第46話 願い

 気持ちの良い青空が広がっていたはずの空に、暗い雲が立ち込めてくる。

 城内は激しい乱闘が繰り広げられる音が響き渡っているものの、今この場にいる3人の間にはその一切の音が感じられなかった。代わりにあるのは、深い悲しみの色だけ。

 涙を流したリズリーは、剣を突きつけたまま僅かに顔を俯けて表情を曇らせる。そしてこれまで抱え続けていた想いを口にした。

「……あなたがあの時、選べない立場に立たされていたと言う事は、本当は分かってた……。王様の命令や、王族とあなたの家との間で結ばれた古くからの掟があなたを苦しめている事も。あなたを待つ自信が持てなかった自分の弱さに非があったことも……全部、全部分かっていたのよ……」

 先ほどまでの勢いもなく、呟くように語るその言葉にペブリムもリリアナも静かに耳に届いた。

「リズリー……」

 ペブリムの呼びかけに、リズリーはギュッと剣を強く握り締める。その手はかすかに震えていた。

「でも、それでもあなたを恨まない日は一日も無かった。毎日がまるで生き地獄のようだったわ……。誰もいない孤独の毎日に押し潰されそうで……」

 いつ帰って来るかも分からない人の帰りを、暗く静かな家で待ち続ける事の辛さ。

 友人らしい友人もおらず、待つ人のいない家に一人で残される事の恐怖とも不安とも言える残酷な時間を強要されて、孤独な毎日を送らなければならなかった。

 心から愛して止まない人と逢えない時間は、生きていないのと同等の意味があった。

 ポツポツと語るリズリーの話を聞いていると、リリアナもまた胸をぎゅっと掴まれるような思いがした。

 今なら自分も分かるような気がする。

 好きで好きで仕方がない人と、今度はいつ逢えるのか分からない。一ヶ月、二ヶ月よりももっと長く、下手をすれば数年経っても逢えないかもしれない。

 きっと疲れてしまうに違いない。もしかしたら、帰って来れない間に相手に心揺らぐ人が現れたら……などと、しなくてもいい心配までするようになるだろう。

 そこまで考えた時、リリアナはなぜ、リズリーがマージへ堕ちたのか何となく理解できた。

 ただ待つよりも、例え敵同士でも逢える可能性があるならと、彼女はそちらを選んで今に至っているに違いない。

 静かに話を聞いていたペブリムは、長年しこりとなって心にあった罪悪感と後悔に、僅かに顔を下げる。

「……すまない」

 ペブリムの謝罪の言葉に、リズリーは一瞬ハッとなったがすぐに彼女を睨み付ける。

「今更謝ったところで、何だと言うの……。私は、あなたを許さないっ!」

「……!」

 リズリーは剣を素早く突き立てるように構えると、勢い良くペブリムの懐に飛び込んだ。

「ペブリムさんっ!」

 悲鳴のようなリリアナの声が上がる。

 素早く駆け込んできたリズリーはペブリムの懐深く飛び込み、そしてペブリムはまるでそれを受け止めるかのように構えていた。

 ドンッと言う体がぶつかり合う音が聞こえ、二人はその場に立ち尽くす。

「……っ」

 リリアナは、リズリーが構えた剣がペブリムの体を貫いているように見え蒼ざめる。

 彼女が死んでしまう。レルムが、死んでしまう……。

 瞬間的に頭の中に巡ったのはそんな感情だった。わなわなと体を打ち震わせ、リリアナは目の前に起きている状況を信じられずにいた。

 そうしている間にも、互いに重なり合う二人の間から紅い雫がポタポタと流れ落ちる。

「……ペブリムさ……」

 青ざめた顔で、震える声で呼びかけるが、その声は二人には届いていない。

 水を打ったように静まり返った空気がゾクリとする寒気を呼ぶ。やがて、突き立てられていたはずの剣は支えを無くし、カシャンと音を立てて地面に落ちた。そして同時にズルリ……と重なった体が崩れ落ちる。

「!」

 支えを無くし崩れ落ちたのはリズリーだった。

 リズリーが飛び込んできたあの瞬間。ペブリムは咄嗟の判断で懐に閉まってあった短刀を素早く取り出していた。そして襲い掛かってくるリズリーの剣を僅かな距離でかわすと、彼女を受け止めるような体勢で構え、素早くその胸に深々と短刀を突き立てたのだ。

 リリアナはペブリムが無事だと分かると、ほっとすると同時に深い悲しみに包まれた。

 今、二人に声をかけることは出来ない。

 そう思うと、リリアナはぐっと唇を噛み顔を伏せる。

 完全に地面に崩れ落ちる前に、リズリーの身体をペブリムは抱き止めてその場にしゃがみこんだ。

 暗雲の空から雨がポタリと降って来る。ポツポツと降り出した雨は次第に雨脚を強め、ザーッと言う雨音が辺りに響き渡った。

 冷たい雨に打たれながら、リズリーの血をその体に受けたペブリムの体が徐々に変化し始める。

 瀕死に追い込まれたリズリーの術が弱まり、彼にかけられていた性転換の術が解け始めたのだ。

「……レルム」

 リズリーは自分を覗き込むペブリムが、レルム本来の体に戻っていくのを見つめ、懐かしさに胸を焦がして涙を溢れさせた。

 あれだけ焦がれたレルムの腕に、久しく抱かれたリズリーはポロポロと涙を流しながら、自らの血にまみれた手を伸ばすとレルムの頬に触れてくる。

 レルムは彼女のその手に触れ、そっと握り返した。

「……ごめ……なさい……」

「リズリー……」

 消え入りそうな声で謝るリズリーに、レルムはぎゅっと眉を寄せた。

「私、あなたに、忘れて欲しくなかったの……」

「……」

「私と言う存在を、ただ、忘れて欲しくなかった……」

 ズキリと痛む傷にリズリーは眉根を寄せ、一瞬息を詰めて顔を顰めると、再び薄っすらと目を開く。

 そんな彼女の顔を覗き込みながら、レルムはそっと目を閉じた。

「……君の事を忘れるなんて、初めから出来なかったよ」

 静かに呟いたその言葉に、リズリーは涙を流しながらどこか満足そうに小さく頷き返した。

 そんな事は分かっていたはずなのに、その事に固執して歪んだ愛情は醜いだけのものになっていることも、リズリーは分かっていた。

「私、あなたに……、命を絶って貰う事を……心のどこかで、望んでた」

「……」

「ねぇ……これからは……自分の気持ちに、嘘……つかないで……」

「……リズリー」

「大事な物……ちゃんと、手に……して……」

 徐々に小さくなる声に、レルムは無意識にもリズリーの手を強く握り締めた。その反応に、リズリーは弱弱しい笑みを浮かべる。

 遠退いていく意識を感じながら、リズリーはそっと目を閉じた。

「……私も……十分……不器用、ね……」

 溜息混じりにそう呟くと、ふっとリズリーの体から力が抜けた。

 レルムはしばらくその胸にリズリーを抱きとめたまま動かなかった。

 リリアナはそんなレルムの背中を静かに見つめる。どこか泣き出しそうな、深い悲しみに落ちたその背中を……。

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