第91話 王の帰還

「よし、これでもうバッチリ」

 リリアナはパタンと分厚い医学書を閉じ、これまでマルリースで指導を受けてきた医学と介護の実地とそれに伴う沢山のメモを前にふっと息を吐いた。

 あれから数週間が経ち、今日はガーランドが数年ぶりにデルフォスへ帰還する事になっていた。

 椅子から立ち上がり何気なく窓辺に歩み寄って外に目を向けると、サワサワと赤く色づき始めた木の葉が風に揺れているのが見えた。

 ここへ来てから間も無くリリアナは二年目の秋を迎える。王であり父であるガーランド不在のここでの生活にすっかり馴染んでいるが、今日からはまた違う日常になるのかもしれない。

 よくよく考えれば、最低限のマナーや勉学、気品は教えて貰っているものの、王女と言う身分だけで見れば自分の今の状況は自由な方だと思えなくもない。

「そんなに沢山の王族と面識があるわけじゃないけど、それでもプリシラ王女の事を考えたらあたしはまだまだ恵まれてる方なんだろうな……」

 プリシラ王女との会合の場はこちらがバタバタしている事もあり、まだ設けられていない。あの時は色々と不安定だった事もあって最悪だったが、今ならもっと落ち着いて向き合えるのではないか。そんな自信が自分の中にはあった。

「でも今は、それどころじゃないもんね」

 リリアナはぐっと手を握り締めて気合を入れた。そしてくるりと窓に背を向けるとパタパタと足早に部屋を出る。

 ガーランドが戻ってくるのをポルカと2人で出迎える為に母の部屋へと向かう途中で、丁度戻ってくるレルムと出くわした。

「レルムさん」

「おはようございます。リリアナ様」

 ふっと目を細めて微笑むレルムの顔を見つめると、ふと、いつもと違う彼の様子に気が付いた。どこが違うと言われると説明しがたい物があるのだが、それでも今日の彼の笑みはいつもよりも柔和で、何か良い事があったのだと感じさせる物があった。

 不思議そうに目を瞬き小首を傾げながら見つめると、レルムも不思議そうに見つめ返してくる。

「……どうかなさいましたか?」

「レルムさん。もしかして、何か良い事でもありました?」

 リリアナの問いかけに、レルムは驚いたように目を見開くとすぐにクスリと小さく微笑んで頷き返した。

「えぇ。ありましたよ。父の病状がほぼ回復したのです」

「ほ、本当ですか?! レルムさんのお父さんて、王様と同じクロッカ病にかかっていたんですよね?」

「はい。数週間前に臨床データの収集の協力をすると言う事で、ルシハルンブルクから送られてきた薬をポルカ様からお預かりし、それを父に送ったのです。ガーランド様よりも病状の軽かった父の病は、短い期間でほぼ改善されたようです」

「凄い! 短時間でそんな良いデータが取れたなら、きっとクロッカ病に悩まされている世界中の人に渡るのもすぐかもしれなませんね!」

 レルムの報告を受けて、リリアナは心底嬉しそうに微笑んだ。

 たった一人のしがない医師の手によって作られた薬が、奇跡的にもこんなに素晴らしい成果を見せている事が素直に嬉しくて仕方がない。

 これで“不治の病”と言う枠から抜け出し、クロッカ病は治る病になると言えるのだ。

 リリアナは心から、ゲーリの事を誇りに思えた。そして彼が自分のもう一つの家族であると言う事も。

「今日は私の両親も、ガーランド様の復帰に立ち会う事になりました」

「そうなんですか? わぁ、あたし、レルムさんのご両親に会うの、初めてです」

 そう言ったリリアナに、レルムはふっと笑うと目を細める。

「……緊張、しますか?」

「え? 緊張……?」

 緊張しているか。そう問われたリリアナは意味が分からずキョトンと目を瞬いた。が、次第にその言葉を理解すると同時に足元からカーッと熱が登ってくる。

「そ、そ、そ、そんな事言うから変に意識しちゃうんじゃないですかっ!」

 真っ赤になりながらプッと顔を膨らませると、レルムはクスクスと笑っていた。

 完全に茶化されている。これは言いようのない彼の悪戯めいた意地悪だ。

 理不尽だと言わんばかりに顔を顰めてそっぽを向いたリリアナに、レルムは笑いながらも小さく謝罪する。

「申し訳ございません」

「もう、ほんと、レルムさん意地悪ですっ」

「……それにしても、よく私の事がお分かりになりましたね?」

「!」

 レルムの言葉に、リリアナはそっぽを向いていた顔を更に赤らめた。

 お互い気持ちが通じ合っているこの状況で、今更「勘」だと言う良いわけが通用などするはずもない。もしもそんな事を言ったなら、また更なる彼の悪戯心を擽ってしまうだろう。

 リリアナは彼と目を合わせる事無く、むくれた表情のまま視線を泳がせる。

「そ、そりゃ……だって……、あなたの事、いつも見てる……から、で……」

 たどたどしく、しかし素直にそう答えると、レルムは少しばかり面食らったような顔をした。そしてその直後、レルムもまた少し気まずそうに視線を逸らす。

 不思議に思ってそちらを振り返ると、レルムは僅かに頬を染めているのが見えた。

「そう、ですか……」

「……」

 思いがけずそんな反応をするレルムを見て、リリアナは少しだけ驚いた。彼が自分の前で照れている姿を見たことなど、今まで一度も無かったからだ。

 レルムのその姿を見ると、リリアナは少しだけ意地悪したくなる気持ちが今になってようやく理解できた。きっと彼も、今の自分と同じような気持ちになっていたのだろう。

「何か……今、分かっちゃいました」

「?」

「レルムさんが、どうして時々意地悪になるのか」

 ニッコリと微笑んだリリアナに、レルムは目を瞬くもすぐに困った微笑みを返す。

「あぁ、分かってしまったんですね……。残念です」

「残念なんかじゃないです。分かった以上、あたしもチャンスがあったら意地悪し返しますから」

「……そう簡単には、させませんよ?」

 レルムはにっこりと笑みを浮かべると一歩リリアナに近づき、彼女の額に掠める程度のキスをして離れていく。その途端、パッと額を押さえながら思い出したかのように真っ赤に染め上がるリリアナを見て、レルムはクスクスと笑った。

「~~~~~~~~~~っ!」

 一枚も二枚も上手なレルムを相手に、仕返しする時がやってくるのだろうか?

 リリアナは言葉を返す事ができず、額に手を当てたままパクパクと口を動かすばかりだった。

「では、リリアナ様。ガーランド様ご帰還の式典準備がありますので、私はこれで失礼致します」

 レルムはにっこりと笑みを浮かべたまま恭しく頭を下げると、その場を後にしてしまう。そんな彼の後姿を見送りながら、リリアナは悔しげに頬を膨らませ口を尖らせた。

 しかし、こっそりとながら今のこんなやりとりも、もう出来なくなってしまうのかと思うと急に寂しさがこみ上げてくる。

 彼の立ち去った方向を見つめながら、リリアナは小さく溜息を吐いた。

「……こうなるって分かってた事だもん。今更怖気づいたりしない」

 リリアナは誰に言うでもなくそう呟き、そしてゆっくりとポルカの部屋を目指して歩き始めた。



 王の帰還の式典は、市民たちを見渡せるバルコニーが備わった大広間で行われる事になっていた。普段から荘厳で綺麗にしていると言うのに、今日はこれまで以上に花やリボン、デルフォスの国旗などが随所に飾られており、国を挙げてのお祝いムード一色になっていた。

 会場の中には貴族やデルフォスと親睦の深い王族の人々が集まり、外には久しく国王にお目にかかれると集まった市民たちでごった返している。

「何だか、あたしのお披露目パーティの時より人が多いみたい……」

 綺麗なドレスに着替えたリリアナは控え室から大広間をこっそりと覗き込み、そう呟く。そんなリリアナに、ポルカは笑みを浮かべた。

「あら、そう見える?」

「うん、何となくだけど……」

「失礼致します」

 会場や外に集まった人々のひしめき合う姿を見つめていると、背後からクルーがが現れ声をかけてきた。

 ポルカとリリアナがそちらを振り返ると、クルーは恭しく頭を下げたまま口を開く。

「ガーランド様が到着されました。すぐに、こちらへお連れ致します」

「そう。ありがとう」

 ガーランドが到着した。そう聞いた瞬間にリリアナの表情が固くなる。

 いよいよ父親が帰ってきた。この後一体どうなってしまうのだろうか……。予想がつきそうでつかない。

 喜ばしい事なのに、心のどこかで素直に喜べていない自分の存在をリリアナは確かに感じていた。

 クルーが一度控え室から引き、ほどなくして彼と共に緩慢な動きで現れたのは、国王らしいたっぷりとしたコートと杖を持った父の姿だった。

 完全とは言い切れないにせよここまで復活を果たす事が出来たガーランドだが、その顔も体も痩せ細ってしまっていることは、どんなに豪勢な衣服で着飾ろうとも隠しきれていない。

 ガーランドはポルカとリリアナの姿をしっかりとした眼差しで捉えると、ふっと目尻を緩ませた。

「……ポルカ、リリアナ」

 少し弱弱しい声だが、しかししっかりとした発音で名を呼ぶガーランドに、ポルカは目に涙を滲ませながら小さく会釈をする。

「お帰りなさい。あなた。皆があなたの帰りを待っていました」

 ポルカの言葉に、ガーランドは大きくゆっくりと頷き返した。そして次にリリアナに視線を向けてくる。

 見かけは弱弱しく見えても、その目に宿る意思や力強さは弱っていない。幾ら優しげに細められているとは言え、そんな眼差しに見据えられて緊張しないはずが無かった。

 リリアナは無意識にもこくりと息を飲み、ポルカに習ってドレスの裾を摘むとそっと会釈をしてみせる。

「お……お帰りなさい。お父、様」

 “お父さん”と言おうとして、数日前のレッスンでガーランドの事は“お父様”と呼ぶようにと言われた事を思い出し、たどたどしく口にする。

 何とも言えない緊張感が張り巡る。おかしな事を一つでもしようものなら、すぐに厳しい言葉が飛んできそうなそんな雰囲気だ。

 国王と言うのは、どこもこう言う物なのだろうか。これが普通なのだろうか……。

 リリアナはガーランドと目を合わせる事が急に怖くなり、頭を下げたままでいるとポンと肩に手を置かれ、無意識にもビクリと体を震わせた。

「……リリアナ。よくぞ戻ってくれた。もう二度と会えないものと思っていたが、こうして再び帰ってきてくれたことを心から嬉しく思うぞ」

「……」

 その言葉に恐る恐る顔を上げると、ガーランドと目があった。そしてその表情は本当に嬉しそうに微笑み、涙が滲んでいる事に気が付く。

「私がこうして今再びここに立つ事が出来るのは、全てそなたのおかげであると言う事は聞いている。本当に、心から感謝している」

「……は、はい」

 父から初めて受け取った言葉に、ぐっと胸に迫る物があった。

 思わず涙が滲みそうになったものの、リリアナはそれを堪えてにっこりと微笑んでみせる。するとガーランドはぎゅっとリリアナを抱きしめてきた。

「お帰り……リリアナ……」

「……た、ただいま……お父様……」

 おずおずと持ち上げた手は、遠慮がちに父の服の裾を掴む。

 そんな姿を見ていたポルカは涙を浮かべながら嬉しそうに微笑んでいた。

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