第113話 忍び寄る波乱

「マ、マーヴェラ……?」

 予想にもしていなかった事に、リリアナの頭は混乱していた。

 あんなにも警戒されていたと言うのに、いきなり抱きつかれるとは考えもしなかったのだから無理もない。一体どうしてこうなったのか分からないなりにも、もしかするとあの時一度だけつけてもらった香料が、一役買っているかもしれないと考えをめぐらせた。しかし、香料が一役買っているにしても、あれから数日は経っているのだが……。

 どうしていいか分からずにいると、ふと、抱きついたままのマーヴェラの口から片言の言葉が出た。

「ムー、すき……。ムー、あいたい……」

「……え?」

 リリアナは再び驚いた。何も語らず唸って威嚇だけしか出来ないと思っていたマーヴェラが、片言なりにも人の言葉を話すとは思っても見なかったのだ。

 ポツポツと語るマーヴェラに、驚きのあまり呆然としていると、彼女はひょいと顔を上げてこちらをまっすぐに覗き込んだ。

 その瞳は曇りがなく、ガラス球のように綺麗な緋色をしている。まるで、夕日がマーヴェラの目に入ってしまったかのような、そんな錯覚さえ覚えた。

「ムー、すき」

 再び同じ言葉を呟くマーヴェラに、リリアナは小首をかしげた。するとマーヴェラもまた同じように小さく小首を傾げ、もう一度同じ言葉を呟く。

「ムー、すき」

 一瞬何を言わんとしているのか分からなかったが、同じ言葉を繰り返しながら首を傾げるマーヴェラの姿に、リリアナはようやく彼女の伝えたい事が分かり、頷き返した。

「……うん。好き。大好きだよ」

 本人を前にもう一度言いたい言葉を、幼いマーヴェラに向かって伝えるのは少しばかり恥ずかしかった。そして好きだと言った瞬間に、心にジワジワと広がる暖かさとくすぐったさに、リリアナは目を閉じた。

 彼の気持ちを疑ってしまい怒らせてしまった事に対する辛さと、自分の彼に対する想いがどれだけ強く、自信を持ってそれを言えるのかと言う勇気が胸を熱くする。

 今なら自信を持って、彼を好きだと言える。それは何事にも揺るがない確かな自信だ。

 閉じていた瞳をゆっくりと開き、純粋な眼差しでこちらを見つめてくるマーヴェラを見つめ返す。

「ムー、あいたい」

「うん、会いたい。今すぐ会いたい」

 好き。会いたい。そう呟くたびに、心の中がじんわりと暖かくなっていく。そして同時にポロッとまた涙が零れ出た。

 寂しいからじゃなく、苦しいからでもない。これはただ、彼への気持ちが溢れ出て感極まった涙だった。

 零れた涙を見たマーヴェラは、ぐっと伸び上がるとリリアナの頬を伝い落ちた涙をペロリと舐め取った。

「わ……! ちょ、マーヴェラ、やめて、くすぐったいからっ!」

 彼女なりに慰めようとしているのかもしれないが、涙が流れると犬がそうするように舐め取ろうとするマーヴェラにリリアナは困惑してしまう。

 伸び上がって全体重を上半身にかけられると、体を支えきれなくなって後ろに倒れこみそうになる。するとそこへ、見回りに出ていたクルーが現れた。

「リーナ……?」

「え?」

 突然声をかけられた事に驚いて僅かに顔を強張らせながら背後を振り返ると、クルーもまた驚いたように目を見開いてこちらを見つめていた。

 マーヴェラはさっと身を翻し、リリアナの後ろに隠れてしまう。

「こんな時間にこんな所で何をしてるんですか?」

「え……あ、えっと……」

「ここ、レルム様の部屋ですよね? 何か御用でも?」

「あ、うん……そう、かな」

 問い詰められて、咄嗟に上手い言葉が思いつかない。予想外の展開に視線をさ迷わせ、動揺してしまう。そんなリリアナに、クルーは怪訝な表情を浮かべた。

「用事があるのなら、呼んでもらえれば伺いますよ?」

「う、うん。そうだよね。ごめんなさい。もう部屋に帰るね」

 居た堪れなくなったリリアナは、その場に立ち上がるとマーヴェラを部屋に戻るよう促してパタパタとその場から駆け出し、部屋へ戻っていく。

 クルーはそんな彼女の後姿を僅かに強張らせたまま見つめていた。

 そんな彼を振り返る事もなく、レルムの部屋から走って自室へと戻ってきたリリアナは、後ろ手にドアを閉めて長いため息を吐く。

 まさかクルーに見つかるとは思いもしなかった。こんな時間にたった一人でレルムの部屋の前にいたのは、さすがに不自然に思われてしまっただろう。

 ズルズルとその場にしゃがみ込み、走ってきたせいで起きている動悸なのか不安に脈打っているのか分からない胸元を手で押さえた。

「どうしよう……。何かマズイ事になりそうな気がする……」

 体の良い言い訳も思いつかず、逃げるようにあの場から駆け出してしまった。その行動が失敗だったかもしれない。完全に怪しまれた事だろう。だからと言ってその場に留まって質問攻めにあっても、きっと上手い言い訳はできなかった。

 クルーに見つかってしまったという事は、彼が黙っていない限りこの事は父の耳に入る事になるだろう。

 迂闊だった。あの時はマーヴェラに気を取られて、完全に周りへの警戒心が無くなっていたのだから……。

 そう考えると突然落ち着かなくなる。あまり考えず、自分の思いだけで突っ走ってしまった事に後悔が過ぎる。

 一つ解決しそうだと思ったらまた次の失態。しかもこれは一番恐れていた失態だ。これから先どんな事が起きるのかそれこそ分からない。何もかも、タイミングが悪かった。

 レルムに相談した方がいいのだろうか? 自分たちの事に関して理解者である母もドリーも、話を聞いてもらうのには難しいものがある。

「次から次へと……何でこんな事になっちゃうのかな……」

 深々とため息を吐きながら、リリアナは再び落胆した。しかし、もうこうなってしまった以上なるようにしかならないのだ。もしかしたらクルーはこの事を報告しない可能性もないわけじゃない。

 自分を慰めるかのようにそう言い聞かせ、リリアナはきゅっと口を引き結んだ。

「どうか、これ以上大変な事になりませんように……」

 ただそれに賭けるしかない。

 リリアナはその思いで目を閉じ、神にそれを祈った。



 結局レルムと接触する事ができないまま夜を明かしたリリアナは、少し気後れしながら召使と一緒に食堂へ足を運ぶ。食堂にはいつものようにポルカとガーランドが先に席について、色々と話をしている様子が見られた。

 不安に落ち着きないリリアナがそろそろと席に近づくと、二人はこちらを振り返りいつもと変わらない笑みを浮かべた。

「おはよう、リリアナ」

「お、おはようございます……。お父様……」

 普段通りの父の様子に、リリアナは複雑な表情をしながらたどたどしく答える。

「もう大丈夫なの? 昨日はとても落ち込んでいたようだったけれど……」

「は、はい。何とか……。ご心配おかけしました……」

 ポルカのこちらを気にして声をかけてくれる言葉には、母ならではの本心である事が分かっている故にいくらかホッとできた。

 リリアナは父の様子を気にしながらそろそろと席に着くと、いつも通りの食事が始まる。

 食事中もチラチラとガーランドの様子を見る限り、昨日の事は伝わっていないようでリリアナは少し安堵した。もしも何か報告が行っていたとしたら、今頃きついお咎めや質問攻めにあっていたことだろう。

 内心、深いため息を吐きながらリリアナは黙々と食事を摂りはじめる。他愛ない会話をしながら進む食卓には、微笑ましい家族の風景がある。そしてそろそろ食べ終わる頃になり、ふと、ガーランドが口を開いた。

「ところで、一つお前に言っておくことがあるんだが……」

「……っ」

 最後の一口を口に運ぼうとした瞬間にガーランドからの、その意味深な一言にギクリとしてしまう。

 すっかり安心してしまっていただけに、動揺が隠しきれない。

 綺麗に口元を拭ったガーランドはまっすぐにリリアナに向き直り、リリアナもまた緊張感に手が止まり怯えたように父を見つめ返すと、彼は真剣な表情で言葉を続けた。

「お前には、そろそろ結婚をしてもらおうと思う」

「え……」

 我が耳を疑うようなその発言に、リリアナは思わず目を瞬き呆然としてしまう。よく見れば、隣にいたポルカもまるで初めて聞いたかのようにガーランドを見つめている。

「ガーランド……そんな突然……」

 思わずそう呟いたポルカの言葉に、ガーランドは彼女を見やりながら不思議そうな表情を見せた。

「突然と言う程でもない。リリアナももう18になったのだろう? 年齢的にも結婚をして良い頃だ。わが国の跡取りはお前しかいないから、どこかから婿養子を取る必要があるが……何。心配せずともお前ならいくらでも貰い手はあるはずだ」

 淡々と語る父の言葉が遠くに聞こえる。まだ、自分にとっての問題が片付く前にそんな話を持ってこられてもどうして良いのか分からない。

 言葉もなく固まってしまったリリアナをよそに、ガーランドは言葉を続けた。

「それから、今日からお前には花嫁修業をしてもらう。すでに幾つか来ている求婚者との面会もしてもらうぞ。この国と、何より自分に相応しい夫を見つけなさい」

 ふっと目を細めて優しげに微笑む父の姿が、愕然とするリリアナの脳裏にこびりついて離れなくなった。

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