Long Day Long Night 21

 

   *

 

「――おはよう」 病院の食堂で古谷静が声をかけてきたのは、午前八時半のことだった。

 食堂の窓に面した席に着いて、手をつけられないまますっかり冷めた食事を前にぼうっとしていたマリツィカがぼんやりと眺めていたテレビから視線をはずしてそちらを見遣ると、静はちょうど朝食のトレーを手にマリツィカの隣の席に腰を下ろしたところだった。

「おはよ」 そう返事をすると、静はマリツィカの前に置かれた食事のトレーを見遣って、

「――食欲無いの?」 すっかり冷めて湯気も立たなくなった味噌汁に視線を落として、彼女はそう尋ねてきた。

「ん――大丈夫」 無理に笑おうとして結局ぎこちない作り笑いになっていることを自覚しつつ、マリツィカはそう返事をした。あからさまな作り笑いに眉をひそめ、静が周りを見回す。

「お母さんとお姉さんは?」

「まだ寝てる」

「そうだよね――大変だったもんね」 静はそう返事をして長テーブルの上に置いてあった箸箱から割り箸を一本抜き取ると、

「お父さんは?」 静が言いにくそうに口にしたその質問に、マリツィカはかぶりを振った。

「わからない――昨日、手術は終わったって話をしたよね。でも当直の先生から聞いたんだけど、命だけは助かっても意識が戻るかは、わからないって――」 もしくは意識は戻っても、重篤な後遺症だ――最悪の想像を読み取ったのだろう、静が絶句する。

 マリツィカ自身は直接父の手術に立ち会ったわけではないが、その後マリツィカが集中治療室で目にしたのは硝子窓の向こうで全身に包帯を巻きつけられ、手足に添え木を括りつけられて、陥没骨折を負った頭部の上半分を固められた父の姿だった。

 たとえ意識は戻っても、五体満足に戻れる見込みはまず無いだろう。それはわかる――医者の話では父は頭蓋骨を陥没骨折し、脊椎にも損傷が出ていたのだ。重量のある相手に、背中に飛び乗る様な勢いで背中を踏み抜かれたのだろうと、医者は話していたが――

 話しながら胸が詰まり再び嗚咽が漏れそうになって、マリツィカは激しく頭を振った。

「ごめん、無神経だった」 静の口にした謝罪の言葉に、マリツィカはかぶりを振った。

「いいの、わたしこそごめん。お母さんやお姉ちゃんには話せないし、ちょっと楽になった」

 デルチャは父の容態を知らない――ショックが激しかった姉は鎮静剤を投与されて、いまだ目覚めていない。

「ドラゴスさんは? 昨夜の夜中に、入院病棟の廊下で会ったけど」

「今朝はまだ見てない――でも、病院の近くにはいるみたい」 マリツィカがそう答えると、静は小さくうなずいた。

「そう――そういえば昨晩、車の中で寝るって話をしてたわ」

 その言葉に、マリツィカはそれまで視線を落としていた箸でつまんだ白ご飯からかたわらの静の横顔に向けた。

「そうなの?」

「うん――女の人と一緒の部屋だと落ち着かないからって」

 それでちょっとだけ笑ってから、静が味噌汁の椀を手に取る。マリツィカも笑い返して、箸でつまんだご飯を口に入れた。

 静に話しかけられるまでしばらくぼうっと考え事をしていたせいで、食事はすっかり冷めてしまっている――熱を失った雑穀米のご飯をもぐもぐとしばらく咀嚼したところで、マリツィカは窓の外に視線を向けた。彼女がいる第一食堂の窓は道路側に面しており、角度によってはショッピングセンターも視界に入ってくる――病院の建物に面した駐車場も、道路に近いほうは彼女の場所から見えているのだが、何気無くそちらに視線を向けたとき、見覚えのある黒いジャケットを羽織った金髪の人影が駐車場の入口のほうへと歩いていくのが見えた。

 駐車場の外、国道の路側帯に、白いクラウンが路上駐車されている――警察署が並びにある幹線道路の路側帯に路駐というのもいい度胸だが、問題は彼女たちのいる位置からだと視界に入ってくるクラウンのナンバーだった。

 ナンバープレート自体は青く、数字は四桁。外交官ナンバーだ。

 普段なら別に気に留めないだろう――せいぜい珍しいと思うか、でなければ警察が手を出せない外交官ナンバーの車輌と事故を起こしたら大変だろうな、というひねくれた感想をいだく程度だ。

 だが、今の状況では違う。

 在東京ローマ法王庁大使館の外交官であるアルカード・ドラゴスを知己に得た今の状況では違う。アルカードは今この病院にいて、あのクラウンは外交官車輌。そしてあの青年は、クラウンに近づいていく。

 クラウンに誰かが乗っていることはわかったが、さすがにここからでは確認出来ない――アルカードはクラウンの助手席に近づいて片手を挙げ、車内を覗き込んでからなにかを受け取る様な仕草を見せた。

 それから、今度は後部座席のドアを開ける。しかし乗り込むことはせずに数秒間そのまま棒立ちになってから、彼は上体だけを車内に入れた――すぐに車内から体を抜き出して、再び助手席の横まで移動してから、親しげな仕草で窓の開け放されたドアを軽く拳で小突く。

 その手を軽く掲げてから、アルカードはそのまま踵を返した――クラウンを見送るつもりは無いらしい。向こうもそれは期待していないのか、それまで焚いていたハザードランプを消して滑らかな動きで発進した。

 そのときにはもう、アルカードは右手をジーンズのポケットに突っ込んで、病院の建物のほうへと歩き出している――左手を振っていないのは、なにかを持っているのだろうか。短いつきあいではあるが、その間に気づいた癖がある――あの青年はどんなに小さなものでも、なにか手に持って歩いているときはその腕を振らない。

 視力は人並だと思っているが、遠すぎてなにを持っているのかは判別出来なかった――遠すぎるというよりも、持っているものが小さすぎるのかもしれないが。

 彼はそのまま足早に病院の建物に近づき、やがて死角に入ってその姿は見えなくなった。

 

   †

 

 フロントピラーの脇に両面テープで固定したデジタル式の電波時計が午前八時半を回ろうかというとき、ダッシュボードの上に置きっぱなしにしていた携帯電話が鳴った――運転席のシートのリクライニングを一番後ろまで倒し、病院内にあるコンビニエンスストアで買ってきたおむすびを腹に詰め込んでいたアルカードは、それに気づいて上体を起こした。

 アルカードは残ったおむすびを一気に口の中に放り込むと、手を伸ばして携帯電話を手に取った。

 着信音のパターンで、誰からの着信かはすぐにわかる――アルカードは折りたたみ式の携帯電話を開き、発信者名を確認することもせずに携帯電話を耳に当てた。

「俺だ」

「俺だ」 帰ってきた返答は、短かった――ついでに言うと、実に聞き慣れた声でもある。なにしろ自分の声だ。

「……なにやってるんだ、おまえ」

「例のヤクザとつながりのある政治家を始末したあと、歩いて帰るのが面倒だったんでな――おまえの弟子神田が出勤するのを待ってタクシー代でも借りようと思ってな、適当に時間を潰して夜を明かしてから、大使館に行ったのさ」 悪びれた様子も無く、使い魔ドッペルゲンガーはそう返事をしてきた。

「そうしたら都合のいいことに、おまえに会いに病院に行くというじゃないか。ちょうどいいから同乗させてもらった」

 もうすぐ高速道路から降りる、とドッペルゲンガーが続けてくる。

「おまえなぁ……」

「元を糺せば、帰りの足のあてをつけさせないおまえが悪い」 しれっとした口調でそう答えてくるドッペルゲンガーに、

「ああそうだな、電車代くらいは持たせておくべきだったよ――で、誰が一緒だ?」

「神田本人と、その息子と娘だ」

 つまり忠泰とセバスティアン、カチュアも一緒か――母親の特徴を強く受け継いだふたりの子供たちの姿を脳裏に思い描きながら、アルカードはジープのドアを開けて駐車場に出た。診療開始時間は九時からだが、すでに時間待ちの来院者の車が数台駐車されている。

 ちょうどジープの隣に横付けしたファミリアのドアに接触しない様にエッジを指で包む様にして保持したドアを閉め、リモコンを操作してロックをかける。

「神田から、病院内の敷地内に入ればいいかと聞かれてるんだが」 ドッペルゲンガーの質問に、アルカードは一瞬考えて、

「否、いい。こっちから歩道まで出ていく。道端のところで待っててくれと伝えろ」

「おう」 ドッペルゲンガーがその返答を最後に通話を打ち切り――ツーツーという終話ブザーの音を確認して、アルカードは携帯電話を折りたたんでウェストポーチに捩じ込んだ。

 そのまま、駐車場出入りのスロープに向かって歩き出す――高速道路の出口から病院まではさほど遠くない。それなりに急がないと、待たせることになる。

 スロープを上って外に出ると、途端にまぶしい陽射しが視界を塗り潰した。

 駐車場人員として勤務しているらしい警備員のひとりが、こちらの姿を認めて会釈をしてくる――警備員に一礼を返してから、アルカードは駐車場のゲート脇の通用口を抜けて歩道に出た。

 すでに到着していたらしく、病院前の路側帯に白いクラウンが止まっている――ハザードランプを出して駐車している新型のクラウンに、アルカードは少しだけ顔を顰めた。

 あれは神田の私用車だ。彼は日本人だが日本国内における立場は駐日大使館の職員なので、外交官ナンバーを与えられている。

 外交官ナンバーをつけられたクラウンは、否応無く目立つ――アルカード個人としては、外交官ナンバーで走り回るのは保全上お世辞にも望ましくないと思っていた。

 普通の外交官ならそれでもいいが、聖堂騎士団の関係者であれば目立ちにくい普通のナンバーのほうがいい――1234とか7777といった覚え易く識別し易い番号も、正直どうかと思う。覚え易いということは、ということでもあるからだ。

 まあ、それはそれでいい――同乗している状況でなければ、少なくともアルカード自身がそれで不利益をこうむることは無い。

 アルカードは幹線道路の路肩にハザードを焚いて駐車した、磨き込まれた白いクラウンのそばに歩み寄った――助手席のウィンドウが下がり、先日再会するまで一年以上も会っていなかった銀髪の青年が顔を出す。

「おはようございます、我が師よ」

「ああ、おはよう」 セバスティアン神田の挨拶にそう返事をしてから、アルカードは軽くかがみこんで運転席に座った神田忠泰にも声をかけた。

「朝っぱらからすまんな、忠泰」

「いえ」 神田忠泰がそう返事をして、セバスティアンに目で合図をする――セバスティアンはそれまで法衣のポケットに入れていたものらしい小瓶を取り出すと、それをアルカードに向かって差し出した。

「どうぞ」

「ああ、すまない」

 差し出された小瓶を受け取って軽く振り、その内部に満たされた無色透明の液体を確認する――彼自身の血液から精製された、透明の内容液。いくら振っても泡立たないその液体が間違い無く注文の品物であることを確認して、アルカードは後部座席のドアを開けた。

「びるとーるさま!」 丁寧に梳かれた癖のある銀髪を長く伸ばした幼い少女が、奥の座席からこちらに気づいてパッと顔を輝かせる――口元を緩めて、アルカードは小さくうなずいた。

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