないでしょ。馬鹿なのラドル君」
「だ~れが馬鹿だよ。なあオックス」
「いいから仕事してくださいラドル常務」
「ぐっ、いいじゃないか少しぐらい」
「駄目です。片付けないといけない書類はまだ山のようにあるんですから」
容赦のないオックスからのツッコミにラドルはブツブツ文句を言いながら目の前に詰まれている書類の整理に戻る。
相変わらず書類仕事が苦手らしいラドルに呆れつつクロードはコートを脱ぎながらハンガーラックの方に移動する。
「で、ラビの本当の用件っていうのは何なんだ?」
「ん?いや~。クロードくんにお詫びが言いたくてさ」
「詫び?」
思いがけぬ言葉に首を傾げながら振り返ると、珍しくラビが落ち込んだ表情をしていた。
どうやら冗談の類などではないようだが、果たして詫びを言われる様な事があっただろうかと考え込むクロードにラビは自ら語りだす。
「今回僕がクロード君に伝えた情報。十分じゃなかったみたいだからさ」
「そうだったか?」
「そうだよ。サベリアスとガルネーザとの関係とか、リットンの背後関係とか色々情報が足りてなかったじゃないか」
確かにラビが今言った内容は彼女に依頼した調査報告の中には含まれていなかった。
不十分と言えば不十分だったかもしれないが、それは逆に向こうがその部分の情報をうまく隠匿していただけの事であり、別に責める様な事ではない。
「別に構わない。元よりこちらは危険な仕事を頼んでいるのだからな。むしろお前が深入りしすぎてお前の身に万が一があっては困る」
「そういうクロード君の気遣いは嬉しいよ。でも、僕だってプロだ。こんな中途半端な仕事でお金はもらえないよ」
「そうか。ならどうするんだ?」
クロードのその言葉にラビは待っていたと言わんばかりに顔を上げる。
「情報屋としての仕事の失敗は仕事で晴らすよ。幸い今の君はきっと僕の情報が必要なはずだしさ」
「ほう、どういう事だ?」
「探すんでしょ?"人喰い餓狼"」
『っ!?』
ラビが口にした名前に話を聞いていたラドル達が驚いて顔を上げる。
「おいおい今なんて言ったよ」
「ラビさん今"人喰い餓狼"って言いましせんでした?」
「それは・・・穏やかな話じゃないですね」
流石に裏社会で生きる者だけあって皆噂ぐらいは聞いた事があるらしい。
動揺する周囲を余所にクロードの方はフッと軽く笑みを浮かべる。
「まったく。お前というヤツは一体どこで聞きつけて来るんだか」
「流石はラビちゃんって言ってよ」
「言う訳ないだろう。下手したら本当に死ぬぞお前」
「大丈~夫。その時はきっとクロード君たちが助けてくれるし」
「なら俺はお前を捕まえる側に回らない事を祈るばかりだ」
そう言うとクロードは事務所奥の会議室の扉を指差す。
「ともあれこのままここで話をするのはマズイ。詳しくは奥で話そう」
「りょうか~い」
そう言って屈託なく笑ったラビはソファから立ち上がると、先程イマイチと称したテーブルの上の菓子をいくつか手に取ると奥の部屋に向かって歩き出す。
いつもの調子に戻った彼女にヤレヤレと肩を竦めるクロードはラドル達に向かって声を掛ける。
「そういう訳だ。しばらく奥の部屋を使う」
「分かりましたクロードの兄貴」
「あと、すまないが今ラビが言った事は忘れてくれ」
「そっちも了解だ。その代り片が付いたら詳しい話を聞かせろよクロード」
「ああ」
ラドル達に礼を述べた後、奥の会議室へと向かうクロードは思ったより早く今回の件が動く事になりそうだという予感を感じていた。
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