Balance of Power 26
「昼間ならともかく、夜に男の住居にひとりでやってくるってのはどうなんだ?」 こめかみを指で揉みながら、アルカードはそんなことを言ってきた。彼は昼間でもどうかと思うけど、と付け加えてから、
「俺が言うのもなんだが、その手の冗談は面白くないぞ――こないだの狗狼態のまま一緒に寝るとかいうのもそうだが」
「そうですか?」 別に冗談で言ったつもりは無いのだが、吸血鬼は少々たちの悪いジョークのたぐいだと受け止めたらしい。アルカードは顔を顰めたまま、
「ああ、女性が言うのは感心出来んな――君たちが寝てる間に、俺が人間の姿に戻って襲ったりしたらどうするんだよ。男の俺はともかく、女の君らは軽率な行動や冗談が原因でかかえ込む厄介事が大きすぎるだろ」
男の俺は血縁がひとり増えても母親ごと棄てれば済むが、女の君たちは違うだろう――アルカードはそう続けてからコーヒーに口をつけ、
「その手の冗談をな、俺が言うのは別にいいんだよ――男の俺が言うぶんには自分が実行しなけりゃなにも起こらないが、君たちがその手の冗談を飛ばして俺が真に受けて襲いかかったりしたら、君たちそれを力づくで防げないだろ」
「大丈夫ですよ、別に――そんな心配、したこともありません」 というリディアの返答に、アルカードが不貞腐れた様な表情でテーブルに頬杖を突いた。リディアはにこやかに笑いながら、
「なんていうか、貴方はそういうタイプじゃないです」
「俺と君がはじめて会ってから、まだ半月だぜ――おたがいに、相手のことを深く知るほど長いつきあいでもないと思うが」
「ええ――でも一目見ただけでもわかることもありますよ」 ニコニコ笑いながらそう返事をして、リディアはアルカードの視線を捉え、
「なんというか、眼が違うんですよ――特に昨日の吸血鬼たちなんかと比べると。うまく言えませんけど」
胡乱そうな顔をしているアルカードに、リディアははたはたと手を振って、
「まあ少なくとも、貴方がそれを好む様な人物かどうかくらいは、見ればわかります――アルカードは女性を手篭めにしたりしようなんて、間違っても考えないでしょう?」
「それはあれだ、どう受け止めればいいのかわからんな」 信用されてるのかへたれだと思われてるのか、どっちなんだ?とぼやくアルカードに、リディアはテーブルに両手で頬杖を突いて笑いながら続けた。
「信用してるんですよ。貴方はそんな下劣な欲望よりも自分の誇りのほうが大事だし、自分に信頼を寄せる相手を裏切って利用したり切り棄てようなんてことは考えもしない人です、吸血鬼アルカード。それに――」
「それに?」 あからさまに胡乱げな様子で眉間に皺を寄せ、金髪の吸血鬼は今度は逆の手でテーブルに頬杖を突いて先を促した。
「そんなことを考えて実行する様な人は、子供や動物相手にあんなに優しい顔で笑いません。だから、ここは居心地がいいんです」
視線を捉えて微笑しながらそう続けると、アルカードはなんとなく照れ臭そうに視線をそらした――なんと返事をすればいいかわからなくなったのだろう、空気を変えようとしたのか、
「ところで、パオラやお嬢さんから連絡はあったか?」
「三十分ほど前に、一度――これから帰るって言ってましたから、そろそろ」 そう言いかけたところで、窓の外をパオラとフィオレンティーナが通り過ぎていくのが見えた。パオラがこちらに気づいたらしく、窓の向こうでふたりが足を止める。凛と蘭は自宅に帰ったのか、一緒ではない様だった。
アルカードの位置からでは死角になっていたのだが、こちらの視線を追ってそれに気づいたのだろう、彼は肩越しに窓の外に視線を向けてから立ち上がり、窓のほうに歩いていった。
「やあ」 窓を開けてそう声をかけると、パオラとフィオレンティーナは彼に向き直って返事をした。
「なにしてるんですか?」 フィオレンティーナの質問に、
「暇だったからリディアにつきあってもらってコーヒー飲んでた。君たちもどうだ?」
「喜んで。ね、フィオ?」 パオラがそう返事をしてから、フィオレンティーナに同意を求めて視線を投げる。あまり気の進まない様子ではあったが、フィオレンティーナはうなずいた。
「じゃ、荷物だけ片づけてお邪魔しますね」 パオラがそう言って、フィオレンティーナを促して共用廊下のほうに歩いていく。
「凛ちゃんと蘭ちゃんが一緒じゃなかったですね」 リディアがそう言うと、アルカードは窓を閉めながらうなずいた。
「ふたりはスケートリンクに残ってるんだろうな。そろそろ練習の始まってる時間帯だから」
彼はそう返事を返して、キッチンのほうに歩いていった――その返答の意味はもちろん理解出来る。
「ああ、今からなんですか?」 壁に掛けられた時計を見ながらそう聞き返すと、アルカードはうなずいた。
蘭と凛は地元のフィギュアスケートのクラブに所属しているらしく、時折練習に行っているのだと聞いている――昨日の昼間に約束したときはスケートリンクで遊んで、そのまま練習を見てくる予定だったのだが、なにかあったのだろうか。
「ところで、ふたりとも上手なんですか?」
リディアの質問にすぐに返事をせずに、アルカードは薬缶に水を足して火にかけた。サイフォンのフラスコのコーヒーも中途半端に残っているからだろう、いったん中身を棄てて水で濯ぎ、再び水をたっぷり入れて火にかける。
「蘭ちゃんはそこまで熱心でもないが、凛ちゃんがずいぶん入れ込んでてな――ま、技量はまだまだだが」 丁寧に豆を挽きながらアルカードがそんな答えを返したときインターフォンが鳴って、リビングの入り口の扉の脇にしつらえられたモニターにパオラとフィオレンティーナの姿が映し出された。
「おっと」 挽いた豆を入れた過紙を再度漏斗にセットしてから、アルカードがリビングから出ていく。それを追う様にして、犬たちがリビングから出ていった――しばし間を置いて、パオラとフィオレンティーナが犬たちに案内される様にしてリビングに入ってくる。
「調子はどうですか?」 フィオレンティーナの質問に、リディアは小さくうなずいた。
「大丈夫。とりあえず今はね」
「アルカード、リディアの送迎を引き受けてくれてありがとうございます。付き添えなくてごめんなさい」
パオラのかけたその言葉に、アルカードは適当に手を振ってみせた――パオラが一緒に病院に来ていなかったのは、昨日の時点で蘭と凛と一緒に遊ぶ約束をしていたために、パオラの同行をリディアが断ったからだ。
子供たちに正確な事情を説明するわけにもいかないし、だから怪我の程度もちゃんと説明していなかったので、病院に行ったらあとは遊べると思った凛が車中で受けたメールを寄越したのである――怪我をしたこと自体は知っていたから、断られてすぐにあきらめたのだろうが。
アルカードはふたりに席を薦めてから、すでに沸騰していたサイフォンのお湯が漏斗に上がっているのを見てカウンターの上のソーサーに寝かせてあった竹べらを再び手に取り、漏斗の中の液体を掻き回し始めた。
「ふたりだけでお茶してたんですか?」 席に着きながら、フィオレンティーナがそんなことを言ってくる。
「うん。だって誘おうと思ったら、フリドリッヒ出掛けちまったし」 アルカードはそんな返事を返してから、いったん離していたアルコールランプを再びフラスコの下に押し入れた。
「まあぶっちゃけて言えば暇だったんだよ――犬を尾奈川の向こうの公園まで連れて行こうと思ってたけど、こいつら暑いから外に出たがらなくてね」 そんなことを言いながら再び漏斗の中身を撹拌して、アルカードはフラスコの下からアルコールランプを取り除き、蓋をかぶせて火を消した。
「ソバちゃん暑そうですもんね。黒いから」 ベンチの上でひっくり返ったソバのお腹をさすりながら空いた手でテーベッカライを一枚つまみ、パオラがそんな返事を返す。
「そうなんだ」 アルカードが同意して、
「それに、路面をじかに肢で踏んで歩くのがつらいみたいでな」
「それはそうでしょうね――素足で歩いてる様なものですし」 とフィオレンティーナが同意する。
「盥かなにかに水を入れて、プール代わりに水遊びとかいいんじゃないですか?」
「ああ、いいかもね――今度ちょっと氷も入れて冷やした水でやってみようかな」
アルカードはリディアの提案にそんな返事を返してから、フラスコの中に落ちたコーヒーをカップに注いでパオラとフィオレンティーナの前に置いた。
「いただきます」 ふたりがそう言って、カップを手に取る――パオラが砂糖の瓶に手を伸ばし、猫舌のフィオレンティーナはコーヒーにふうふう息を吹きかけ始めた。
まだあと一杯ぶんくらい余ったからか、リディアのカップが空になっているのに気づいて声をかけてくる。
「もう一杯どうだ?」
「いただきます」 リディアがそう答えると、アルカードはカップを受け取っていったん温め直すためか薬缶のお湯を注ぎ込んだ。
「ところで、スケートリンクはどうだった?」
「いえ、普通のリンクでしたけど――スケートは楽しかったですよ」 アルカードの質問に、パオラがそう答える。
「凛ちゃんの練習は見られなかったですけど」
「ん?」 スケートクラブの規約でも思い出しているのか上目遣いで天井を見ながら、アルカードがそんな声をあげて首をかしげる。彼はリディアのカップにコーヒーを注いで再び彼女の前に置いてから、
「練習中はリンクは使えなくなるけど、見るのは勝手じゃなかったか?」
「それがクラブの先生が交通事故に遭ったらしくて、今日は教室がお休みだったんですよ――フリーの時間帯に滑るだけ滑ってから、蘭ちゃんと凛ちゃんは駐車場前で別れて家に帰ったんです」
なるほど、と小さくうなずいて、アルカードは冷蔵庫の中に入れてあったタッパーウェアを取り出した。
「容態は?」
「あんまり詳しいことは。でも、車に跳ねられたらしいです。怪我自体は擦り傷だけですけど、頭を打ったとかで検査入院を」
ああなるほど、と返事をして、アルカードがシンクの上にタッパーウェアを置く音が聞こえてきた。
タッパーウェアの中には水に漬けられた取っ手付きの袋の様なものが入っている。茶濾の金網が布袋になっていると形容するのが、外観を表現するなら一番近いだろう。
ネル・ドリップというコーヒー抽出の方法に使う、ありていに言えば漉し袋だ――もうだいぶ長いこと触っていないが、聖堂騎士団の寮内におけるリディアの愛用品でもある。
水浸しにされていたのは、乾燥するのを防ぐためだろう――コーヒーをこぼしたまま放置して乾燥した服がそうなる様に、使用済みのネルの濾し袋が乾燥すると布地に附着したまま取りきれなかったコーヒーの脂肪分が空気に触れて酸化し、ひどい悪臭を放つからだ。
水気を絞っているのか、水滴が流し台に落ちるバタバタという音が聞こえてくる――ネル・ドリップはサイフォンに比べると比較的、否かなり単純で、コーヒー豆を袋に入れてお湯を注ぐだけなので、手間はまあ知れている。
薬缶をかけたコンロの火を止めたままにしてあったのだろう、コンロに点火するときのぱちぱちというスパークプラグの放電音が聞こえてきたところで再びインターフォンが鳴り、犬たちがそれに反応して壁に視線を向けた。
アルカードがいったん火を止めて壁際のモニターに歩み寄り、
「はい」
「シロネコヤマトと」
「ガランチョウ便の」 どうも部屋の前にはふたりいるらしい――名乗りから察するに宅配便の様だが。
「お荷物でーす」
あんたら競合企業だろうが、なんでネタ合わせなんぞしてるんだよ――声を揃えて名乗りを上げるふたりの配達員にそうぼやきながら、アルカードがリビングの扉を開けて廊下に出ていく。開け放された扉をくぐって、犬たちも外に出ていった。
アルカードがインターフォンを切らなかったからだろう、モニターに映ったふたりの運送屋の会話が筒抜けになっている。
「ここに荷物を運ぶと、犬が出迎えてくれるんですよ」
「あ、いつもこのへんの担当してる奴から聞きました。白黒茶色の柴ですよね」
「そうそう、黒い仔が指鉄砲を作ってバキューンってやると死んだふりを――」
いつの間にやらソバが芸を身につけているらしい。そこで扉の開く音がして、ふたりの会話が止まる。
「あ、すいません、お荷物です」
「ここんとこにサインを――」
「これお控えです」
「ありがとうございましたー」 手空きの配達員が犬をあやす声を時折交えつつそんな感じの言葉が飛び交ったあと、配達員が帰ってアルカードも小さな段ボール箱を二個持って戻ってきた。
箱をソファに放り出したところで、インターフォンがオンになったままなのに気づいてスイッチを切る――アルカードはキッチンに戻ってガスコンロに火をつけ、何事も無かったかの様に作業を再開した。
「あれ、なんですか?」
ソファの肘掛けの向こうに端っこだけ見えている箱に視線を向けてフィオレンティーナが尋ねると、
「ああ、それか」 アルカードはあっさりと返事をしてきた。
「工具だよ――ネットの通信販売で注文しておいたのが、さっき届いたんだ」 アルカードはそう答えて、それ以上説明するつもりも無いのかミルを使ってコーヒー豆を挽き始めた。
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