In the Distant Past 15
*
東京都心にマックス製薬と呼ばれる製薬会社の本社ビルがある。
ノーベル賞を取得した学者を何人もかかえ、国内外の主要都市にいくつもの支社を持つ、国内屈指の規模の製薬会社であるとされている。
その本社ビルは新宿区内、東京都庁に程近い場所に居を構え、高さ二百五十メートル、五十階建てに地下五階、基部にプリンの様な形状の構造物を持つ。細かい相違点を気にせずにざっくりと外観の印象を述べるなら、容器から出したプリンにかまぼこ板が突き刺さっている様に見える。
先日のグリゴラシュとの戦場になった、ヘリポートのあったビルよりもさらに高いビルだ――地上二十五階にはテーブル状に張り出したヘリポートを備えており、どことなくサルノコシカケに似ていなくもない。
「……」 二棟に分かれた東京都庁の一棟、その屋上からマックス製薬本社ビルの威容を眺めながら、アルカードはかすかに目を細めた。二棟のビルの間から吹き上げてくる強烈なビル風が、暗い色合いの金髪を躍らせている。
すでに深夜にもかかわらず、周囲のビルの中には室内の照明が点燈しているところもちらほらと見受けられる――地上に見える一般道を走る車はまばらになり、そのほとんどが物流関係のトラックだが、少し離れたところに見える首都高四号新宿線や中央環状線は途絶える事無く車が走り、昼間の様な渋滞が無いのでスムーズに流れるヘッドライトの群れはまるで光の河の様だった。
そちらからは視線をはずし、左手を羽織ったコートのポケットに突っ込んで、ポケットの中から革張りの装丁の本を取り出す。
本のページがパラパラとひとりでに繰られ、やがて中ほどに近い一ページで止まった。びっしりと記述された紋様めいた文字がぽう、と淡く発光し、同時に頭の中に大量のリアルタイム情報が流れ込んでくる。
ビル内の構造、内部にいる生物の脳幹が発生する電磁場の位置情報、気温や気圧の変化から検索された内部の状況、配線を通電される電流が発生する電流によって形成された電磁場とそれから類推される電子機器の配置、内部に存在する物体の発生する引力による空間のわずかなゆがみから検索した内部の生体も含むあらゆる物体の配置状況……
それらすべてを頭に叩き込んで、アルカードは顔を顰めた。ビルの周囲に強烈な電磁波が送信されている――情報送信用のものではないから、おそらくレーダーの様な検索用の電磁波だろう。
それに構造が異様に強固に造られている――場合によっては建物ごと爆破する様なこともあるので、アルカードも建築に関して多少の知識はある。
鉄骨の量やサイズなどから想定される計算上の強度が、通常あの規模のビルに必要な数字を大幅に上回っているのだ。さらに鉄骨の筋交の隙間に仕込んだショックアブソーバーその他の緩衝装置で、免震性能もある程度持たせているらしい。免震構造に関しては事前に入手した設計図通りだが、設計図に記載されていた想定される震度に対して、実物はその数倍の免震能力を与えられているらしい。
ただし奇妙なのが、そのショックアブソーバーの置き方だった。日本の最新の免震構造に関してはさほどの知識は無いが、まるで地震ではなくビル内部から発生する振動や衝撃を吸収する様に造られている様な――
当たりだな――
胸中でつぶやいて、アルカードは
「俺だ」
「ええ――我が師よ。感度は良好。状況は?」
「当たりだ――普通のビルより数倍強固な構造に造られてる。免震構造も設計図のスペックよりもかなり強靭な構造になってる――提出された設計図は見せかけだけだな」 髪で隠す様にして頭に巻きつけた骨伝導スピーカーから聞こえてきた返事にそう答えて、アルカードは目を細めた。
「侵入経路は?」 無線の相手がそう尋ねてくる――アルカードは周囲を見回して、小さく嘆息した。
今夜は湿度が低い――靄霧態を取って潜入するのは難しい。
「
「内部はキメラの巣だ――電子的監視設備も大量に設置されてる。正面から突入したら、即座に発見されるだろうな」
レーダーを避けて潜入するなら、地上から接近するのが得策か――胸中でつぶやいて、アルカードは都庁の屋上から地上に向かって身を躍らせた。
ごう、と耳元で風が鳴る――内臓がせり上がる様な不愉快な浮遊感ののち、アルカードは轟音とともに地面に降り立った。脚甲を集中して補強した
瞬間的にではあるがまるで爆発音の様な轟音が響き渡り、太陽を間近で見たかの様な閃光が周囲を昼間の様に明るく照らし出す。
都庁前で立哨に就いていた警備員ふたりが、音に驚いて走ってくる――だが、彼らが到着したときには、すでになんの痕跡も残ってはいない。
しかし、
だがそれは逆に言えば、自分自身が受ける衝撃だけでなく相手の受ける衝撃も完全に殺しきれれば、彼我ともに一切破壊されないということでもある。
ゆえに着地した場所が
すわテロ行為でも行われたのかと血相を変えて様子を見に来たふたりの警備員たちは外周を巡回していた別の警備グループと鉢合わせし、応援を呼んでしばらく周囲を点検してから、そろって首をかしげながら再び持ち場に戻っていった。
都民広場に設置された照明の上からその様子を見下ろしていたアルカードは、その顛末を最後まで見届ける手間も惜しんで再び地上へと飛び降りた。
今度はわざわざ変換処理するほどの衝撃でもない――彼はそのまま都民広場を突っ切り、夜中だというのにベンチでいちゃついていたカップルがぎょっとした表情を見せるのにもかまわずに都庁と反対側の道路に出た。
マックス製薬のビルまでは、あと一ブロックほどか。
ふらふらと歩いている酔っ払いが、重装甲冑を着込んだ鎧武者に奇異な目を向けている――余所見していたせいで足を踏みはずし、酔っ払いは歩道から路側帯に転げ落ちた。
コンビニで雑誌コーナーの品出しをしていた店員が硝子越しに不思議そうにこちらを見遣ってから、映画かドラマの撮影かはたまたドッキリカメラかとカメラを探して周りを見回している――それにはかまわずに、アルカードは一ブロックを突っ切って足を止めた。
先ほどの『
ただ、それらのセンサー自体は可動式で、複数のセンサーやカメラを一ヶ所に設置することで死角を無くすタイプのものではない。経費がかかるということのほかに、モニターを大量に設置する必要があるからだろう。
さて――胸中でつぶやいて、アルカードは夜空を見上げた。
今夜は湿度が低すぎる。重装備を取り込んで靄霧態を取ることは難しい。魔術で水素と酸素を化合させて水を造り、それを魔術で蒸発させて、触媒になる水蒸気を作る手も無くはないが――風が強すぎてすぐに吹き散らされてしまうだろう。靄霧態は乾燥と強風に弱い。
営業時間外だからだろう、プリン状構造物のメイン・エントランスにはふたりの警備員が立哨している――体温分布から判断する限り、生身の人間である様に見えた。
ここにはキメラだけではなく、吸血鬼がいてもおかしくない――マックス製薬の裏のスポンサーはグリゴラシュ・ドラゴスだからだ。
結局別な手を考えるしかないか――胸中でつぶやいて、アルカードはすっと目を細めた。
それにしても――大西洋の洋上、続いて南フランス、イスタンブールにアラスカ、中国に続いて今度は東京か。
そのたびに潰されてるのに懲りもせず、今度は東京のど真ん中か。グリゴラシュの野郎、だんだんやることが大胆になってきやがったな。
正面から入るのはおそらく無理――力ずくで潜入するのは難しくもないが、いくら相手が吸血鬼信奉者の企業が提供している調製実験施設とはいえ、民間人の警備員を殺害して正面から押し入ったとなれば聖堂騎士団渉外局も日本政府側も隠蔽は難しいだろう。あまり派手にやり過ぎれば、日本政府の協力を得るのも難しくなる。
ペルソナ・ノン・グラータの通告を受け、外交特権も剥奪されて、最終的にはヴァチカンと日本政府の関係悪化につながりかねない――建設会社から設計図を取り寄せるのに日本政府の協力を得てしまったから、マックス製薬で民間人の大被害が出れば、日本政府はそれをアルカードと関連づけて考える。ある程度おとなしくしているしかない。
神田忠泰の用立てたビルの施工を担当した建設会社の設計図によると、地下に生活用水の供給と自家発電機の冷却水としての水を貯めておく貯水池がある。地中に穴を掘って潜行し、貯水池から潜入するのが、もっとも発見されにくいだろう。
*
「お母さーん、ジュース――あ、リディアお姉ちゃん目が醒めたんだ」 パタパタという足音とともに洋間に顔を出した凛が、リディアの姿を認めて声をかけてくる。
「あ、うん――ごめんね」 リディアがそう返事をすると、凛はちょっと安心した様な表情を見せた。
「凛たちこそごめん、蛇ちゃんでびっくりさせちゃって――」
「あ、いいのいいの」 思い出したくなかったので素早く遮ると、凛はうなずいて周りを見回した。
「お姉ちゃんも一緒にやらない? マリオカート」
「あ、うん」
「香澄お姉ちゃんも行こうよ」 と凛が声をかけると、香澄はうなずいて腰を上げた。
「ひとりで歩ける?」 という質問に、小さくうなずいてみせる。
「大丈夫です――階段とかが無ければ、ですけど」
「平屋だからそれは大丈夫だけど――」 でも一応手伝うわね、と香澄が手を差し出してくる――その手を握り返して、リディアは立ち上がった。
「アルカードは?」 陽輔兄ちゃんと忠信爺ちゃんもいないね、という凛の質問に、それまで麦茶を飲んでいたデルチャが返事をした。
「アルカードなら、さっき陽輔とお爺さんと一緒にガレージに行ったわよ」
「たぶん陽輔のバイクの話をしてるんじゃないかしら」 香澄がそう付け加える。
「あ、じゃあ駄目だね」 凛はうなずいて、デルチャが用意してくれたジュースのペットボトルが数本載ったトレーを受け取った。
松葉杖は土間のところに置いてきてしまったので、代わりに香澄の腕を支えに廊下に出る。どうもそういうものらしい板張りの床が、体重がかかるたびにぎしぎしと音を立てた。
「陽輔兄ちゃんたちはなにしてるの?」
「わからないわ――でも、その前にバイクの話をしてたから、たぶんその話」 凛の質問に、香澄がそんな返事を返している。
連れて行かれたのは、洋間からさほど離れていない畳敷きの和室だった。香澄は陽輔の恋人を通り越して神城の家族扱いになっているらしく、屋敷に一室与えられているそうだが――調度品の趣味が若い女性のものではないし、男物のジャケットがハンガーで壁に掛けられているから、たぶんここは香澄の部屋ではなく陽輔の自室なのだろう。
畳の上に直接置かれたテレビ台の上の東芝レグザの液晶テレビの前で、パオラとフィオレンティーナが画面とにらめっこしながら対戦している――Wiiは畳の上に直接置かれていた。蘭だけがその様子を横から眺めているのは、三人以上で対戦しようにもコントローラーが足りないからだろう。
一応Wiiの標準のスティックコントローラーはある様だが――きっとマリオカートはやりにくい。テレビの横に置かれたヌンチャクなどは論外だ。
テレビ台の横には本棚が置かれていて、棚にはDVDが大量に収納されていた。『ジョーズ』『ディープ・ブルー』『メガロドン』『シャーク・ハンター』――タイトルに偏りがあるのは気のせいだろうか。
「あ、お姉ちゃん気がついたの?」 畳の上に置かれたベッドに腰かけていた蘭が、そう声をかけてくる。パオラとフィオレンティーナもこちらに注意を向けたのか気配が一瞬揺れたが、すぐに画面に注意を戻した様だった。
「もう大丈夫?」
「うん、ごめんね心配かけて」 リディアはそう返事をして、蘭の隣に腰を下ろした。
「アルカードは?」
「陽輔さんとお爺ちゃんと一緒に、ガレージでなにかやってるみたい」 蘭の質問にそう返事を返し、テレビ画面に視線を向ける――ビデオゲーム慣れしていないフィオレンティーナではあったが、吸血鬼化の影響によって反射能力が強化されているのかパオラを相手に意外と善戦している。あと、先日のチャウシェスク家での対戦で使ったピーチ姫の性能に不満があったのか、今回はクッパを選択していた。
パオラはというと、ルイージを駆ってフィオレンティーナのクッパを引き離せないものの抜かせもしていない。
「フィオお姉ちゃん上手になってる」 と、凛がそんなコメントを口にする。
「うん」 と言ったそばから、フィオレンティーナのクッパが大きく進路をそらした。クッパのほうがイン側にいたので、コーナーへの進入は有利なはずだった――が急コーナーに入るときの減速をミスして、コーナリングの軌道を大きく膨らませすぎたのだ。
パオラのルイージが軌道を交差させる様にしてコーナーに進入し、それまで僅差にとどまっていた差を一気に引き離しにかかった。
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