In the Distant Past 1

 

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「――どうだね、池上さん?」 という神城忠信の問いかけに、二柱式のリフトでリフトアップした赤いオープンカーの下にもぐりこんだまま池上が返事を返す。彼は小さい、だが明るいLEDの懐中電燈で車体の各所を下から照らしながら、

「ドライブシャフトのアウターブーツとインナーブーツが左右一対、ロアアームとアッパーアームのボールジョイントブーツ、ベルトに――ウォーターポンプは大丈夫だが、せっかく部品を手配してあるし交換すべきだな」

「ゴム部品全滅っぽいですね」 アサヒのビールケースに腰を下ろしてつなぎの作業服――ここへ来る前に、朝六時から営業しているホームセンターで買ってきたものだ――の裾を折りたたみながらそうコメントすると、

「まあ、しょうがないわな――ここしばらくほったらかしだったし。車検切れてるから検査通して静岡に持って帰るつもりでいたが、無理かな」 アルカードのコメントに、こちらはキャプテンスタッグの折りたたみ椅子に座り込んで同じ様に裾を整えていた忠信が盛大に嘆息しながら返事をする。まあアレだ、兄さんが水とオイルの面倒を見てくれてたから、エンジン本体の傷みが無いだけまだましな部類だよ――そんなふうに続けながら、忠信はそれまで蹲っていた床から立ち上がった。

 忠信もアルカードと同じく、真新しいつなぎ服を着ている――さすがによその工場でそこそこの重整備をするのに、普段着のままで来る気にはなれなかったのだ。

 それに続いて立ち上がりながら、壁に掛けられたセイコーの時計に視線を向ける――八時二十五分。

「まあ、あんたがオーダーした補修部品でどうにかなるだろ」 池上がそう返事を返して懐中電燈の明かりを消し、車体の下から出てくる。

 その会話を聞きながら、リフトアップされた真っ赤なトミーカイラ車体を下から覗き込む。

 P10型プリメーラ用のエンジンのプーリーに張られたベルトのリブに、細かな亀裂がいくつも入っている。昨日交換したジープのベルトと同じだ。

 補機類の駆動ベルトは、自動車用のゴム部品の中ではもっとも傷みやすい――エンジンルームの中で蓄積した熱気に曝され、それ自体が常に変形しているために生じる分子同士の摩擦で熱を持ち、さらにテンショナーによって常に引っ張られているからだ。

 ベルト類の傷みはリブ山の痩せと亀裂、ゴムの乾燥とベルト自体の裂けと破断の五種類に分類される――無論どれかひとつだけが起こるわけではなく、同時進行で劣化が起こっているのだが。

 リブの山は断面をみると台形をしているのだが、それがどんどん摩耗して三角に近づいていくのが痩せだ――こうなると最初に比べてベルトが深くプーリーの山に入り込み、結果張りが弱くなる。

 亀裂はゴムの劣化によってベルトの回転方向と直角に亀裂が入り、割れてくる症状で、これが起こると亀裂が広がるだけで張りが弱くなる――ベルトのテンションは内周にかかるので、張りも弱くなるしいくら張り具合を調整しても効かなくなるのだ。

 ゴムの乾燥はそのまま、ベルトのゴムが乾燥してしまった状態で、エンジンの回転数が変化したときなどにベルトが滑って異音の原因になる――先日のジープの異音の、主な原因はこれだ。

 ベルトの裂けは三~六、七山くらいのリブベルトがリブに沿って裂けた状態で、これが起こるほど劣化していたらたいていはベルトのFRPの芯も傷んでいる。

 破断は文字通りベルトが切れることで、ゴム自体とFRPの芯、両方の劣化によって起こる。ベルトが裂けて一部だけ切れることもあれば、全部いっぺんに切れることもあるが――どちらにせよ同じことだ。

 この車のベルトの場合は、前者ふたつだった――ベルトの亀裂は通常内周に入るのだが、ベルトの内周に亀裂が入るとテンションを調整してもベルトの亀裂が広がるだけで、適切なテンションを保てなくなる。

 そうなると先日のジープの補機類の駆動ベルトと同様にキュルキュルという異音の原因になるほか、交流発電機ジェネレーターやエアコン、油圧式パワーステアリングのポンプ、ウォーターポンプといったベルト駆動の補機類の効率や性能にもかかわってくる。

 実際、ここまで来る途中にもベルトが緩みすぎて滑るときのキュルキュルという音がひどかった。

「まあとりあえず、手持ちの部品でどうにかなりそうですね」

「ああ」 アルカードの言葉に忠信がうなずいて、こちらの視線を追ってか愛車のエンジンルームに視線を向ける。

 正確にはその手前に置かれた段ボール箱と、黄色い樹脂テープで括られたタイヤ四本を、だ。段ボール箱にはNISSAN GENINE PARTSというロゴが入っている――日産純正部品だ。

 忠信が用意した、トミーカイラZZの補修部品だ――ZZはプリメーラのエンジンを使っているため、駆動系の一部にその部品が流用されており、したがって日産の純正部品をそのまま使用している個所が多い。

 忠信が帰ってくる前にアルカードが事前に補修部品をチェックし、その報告を受けた忠信が必要そうなものをひととおり手配していたのである――アルカードとしては漏れが無かったことに一安心だが。

「さて、俺らも準備をしようか」

「はい」 うなずいて歩き出しかけたとき、屋外に設置されたエアコンプレッサーの駆動音がようやく止まった――エアタンクの圧力が規定値に達したからだ。

 工場のゲートを超えて、屋外に足を踏み出す――昨夜の雨でまだ濡れたコンクリートのところどころに水たまりが出来、工場の前に置かれた店の代車のワゴンRの車体が寂しげに濡れている。

「午前中に終わるかな」 そんな懸念を口にしながら、忠信が工場の前に止めたアルカードのライトエースに歩み寄る――正確には店の名義なのだが、実際に使用するのがアルカードひとりだけなので、使用から点検整備まですべてアルカードの裁量にゆだねられている。よって、キーを持っているのも彼だけだった。

「終わればいいですけどね。四枠だし」 忠信の言葉にそう返事を返しながら、アルカードはキーのリモコンを操作してライトエースのバックゲートを開けた――フロアマットの上に、抽斗式の工具ケースと上面両開き式の工具ケースがひとつずつ置いてある。

 ツールチェストはアルカード、手提げ式の工具箱は忠信のものだ――ここに来る前に忠信に請われて神城家のガレージに寄り、ミッドシップのZZでは積みきれない工具類を積み込んできたのだ。

 アルカードは手を伸ばしてツールチェストの両脇の取っ手を掴み、チェストを両手でかかえ上げた――忠信も自分の工具箱を手に取り、アルカードが車から離れるのを待ってバックゲートを閉めた。

 それを確認して、キーレスエントリーを操作する――左腕の中に埋没したままボタンを操作されたリモコンの電波で、ライトエースのロックが動作する。

「前から思ってたんだが、その腕、電波を遮蔽したりしないのかね?」 両腕がふさがったままでリモコンを操作するからくりは知っているので、忠信がそんな疑問を口にする。

「しないみたいですね」 アルカードはそんな返事を返して、忠信に続いて歩き出した。

「じゃあ、最近はやりのキーレスのスターターなんかも?」

「使えますね。前にレンタカーを借りたとき、キーを腕の中に入れたままで普通に動かせましたから」

「便利だね」

「まあ、小物を持ち歩くのには。でも飛行機に乗るときは大変なんですよ――ヴァチカンの外交官特権でごり押ししないと、この腕、金属探知機をくぐるとき面倒なんです」

「ああ、そうだよな――兄さん的には船とか陸路のほうが都合がいいのか」

「ええ」 池上には聞こえない程度の声量でそんな会話を交わし、ふたりは工場に近づいたので会話を打ち切った――工場に入ったところで工具ケースを床に置き、車体の前に置いてあった段ボール箱を取り上げる。

 箱こそ大きいものの、中身はほとんどがゴム製のブーツ類――等速ジョイントやボールジョイントといった継手部分を水やゴミから守るためのゴム製のカバーや補機類を駆動するためのベルトで、金属で出来た部品はウォーターポンプとベアリングくらいだ。タイヤやバッテリーといった大物は脇によけてある。

 なので、中身が嵩張って箱は大きいものの重量は知れている――邪魔にならないところに箱を動かして、ふたりは中身を確認し始めた。

「ええと、HIDキットとウィンカー用のLED電球、ICウィンカーリレー、T10のウェッジ型電球四個、アーシング用のケーブルと端子類」

「タイロッドエンドとロアアーム、アッパーアームのボールジョイントブーツ、クランクシャフトとドライブシャフトのオイルシール、タペットカバーのパッキン」

「ドライブシャフトの等速ジョイントブーツ内外それぞれ二対と、左側のタイロッド」

「ベルト一式とウォーターポンプ、サーモスタットにスタビライザーのラバーブッシュ」

「エアクリーナーエレメントとブレーキパッドと、あとハブベアリング」 声に出しながら忠信とふたりして、段ボールから取り出した数々の部品を床に並べていく。

「これで全部ですかね?」 AISIN精機のロゴが印刷されたウォーターポンプの箱を開けて内容品に不足が無いことを確認しつつ、アルカードは特に意図も無くそんな言葉を口にした。

「そうだね――頼んだ部品は不足無くちゃんとある」 忠信がうなずいて、ジャッキアップされたままのZZに視線を向ける。

「SR20DEはチェーン式だし、一通りの消耗品はこれで確保出来るだろう」

「エンジンオイルは五月に換えたし、クーラントは六年サイクルだからしばらくは大丈夫でしょうしね。前に水を抜いたときに、ホースも全部変えましたし」 と、返事をしておく。

 神城家の恭輔とデルチャはここ数ヶ月家にいないし、留守番の陽輔は車いじりはあまり詳しくない。

 結果、アルカードが定期的に神城家に出入りしてエンジンオイルや冷却水を交換したり、キャブレターの中身のガソリンが腐敗したりしない様にキャブレターのフロート室からガソリンを抜いたり、ある程度の長時間エンジンを稼働させたりする役目を請け負っていた――当初は池上の仕事だったのだが、彼が何度か都合がつかなくてアルカードがやっているうちにアルカードの仕事になってしまったのだ。

 面倒と言えば面倒な仕事だが、まあ冷却水交換以外は一時間もかからないので、割のいいバイトではある。

 意外に思われるかもしれないがガソリンは腐るもので、キャブレターの様に空気に触れる場所に少量のガソリンを放置しておくと腐敗しやすい――無論三日前のご飯の様に雑菌が繁殖して腐るというものではなく、ガソリンの揮発成分が揮発して無くなったのちにガソリンの着色料や香料その他の添加物だけが残って変質した状態を便宜上腐敗というのだが(※)。

「クーラントはいつ替えてくれた?」

「去年の年末です。ですから、まあ五年四ヶ月くらいは持つ計算になりますかね」

「そうか。ありがとう」 忠信の謝辞にうなずいて、アルカードは壁に掛けられた部品屋のカレンダーに視線を向けた。八月十七日。

 部品屋がすでに夏季休暇に入っているのが痛い――当然メーカー系の部品商もすでに盆休み満喫中なので、純正部品の調達は難しい。

 だからだろう、忠信の用意した部品類は特に経年劣化の激しい部品に関して細々としたものまでオーダーされている。五月の頭――フィオレンティーナと遭遇するしばらく前にエンジンオイルを交換したときに問題無かったオイルシールまで交換するのは、しばらく不動車だった車を再び使い始めたときに不具合が一気に噴出する可能性を早めに潰すためだろう。

 必要なのはファンベルトにドライブシャフトやボールジョイントのブーツ、つまり自在継手や球体関節を水やゴミから保護するゴム製のカバーなので、部品商が営業していれば簡単に調達出来るたぐいのものばかりだ。だがその肝心の部品商もすでに夏休みに入っているので、用意していなかった部品に問題が出たら手の打ち様が無くなってしまう。それを避けるために、事前に思いつく限りのゴム製消耗品をすべて用意したのだろう。

「もし手持ちの部品以外に欠品が出たら、大手の用品チェーンなんかで売ってるかな?」

 という忠信の質問に、アルカードは部品待ちなのか作業が止まったまま工場の片隅で放置されているフィットに視線を向けた。

「無いでしょうね――だってほら、そこのフィット。ベルトとウォーターポンプ交換で入ってきてますが、あれ大手のチェーンからの丸投げだそうです。ディーラーにも無いでしょう――基本、部品の在庫は持たないものですし」

 GD1型、二〇〇一年に発売された初代のホンダ・フィットだ――池上からはベルト類とウォーターポンプ、エンジン内部の冷却水の温度が上がるとラジエターの熱交換器に水を流すための水路を開くサーモスタットの交換で入庫したのだと聞いている。入庫が部品商が池上の工場が盆休みに入る前日で、部品商もメーカー系部品商もすでに休暇に入っており、そのために部品入荷が遅れて入庫しても手がつけられない状態らしい。

 盆休み中に使いたかったらしい顧客のほうはギャンギャンわめいて駄々をこねているらしいが、池上的にはどうしようもないので放置している様だった――ぶっちゃけそんなもんをわざわざ工場のほうに知らせてくる量販店側の神経も、いささか理解に苦しむがものがあるが。もっと早くに修理出せばいいだけの話だろうに。

 先日今日の件で電話したときに散々愚痴られた会話の内容を思い出しつつ、ほら、幹線道路沿いの――そう続けると、忠信は納得した様に柏手を打った。

「現行車ですら無いとなると、こんな車じゃ望み薄だな」

「そう思います。ところで――」

 アルカードは足元に置かれた高輝度放電式ディスチャージヘッドライトユニットのコンバートキットを視線で示して、

「なんでバイク用なんですか?」

 足元に置かれた高輝度放電式ディスチャージヘッドライトのコンバートキットは二輪車用の国産HIDのトップメーカーであるアブソリュート製のもので、ヘッドライトユニットひとつだけでロービームとハイビームの両方をまかなう規格の製品だ。

 当然ヘッドライトの燈体ひとつぶんしか入っていないので、忠信は二個購入したらしい――アブソリュート製のHIDキットは品質がしっかりしているぶん高価なのだが、豪気なことだ。


※……俺がレッドバロン某店で働いていたとき、出張引き取りで一番多かったのが原付やキャブレターつき中型バイク(当時はインジェクションつき中型車はほとんどありませんでした)を長時間放置したことによるガソリンの腐敗でした。

 キャブレター内部のガソリンが腐ると緑色のガム状に変化し、キャブレターにガソリンを供給するフロートが固着したり混合気を作り出すジェットと呼ばれる部品の細かい穴が詰まって分解点検整備オーバーホールが必要になります。キャブレターには長期間使用しない場合にガソリンを抜き取るためのドレンプラグがついているので、キャブ車に乗ってる方は使用中断前に必ずガソリンを抜いておきましょう。原付ならともかく単車の場合、オーバーホールひとつで結構な工賃をとることになりますので。

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