In the Distant Past 4

 

   *

 

 リビングに顔を出すと、まだ恭輔と陽輔がお茶を飲んでいた――羆徘徊のニュースのせいで昼食時も仕事にならなかったからだろう、アレクサンドル・チャウシェスクもいる。マリツィカはすでに着替えを終えて、いつもの活動的な格好に戻っていた。あのタンクトップとショートパンツは十歳の子供には刺激が強いらしく、陽輔がちょっと赤くなっていた。

「おい、こっちこっち」

 そう声を挙げて、老人がアルカードを手招きする。

畳の上に直接置かれた卓は埋まっていたので代わりに壁際に置かれたベビーベッドのそばに腰を下ろし、四つん這いで近寄ってきた蘭に手を伸ばす――畳の上に座り込み、伸ばした指を掴んでぶんぶん振り回している蘭に目を細めたとき、

「面倒を掛けさせて済まなかった」 アレクサンドル老が、そう声をかけて片手を挙げる。ほかの者たちと違って彼とイレアナはルーマニア語で話してくれるので、アルカードとしてはいちいち日本語の意味を考えてしゃべらなくて済むのがありがたい。

 アルカードはかぶりを振って、

「いいえ。ところでお仕事は?」

「なにしろあんな状況だったからな。誰も外食なんぞしないよ」

 そう返事をして、アレクサンドル老がのんびりとお茶をすする。

「さもありなんというところですな――ときに奥方は?」

「妻は店番だ。開店休業状態とはいえ私とイレアナと、ふたり一緒に店を空けるわけにもいかんのでね」

 もう、臨時休業でもいいかもな――そんなことを言いながら、老人はアルカードの膝に攀じ登ろうとしている蘭を手招きした。蘭が気づかないのに適当に肩をすくめたとき、卓についていたマリツィカが立ち上がる。

 彼女がコーヒーでいい?と声をかけてきたので、アルカードは小さくうなずいて返事を返した。

「ああ」 そう返事をしてから、アルカードは膝に攀じ登ろうとしてひっくりかえりかけた蘭の体を支えてやった。父親に呼ばれて、蘭が今度はそちらにはいはいで近づいていく。

「ずいぶん懐いてますね」 恭輔にそう話しかけられて、アルカードは苦笑した。

「その様です」 そう返事をしてから、アルカードはあらためて一礼した。

「アルカード・ドラゴスです。先ほどはろくに愛想も無くて申し訳無い――あまり話し慣れてなくてね」

「いえいえ――こちらこそ妻と娘がお世話に。ところで、その――なにか用心棒的なものでとどまってらっしゃると聞いたんですが」

 という恭輔の言葉に顔を顰め、アルカードはアレクサンドル老に視線を向けた。

「それを話したのかね、御老体?」

「ああ、まあ――聞かれたからな。それに、事情は知っておいてもらったほうがいい。初日にデルチャが話したろう、彼の父親は――」

「ああ、地元警察署長だったか。それはちょうどよかった、俺からも聞きたい――ヤ-ク-ザだったか、それはただの薄汚い犯罪者の群れだろう。どうしてそんなものに警察が手を出せない? 問答無用で踏み込んで制圧し、鏖殺すれば済む話ではないのか。ゴミを始末すれば町も住みやすくなるだろう」

「日本はろくでもない人権屋どもが幅を利かせてる国でね」 こちらも敬語はやめたのか、恭輔がそう返事をしてくる。

「まあそういうのって、仕事の出来ない弁護士とか共産主義思想のなれの果てなんだけど――まあとにかくそういうのが、犯人が射殺されただけでギャーギャー大騒ぎするから、なかなかそういうふうにはいかないんだよ」 大袈裟に溜め息をついてそう続けてから、

「まあでも、今回の件は少し違う。ヤクザのトップのほうに、代議士の親族がいるらしいんだよ」

「それは前に彼にも聞いたが――なんというか、まあ、世も末だな」 アレクサンドル老に視線を向けながらそう返事をすると、恭輔はうなずいた。

「厄介なことに国会と都議会、それぞれの政権与党の幹部らしくてね――前政権時代に警察庁の上層部に就いたらしくて、圧力が正直面倒なことになってる」

 そこでリビングに戻ってきたマリツィカが、コーヒーカップを載せたトレーを横に置いてくれた。

 ふむ――そう返事を返して、アルカードはコーヒーカップを手に取った。蘭が興味を示してこちらに近づいてきたので、淹れてくれたマリツィカには悪いが香りのいいコーヒーをさっさと飲み干してしまう。

 コーヒーカップをトレーの上のソーサーに戻してからトレーごと離れたところに押し遣り、アルカードは手を伸ばして蘭を招き寄せた。

「単刀直入に聞くが――その状況で、俺が出来ることがあるのか?」 状況の解決にアルカードが手を貸すことは出来る。出来るが――結局のところ、彼に出来るのは暴力による解決でしかない。

「私たちがおまえさんに期待してるのは、連中の足を遠ざける抑止力としてだよ――まあ、いつまでもそのままというわけにもいかんし、なにかしらの手は打たないといけないがね」

 老人がそう返事をしてくる。が――

 胸中でつぶやいて、アルカードは表情には出さずに嘆息した――それではいつになることやら見当もつかない。

 髪の毛先を掴んで引っ張っている蘭の手をやんわりとはずしながら、アルカードは少しだけ目元を険しくした。

 

   *

 

「アルカード、エンジンかけても大丈夫か?」

 池上が声をかけてきたのは、作業を始めてから二時間半ほど経ったあとのことだった――ちょうど高輝度放電式ディスチャージヘッドライトユニットの設置を終え、バッテリーへの結線に取り掛かったところだったので、アルカードは十ミリのディープソケットを取りつけた小さなラチェットハンドルを手に取りながら、

「あと三十秒待ってください」 そう返事を返し、ラチェットハンドルを使ってバッテリー端子をターミナルに接続し、コントローラーにつながるバッテリーハーネスを二本、プラス側のターミナルのボルトに共締めにする。アブソリュート製のH4規格のHIDユニットは一燈式のヘッドライトにしか対応していないので、左右二燈を同時に点燈させようとすると二セットが必要になり、したがってハーネスも二組になるのだ。

 マイナス側の鍬形端子は、車体各所のボルトに共締めにした直径一センチ近いアーシング配線に共締めにしておく――現行車のほとんどはマイナス・アース、つまりマイナス側の電流をいったん車体に流し、車体全体をマイナス配線として使うことで配線の一部を省略している。しているのだが、金属を流れる電流というのは基本的に導体の表面を流れるものだ。したがって、ボディアースの確実性は車体の金属部分の表面積によって決定される。

 NSXの様なオールアルミや一般車向けの冷間圧延鋼板など、ボディ自体が金属製で十分な表面積があればいいのだが、アルミ製の車体にグラスファイバーのボディをかぶせた構造のトミーカイラの場合、金属部分になる車体が浴槽の様な形状をしていてさほど大きくない。アースになる車体の金属部分の表面積が少ないために、電流の流れが滞るのだ。

 言ってみれば電気の交通渋滞だ――これを解消するために別の電路を設けるのが、アーシングだ。スターターや交流発電機、エンジンヘッド周りなど、大量の電気を使う場所に電流が流れやすい様に太い配線を設置することで、ボディアースを介さずにスムーズに電流がバッテリーに戻れる様にするのである。

 とはいえ大量の配線をバッテリーに直接接続すると配線がごちゃごちゃするので、今回は金属片を加工して作った鉄板をバッテリーの近くに固定し、いったんそこにすべてのアーシングを集めてから、そこから直径十二ミリの極太の配線でバッテリーに接続してあった。

 それらの配線のいずれかに接続しておけば、高輝度放電式ヘッドライトのバーナーで仕事を終えたマイナスの電流はアーシングを通ってバッテリーに戻る。

 ターミナルに接続した端子を軽く揺すって、締めつけ具合を確認する――問題無く締めつけられていることを確認してから、アルカードは池上に返事をした。

「どうぞ」

 池上がその返事に、トミーカイラのスターターを回した――金属的なノイズとともに、新品のバッテリーから電流を流し込まれたセルモーターが回転してエンジンが始動する。

「よし、問題無さそうだな」 満足げに笑いながら、池上がパンパンと手を打ち鳴らす。

 エンジンオイルをオイル通路ギャラリに十分循環させる必要があるので、しばらく放っておく――その間に、池上はヘッドライトスイッチを操作した。

「電気周りのチェックをしよう――忠さんは後ろを頼む」

「ああ」 忠信が返事をして、ウマがけされたままのトミーカイラの後部に廻り込む。アルカードがちょっと距離を置いてフロント側に廻り込むのを待って、池上はスイッチを操作した。

「はい、スモールOK」 小さなLEDの電球が左右とも点燈しているのを確認して、アルカードは右手を挙げた。

「後ろも大丈夫だ」

 続いて、ロービームが点燈する。

 HIDユニットは点燈してから電圧が上昇し、光色が安定するまで時間がかかる――徐々に安定した黄色に変化していくのを確認して、アルカードは右手を頭の横に翳して二度手を開いたり閉じたりした。

 エンジン音に混じって聞こえるカチカチというソレノイドの動作音とともに、ロービームとハイビームが交互に切り替わる――H4規格のヘッドライト用電球は本来ロービームとハイビーム、ふたつのフィラメントを持っており、それらがひとつの硝子管の中に存在している。

 しかし高輝度放電式のヘッドライトの場合は高圧ガスを充填した硝子管の中に電極を配置して、空中放電による絶縁破壊の閃光を利用して発光する。

 その構造上シングルフィラメント対応のバーナーであってもある程度の全長が必要で、内部に複数の電極を配置することが出来ない。そのため、H4電球対応のバーナーはソレノイド等によりバーナー自体を前後に摺動させることでロービームとハイビームを切り替えるのだ。といってもHIDユニットの外形自体が変形するわけではなく、その動きしろを考慮したうえでバーナーユニットのケーシングが造られているのだが、このためにヘッドライトユニットの後部にかなり大きな空間バッククリアランスが必要で、実は二輪車用としてはつけられない車種も多い。

「ヘッドライトも大丈夫です」

 そう声をかけると、池上が今度はウィンカーを操作する。再度マーカーとフロントウィンカーが左右とも法定通りの点滅速度で動作しているのを確認して、アルカードはうなずいた。

「ウィンカーも問題無し」

「後ろもだ」

 池上が今度はハザードランプを点燈させ、点滅速度が同様に問題無いことを確認して、右手を挙げる。

「OKです」

「後ろも大丈夫だ」

 そこで池上が半身を運転席に滑り込ませ、シフトレバーを操作する。

「バックランプとブレーキランプも正常だ」 忠信が小さくうなずいて、車の後方から離れた――ホーンとワイパー、フロントシールドウォッシャーの動作を確認して、池上はエンジンを止めた。

 ハザードランプの動作を確認した時点で、フロント側はもう終わっている。とりあえずエンジン内部に循環しているオイルがオイルパンに戻るまでの間にベルト類の張りを確認しておくつもりなのだろう、池上がエンジンルームを覗き込んだ。

 ワイパーとウォッシャー自体は正常に動作していたが、ゴム部分が硬化しているためかウォッシャー液が拭き取られた跡にひどい拭きむらが出ている。こちらはワイパーのゴムを新品に換えておくとしよう。

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